第1話 冬の手紙
辺境の冬は、音が少ない。
雪が全部吸い込んでしまうのだ。風の唸りも、木々のざわめきも、自分の足音さえも──白い地面に降りた途端、綿に包まれたみたいに丸くなる。
朝の維持儀式を終えて術式陣を離れると、隣にギルベルト閣下がいた。
いた、というか──待っていた。儀式が終わるまで、少し離れた場所に立って、腕を組んで、じっとこちらを見ないふりをしていた。最近はそれが当たり前になっている。
三週間前の夕暮れに、この人は私の手を取って「ずっと、温めてやる」と言った。私は「お受けいたします」と答えた。
──のだが。
翌朝から、何事もなかったかのように日常が続いている。
ギルベルト閣下は相変わらず報告書に一行で返事をくれるし、朝は儀式のそばに来るし、茶葉は切れたことがない。変わったのは──変わったのは、たぶん、私のほうだ。
あの夜のことを思い出すたびに、耳の奥がじんと熱くなる。それなのに、口から出るのは「閣下」の二文字だけで。
(……あの時は握り返せたのに。なんで今、隣を歩くだけでこんなにぎこちないの)
ぎこちない。本当にぎこちない。二人で並んで歩いているだけなのに、腕の振り方すらわからなくなっている。三週間前のほうがよっぽど自然に手を握れたのは──あれが暗闘のあとの高揚だったからだろうか。日常に戻ると、途端に。
ギルベルト閣下もギルベルト閣下で、視線を逸らしている。逸らし方がぎこちない。外套の襟を何度も直している。冬の辺境で三十年暮らした人が、襟の位置くらいで手間取るはずがない。
(……閣下も、気まずいんだ)
それがわかったら、少しだけ可笑しくなった。
館への道を並んで歩く。雪を踏む音だけが、かさり、かさり、と鳴る。
ふいに、閣下の歩みが止まった。
「……ヴァレンヌ」
「はい」
閣下が、私の手元を見ている。
あ。手袋を外したままだった。儀式の時に素手で術式陣に触れるから、そのまま忘れていた。指先が赤くなっている。いつものことだ。
「手が」
一言。
それだけ言って、閣下が私の両手を取った。
大きな掌で、包むようにして。
──息を、吹きかけた。
温かい。吐息がじわりと指先に触れて、冷えきった関節がほどけていく。ゆっくりと、もう一度。は、と白い靄が掌の中に溜まって、すぐに消える。
「閣下、手が──」
「冷えていた」
短い。いつも通り短い。
けれど手を離さない。離さないまま、もう一度息を吹きかける。三週間前に「ずっと、温めてやる」と言ったことの、たぶんこれが──日常版だ。
(……言葉の少ない人だと思っていたけど、行動のほうはずいぶん饒舌じゃないですか)
顔が熱い。指先は温まったのに、今度は頬が燃えている。差し引きゼロだ。全然解決していない。
「……ありがとうございます、閣下」
手を引くと、閣下は何も言わずに歩き出した。
その背中を追いかけながら、さっき一瞬だけ見えたものを反芻する。
私が「閣下」と呼んだ時、ギルベルト閣下の眉が──ほんの一瞬だけ、動いた。
寄せたのではない。上がったのでもない。ぴくり、と。何かを飲み込んだような、微かな動き。
(何だろう、今の)
わからないまま、館の扉が近づいてきた。
◇
執務室は暖炉の火が入っていて温かかった。
日課の報告書を書いている最中に、マルクが入ってきた。手に封書を持っている。
「ヴァレンヌ殿。王都からの書状が二通です」
二通。
一通目は、宮廷記録局からの事務的な通達だった。
──ルヴェール子爵家との婚約、正式に破棄済み。
短い文面だった。数行の法律用語と、記録局の印。エドモンの署名がある。あの少し右に傾く字は見覚えがあった。
(……ようやく、出したんだ)
あの人は辺境まで来て「戻ってきてくれ」と言いながら、この手続きすらしていなかった。それが今──宰相の布告書のあとで、ようやく。
自分のなかに何が残っているか、確かめるように胸の奥を探った。
何もない。
怒りも、悲しみも、安堵すらも──薄い。紙を一枚めくるような、それだけの感触。
引き出しにしまった。
問題は二通目だった。
「……神殿次長、オーギュスト・ヴェルニエ」
蝋印を見て、マルクの表情がわずかに変わった。
宰相府の紋章ではない。神殿の蝋印だ。差出人はヴェルニエ侯爵家次男、神殿次長。ドラクロワの後任──の最有力候補。
封を切る。
丁寧な筆跡だった。文面も整っている。慇懃で、礼を尽くした書き方だ。
──内容は、「技術指導要請」。
王都の結界再構築に際し、ヴァレンヌ・リゼットの技術指導を仰ぎたい。つきましては王都への一時帰還を要請する。
(……指導を「仰ぎたい」、か。追放した相手に)
丁寧な言葉遣いの奥に、押しの強さが透けている。文面の端に「神殿評議会の総意として」と添えてあるのが、個人の要請ではなく組織の要請だと言いたいのだろう。
けれど。
文面を二度読んで、三度目は特定の箇所だけを指でなぞった。
「マルク」
「はい」
「この要請書、宰相府を経由していません」
マルクの目が鋭くなった。
「辺境伯領の技官長に対する人事異動・一時帰還の要請は、宰相府の公式決裁を経由する必要があります。結界管理規則の第七条です。──神殿次長の独断では、手続き上無効です」
声は、自分でも驚くほど平坦に出た。
三週間前の私なら──いや。追放された日の私なら、この書状に動揺していたかもしれない。王都からの呼び出し。聖女の命令。神殿の意向。
でも、もう知っている。
セシル様が教えてくれた規則を。あの夕暮れの廊下で突きつけた三つの指を。宰相閣下が布告書に刻んだ事実を。
規則は、私を守る。正しく使えば。
「……手続き不備だな」
ギルベルト閣下の声が、横から落ちてきた。
閣下は執務机の向こう側で報告書の朱を入れていた手を止めて、こちらを見ている。灰色の瞳に、硬い光が差している。あの使者を前にした時と同じ──静かな、けれど動かない光。
「宰相府に照会を入れる。それまで──」
間。
「ここにいろ」
短い。
三週間前に聞いた「ずっと、温めてやる」とは全然違う、素っ気ない一言だ。
でも意味は同じだと思った。
「……はい」
頷いて、封書をもう一度見下ろす。
手続きの不備を見抜けたことに、少しだけ──ほんの少しだけ、胸を張りたい気持ちがあった。あの廊下で追放を告げられた時、規則の存在すら武器にできなかった私とは違う。
もう、知らないふりはしない。
◇
夜。官舎の部屋で、窓から結界の光を眺めていた。
私の魔力で紡いだ淡い燐光が、雪原の上にうっすらと帯を引いている。安定して、穏やかに、呼吸するように明滅を繰り返す。赴任した頃の弱々しい脈動が嘘のようだ。
マルクが夕方、オーギュスト・ヴェルニエについて教えてくれた。
「ドラクロワ閣下の補佐を務めていた方です。更迭後は『改革派』として神殿の立て直しに尽力されているとか。結界管理の正常化を掲げて、次の神殿長候補として名前が挙がっています」
改革派。ドラクロワの不正を糾弾した側。
(……悪い人ではないのかもしれない)
そう思いかけて──立ち止まった。
フローレンス様も「悪い人」ではなかった。ただ、知らなかっただけだ。知ろうとしなかっただけだ。
悪意がないことと、正しいことは、違う。
あの書状の文面は丁寧だった。けれど手続きを省いた。改革派を名乗るなら、手続きの正しさには誰より敏感であるべきだ。なのに宰相府を通さなかった。
(急いでいたのか。それとも──通す必要がないと思ったのか)
どちらにしても、引っかかる。
棚の上に、蜂蜜入りジンジャーティーの茶葉がある。赴任初日から──一度も切れたことがない。送り主が誰なのかは、もう知っている。
茶を淹れた。甘い湯気の中で、指先を温める。
今朝、あの人が息を吹きかけてくれた指。
(「ここにいろ」、か)
ここにいる。ここにいたい。
でも──王都で何かが動き始めているのなら、目を逸らすわけにもいかない。
ヴェルニエ侯爵家次男。神殿次長。改革派。
その名前を、頭の隅に留めておく。
窓の外で、結界の光が静かに揺れていた。




