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【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第1話 冬の手紙


 辺境の冬は、音が少ない。


 雪が全部吸い込んでしまうのだ。風の唸りも、木々のざわめきも、自分の足音さえも──白い地面に降りた途端、綿に包まれたみたいに丸くなる。


 朝の維持儀式を終えて術式陣を離れると、隣にギルベルト閣下がいた。


 いた、というか──待っていた。儀式が終わるまで、少し離れた場所に立って、腕を組んで、じっとこちらを見ないふりをしていた。最近はそれが当たり前になっている。


 三週間前の夕暮れに、この人は私の手を取って「ずっと、温めてやる」と言った。私は「お受けいたします」と答えた。


 ──のだが。


 翌朝から、何事もなかったかのように日常が続いている。


 ギルベルト閣下は相変わらず報告書に一行で返事をくれるし、朝は儀式のそばに来るし、茶葉は切れたことがない。変わったのは──変わったのは、たぶん、私のほうだ。


 あの夜のことを思い出すたびに、耳の奥がじんと熱くなる。それなのに、口から出るのは「閣下」の二文字だけで。


 (……あの時は握り返せたのに。なんで今、隣を歩くだけでこんなにぎこちないの)


 ぎこちない。本当にぎこちない。二人で並んで歩いているだけなのに、腕の振り方すらわからなくなっている。三週間前のほうがよっぽど自然に手を握れたのは──あれが暗闘のあとの高揚だったからだろうか。日常に戻ると、途端に。


 ギルベルト閣下もギルベルト閣下で、視線を逸らしている。逸らし方がぎこちない。外套の襟を何度も直している。冬の辺境で三十年暮らした人が、襟の位置くらいで手間取るはずがない。


 (……閣下も、気まずいんだ)


 それがわかったら、少しだけ可笑しくなった。


 館への道を並んで歩く。雪を踏む音だけが、かさり、かさり、と鳴る。


 ふいに、閣下の歩みが止まった。


「……ヴァレンヌ」


「はい」


 閣下が、私の手元を見ている。


 あ。手袋を外したままだった。儀式の時に素手で術式陣に触れるから、そのまま忘れていた。指先が赤くなっている。いつものことだ。


「手が」


 一言。


 それだけ言って、閣下が私の両手を取った。


 大きな掌で、包むようにして。


 ──息を、吹きかけた。


 温かい。吐息がじわりと指先に触れて、冷えきった関節がほどけていく。ゆっくりと、もう一度。は、と白い靄が掌の中に溜まって、すぐに消える。


「閣下、手が──」


「冷えていた」


 短い。いつも通り短い。


 けれど手を離さない。離さないまま、もう一度息を吹きかける。三週間前に「ずっと、温めてやる」と言ったことの、たぶんこれが──日常版だ。


 (……言葉の少ない人だと思っていたけど、行動のほうはずいぶん饒舌じゃないですか)


 顔が熱い。指先は温まったのに、今度は頬が燃えている。差し引きゼロだ。全然解決していない。


「……ありがとうございます、閣下」


 手を引くと、閣下は何も言わずに歩き出した。


 その背中を追いかけながら、さっき一瞬だけ見えたものを反芻する。


 私が「閣下」と呼んだ時、ギルベルト閣下の眉が──ほんの一瞬だけ、動いた。


 寄せたのではない。上がったのでもない。ぴくり、と。何かを飲み込んだような、微かな動き。


 (何だろう、今の)


 わからないまま、館の扉が近づいてきた。



 執務室は暖炉の火が入っていて温かかった。


 日課の報告書を書いている最中に、マルクが入ってきた。手に封書を持っている。


「ヴァレンヌ殿。王都からの書状が二通です」


 二通。


 一通目は、宮廷記録局からの事務的な通達だった。


 ──ルヴェール子爵家との婚約、正式に破棄済み。


 短い文面だった。数行の法律用語と、記録局の印。エドモンの署名がある。あの少し右に傾く字は見覚えがあった。


 (……ようやく、出したんだ)


 あの人は辺境まで来て「戻ってきてくれ」と言いながら、この手続きすらしていなかった。それが今──宰相の布告書のあとで、ようやく。


 自分のなかに何が残っているか、確かめるように胸の奥を探った。


 何もない。


 怒りも、悲しみも、安堵すらも──薄い。紙を一枚めくるような、それだけの感触。


 引き出しにしまった。


 問題は二通目だった。


「……神殿次長、オーギュスト・ヴェルニエ」


 蝋印を見て、マルクの表情がわずかに変わった。


 宰相府の紋章ではない。神殿の蝋印だ。差出人はヴェルニエ侯爵家次男、神殿次長。ドラクロワの後任──の最有力候補。


 封を切る。


 丁寧な筆跡だった。文面も整っている。慇懃で、礼を尽くした書き方だ。


 ──内容は、「技術指導要請」。


 王都の結界再構築に際し、ヴァレンヌ・リゼットの技術指導を仰ぎたい。つきましては王都への一時帰還を要請する。


 (……指導を「仰ぎたい」、か。追放した相手に)


 丁寧な言葉遣いの奥に、押しの強さが透けている。文面の端に「神殿評議会の総意として」と添えてあるのが、個人の要請ではなく組織の要請だと言いたいのだろう。


 けれど。


 文面を二度読んで、三度目は特定の箇所だけを指でなぞった。


「マルク」


「はい」


「この要請書、宰相府を経由していません」


 マルクの目が鋭くなった。


「辺境伯領の技官長に対する人事異動・一時帰還の要請は、宰相府の公式決裁を経由する必要があります。結界管理規則の第七条です。──神殿次長の独断では、手続き上無効です」


 声は、自分でも驚くほど平坦に出た。


 三週間前の私なら──いや。追放された日の私なら、この書状に動揺していたかもしれない。王都からの呼び出し。聖女の命令。神殿の意向。


 でも、もう知っている。


 セシル様が教えてくれた規則を。あの夕暮れの廊下で突きつけた三つの指を。宰相閣下が布告書に刻んだ事実を。


 規則は、私を守る。正しく使えば。


「……手続き不備だな」


 ギルベルト閣下の声が、横から落ちてきた。


 閣下は執務机の向こう側で報告書の朱を入れていた手を止めて、こちらを見ている。灰色の瞳に、硬い光が差している。あの使者を前にした時と同じ──静かな、けれど動かない光。


「宰相府に照会を入れる。それまで──」


 間。


「ここにいろ」


 短い。


 三週間前に聞いた「ずっと、温めてやる」とは全然違う、素っ気ない一言だ。


 でも意味は同じだと思った。


「……はい」


 頷いて、封書をもう一度見下ろす。


 手続きの不備を見抜けたことに、少しだけ──ほんの少しだけ、胸を張りたい気持ちがあった。あの廊下で追放を告げられた時、規則の存在すら武器にできなかった私とは違う。


 もう、知らないふりはしない。



 夜。官舎の部屋で、窓から結界の光を眺めていた。


 私の魔力で紡いだ淡い燐光が、雪原の上にうっすらと帯を引いている。安定して、穏やかに、呼吸するように明滅を繰り返す。赴任した頃の弱々しい脈動が嘘のようだ。


 マルクが夕方、オーギュスト・ヴェルニエについて教えてくれた。


「ドラクロワ閣下の補佐を務めていた方です。更迭後は『改革派』として神殿の立て直しに尽力されているとか。結界管理の正常化を掲げて、次の神殿長候補として名前が挙がっています」


 改革派。ドラクロワの不正を糾弾した側。


 (……悪い人ではないのかもしれない)


 そう思いかけて──立ち止まった。


 フローレンス様も「悪い人」ではなかった。ただ、知らなかっただけだ。知ろうとしなかっただけだ。


 悪意がないことと、正しいことは、違う。


 あの書状の文面は丁寧だった。けれど手続きを省いた。改革派を名乗るなら、手続きの正しさには誰より敏感であるべきだ。なのに宰相府を通さなかった。


 (急いでいたのか。それとも──通す必要がないと思ったのか)


 どちらにしても、引っかかる。


 棚の上に、蜂蜜入りジンジャーティーの茶葉がある。赴任初日から──一度も切れたことがない。送り主が誰なのかは、もう知っている。


 茶を淹れた。甘い湯気の中で、指先を温める。


 今朝、あの人が息を吹きかけてくれた指。


 (「ここにいろ」、か)


 ここにいる。ここにいたい。


 でも──王都で何かが動き始めているのなら、目を逸らすわけにもいかない。


 ヴェルニエ侯爵家次男。神殿次長。改革派。


 その名前を、頭の隅に留めておく。


 窓の外で、結界の光が静かに揺れていた。

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