第10話 ずっと、温めてやる
辺境の空に、光が満ちていた。
術式陣に両手を置いた瞬間、それはわかった。魔力の脈動が掌を押し返してくる。もう「吸い上げる」ではない。満ちて、溢れて、自分から光を放とうとしている。
完成だ。
指を離すと、術式陣が強く輝いた。朝日を受けた燐光が雪原に広がり、地平線に沿って帯を引く。赴任した日の弱々しい光とは別物だった。先代の結界が私の魔力を受け入れ、新しい命を宿して──今、自分の足で立とうとしている。
「……がんばったね」
セシル様がそうしていたように。結界に話しかけるように。
術式陣が、応えるように瞬いた。
「光った──!」
背後で、騎士たちの声が弾けた。
「完成か!? ヴァレンヌ殿、完成ですか!?」
「はい。結界は安定しました」
振り返って頷くと、数人の騎士が拳を突き上げた。雪原の真ん中で、甲冑を着た男たちが子供みたいに喜んでいる。
(……いい人たちだなあ)
王都では一度も、こんなふうに喜んでもらったことがなかった。
マルクが駆け寄ってきた。柔和な顔が、珍しく紅潮している。
「ヴァレンヌ殿。おめでとうございます。──閣下にお伝えしてきます」
言い終わる前に、もう走り出していた。外套の裾が雪を巻き上げている。
この穏やかな副官が全力で走るのを見るのは、宰相閣下の来訪通信の時以来だ。
(あの時は不穏だったけど、今日は……)
雪原に立ったまま、もう一度結界の光を見上げた。
淡い燐光。私の魔力で紡いだ光。
王都で七年間守り続けた光と、同じ色だ。
◇
昼過ぎ。官舎に戻ると、マルクが手帳を片手に待っていた。
「王都の続報です。王宮魔術師団がヴァレンヌ殿の引き継ぎ書類をもとに、結界の再構築に着手したそうです」
あの書類。追放の日に木箱の底に入れて、宰相閣下に渡した三十ページ。
「再構築には時間がかかりますが、道筋はできた、と」
「……そうですか」
道筋ができた。それだけで十分だった。あの結界は私が七年間育てたものだ。壊れたままにしたくなかった──たとえ、もう私の手で守ることはなくても。
「それから」
マルクが手帳をめくった。
「聖女フローレンス様は癒しの儀式に専念されているそうです。……華やかな社交の場からは退いた形ですが、癒しの加護で人々を助ける仕事は続けておられると」
フローレンス様。
あの方の加護は本物だ。結界は守れなくても、傷ついた人を癒す力は誰にも否定できない。社交界の花ではなくなっても──その手で救われる人がいるなら、それはそれで正しい道なのかもしれない。
「ドラクロワ元神殿長は隠居。エドモン・ルヴェール殿は──」
マルクが一瞬、言葉を選んだ。
「ヴァレンヌ殿に手紙を送ろうとされたそうですが……何度書こうとしても書けないまま、まだ出せていないようです」
(……書けない、か)
あの人らしい。最後まで、自分の言葉を見つけられない人だった。
もし手紙が届いたら、読むだろうか。
──読むかもしれない。読まないかもしれない。でも、もうそれは私の人生の中心にある問題ではない。
「ありがとう、マルク」
「いえ。あ、それと──」
マルクが、さりげない口調で付け加えた。
「防寒着と茶葉の件ですが。事務方の備品発注記録を確認したところ、該当する記録は一件もございませんでした」
足が、止まった。
「……一件も?」
「ええ。赴任初日からのものも、風邪の時のものも、全てです」
マルクが穏やかに一礼して去った後、官舎の部屋で一人になった。
棚の上に、茶葉の小箱が並んでいる。
赴任初日から──一度も切れたことがない。蜂蜜入りのジンジャーティー。同じ甘い香り。同じ小さな木箱。毛布も、防寒着も、風邪の時の蜂蜜も──「生姜によく合う」と殴り書きされた、あの無骨な字の小瓶も。
全部。
全部、あの人だった。
赴任初日に私が寒がっているのを見て、その夜のうちに毛布と茶葉を届けた。名前を書かずに。聞かれても答えずに。風邪を引けば五回も様子を見に来て、報告書は一人だけ即日で返して、手袋を渡した後は素手で執務して──。
(……ずっと、そうだったんだ)
目の奥が、じわりと熱くなった。
棚の隣に、木箱が置いてある。引き継ぎ書類の控えを入れていた、あの小さな箱。中身はもう空だ。宰相閣下に渡した。七年分の重さを詰め込んでいた箱が、今は嘘みたいに軽い。
空の木箱を、そっと閉じた。
もう、ここに過去を入れておく必要はない。
◇
夕方。結界の最終確認を終えて館に戻ると、ギルベルト閣下が正面玄関の前に立っていた。
外套を羽織って、腕を組んで、石柱に背を預けている。まるで──待っていたかのように。
「閣下?」
「結界の完成、聞いた」
短い。いつも通り短い。けれど声の中に、硬さがない。
「……よくやった」
二度目の「よくやった」を、この人の口から聞いた。一度目は──いや、一度目は「よかった」だった。赴任を受諾した日。あの小さな呟き。
「ありがとうございます。……閣下のおかげです」
「俺は何もしていない」
「茶葉を届けてくださったでしょう」
ギルベルト閣下の動きが、一瞬止まった。
灰色の瞳がこちらを見る。ほんの僅かに──動揺が走った。この人の感情が表に出ること自体が珍しいのに、動揺は初めて見た。
「……マルクか」
「事務方の備品発注記録に、該当なし、だそうです」
ギルベルト閣下が顔を背けた。
耳の先が──赤い。
使者を退けた日に見た赤と、同じ色だ。あの時は暖炉のそばだったから寒さのせいだと思い込めた。けれど今は夕暮れの屋外で、この人は北方の辺境伯で、この程度の寒さで耳を赤くするような人ではない。
(……やっぱり。あの時も、寒さのせいじゃなかったんだ)
「毛布も、防寒着も、蜂蜜も──全部、閣下ですか」
答えない。
答えない代わりに、ギルベルト閣下が私の手を取った。
大きな手だった。剣だこのある、無骨な手。あの日──魔力切れで倒れかけた私を支えた手。手袋を押しつけてくれた手。外套をかけて、髪に触れそうになって止めた手。
その手が、私の指を──両手で、包んだ。
冷えた指先に、大きな掌の熱が伝わってくる。
「辺境は冬が長い」
低い声。まっすぐにこちらを見ている。灰色の瞳に、夕日の橙色が混じっている。あの夜、「綺麗だ」と呟いた時と同じ目だ。あの時は星だと思った。──違った。
「……寒さに弱いなら、対策を考える」
(……それは)
心臓が、どくん、と鳴った。
「対策、とは」
「ずっと、温めてやる」
──。
世界が、一瞬止まった。
ずっと。
この人の口から「ずっと」という言葉が出てくるのを、初めて聞いた。いつも短くて、主語を省いて、必要最小限の言葉しか使わない人が──「ずっと」と言った。
頬が熱い。耳まで熱い。心臓がうるさくて、自分の声が聞こえない。
でも──口は、勝手に動いた。
「……それは、職務命令ですか?」
自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。いや、落ち着いてなんかいない。声が微かに震えている。けれど笑みが、勝手に浮かんでしまった。
ギルベルト閣下の瞳が、僅かに見開かれた。
それから──耳だけではなく、頬まで赤くなった。この人がここまで色を変えるのを見るのは、初めてだ。
「……個人的な、申し出だ」
低い声が、掠れた。
個人的な。
領主としてでも、上司としてでも、騎士団長としてでもなく──ギルベルト・アッシュフォードという一人の人間としての、申し出。
包まれた手の中で、私の指が温まっていく。大きな掌の熱が、じんわりと、指先から腕へ、腕から胸へ、胸から目の奥へ──伝わっていく。
「……はい」
声が震えた。今度は隠せなかった。
「お受けいたします」
同じ言葉。赴任を受諾した日と、同じ一言。
あの日は声が震えたことに自分で気づいた。今日も──震えている。けれどあの日とは、震える理由が全く違う。
ギルベルト閣下の口角が上がった。
あの微かな変化ではない。はっきりと──笑っている。目尻に皺が寄って、灰色の瞳が細くなって、無愛想な顔に光が差している。
(笑った顔を見るのは、三度目だ。……一番、いい顔をしている)
不意に、涙がこぼれた。
泣くつもりなんてなかった。七年間泣かなかったのに。追放の日も、使者を退けた日も、宰相閣下の「遺憾」を聞いた日も。
なのに──この人の笑った顔を見たら、堰が切れた。
「っ……すみません」
「謝るな」
包んだ手に、ほんの少しだけ力が込もった。壊れ物を持つみたいに、静かに、けれど確かに。
「……泣くな、とは言わない」
ぶっきらぼうに、短く。
「ただ──泣いている間も、離さない」
(……ずるい)
何度目かわからない「ずるい」が胸を過ぎって、涙がまた溢れた。止まらない。止まらないのに、不思議と苦しくない。温かい手に指を包まれたまま、ぼろぼろ泣いている自分が──少しだけ、可笑しかった。
◇
どのくらいそうしていただろう。
涙が止まって顔を上げると、空はすっかり暗くなっていた。
星が出ている。辺境の、降るような星空。その下で──結界の光が、地平線に沿って淡く帯を引いている。
私の魔力で紡いだ光。
七年間、王都で一人で見上げていた光と、同じ色だ。
「……綺麗だ」
ギルベルト閣下の声が、隣から聞こえた。
あの夜と同じ言葉。
けれど今度は──視線の先が、わかる。
灰色の瞳は星を見ていない。結界の光を──私の光を、見ている。
「……ええ」
今度は「星が」とは言わなかった。
代わりに、包まれたままの手を──少しだけ、握り返した。
結界の光が、二人の足元を淡く照らしている。
七年間、誰にも気づかれなかった光と同じ色。
けれど今は──それを見ている人が、隣にいる。




