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【連載版】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第10話 ずっと、温めてやる


 辺境の空に、光が満ちていた。


 術式陣に両手を置いた瞬間、それはわかった。魔力の脈動が掌を押し返してくる。もう「吸い上げる」ではない。満ちて、溢れて、自分から光を放とうとしている。


 完成だ。


 指を離すと、術式陣が強く輝いた。朝日を受けた燐光が雪原に広がり、地平線に沿って帯を引く。赴任した日の弱々しい光とは別物だった。先代の結界が私の魔力を受け入れ、新しい命を宿して──今、自分の足で立とうとしている。


「……がんばったね」


 セシル様がそうしていたように。結界に話しかけるように。


 術式陣が、応えるように瞬いた。


「光った──!」


 背後で、騎士たちの声が弾けた。


「完成か!? ヴァレンヌ殿、完成ですか!?」


「はい。結界は安定しました」


 振り返って頷くと、数人の騎士が拳を突き上げた。雪原の真ん中で、甲冑を着た男たちが子供みたいに喜んでいる。


 (……いい人たちだなあ)


 王都では一度も、こんなふうに喜んでもらったことがなかった。


 マルクが駆け寄ってきた。柔和な顔が、珍しく紅潮している。


「ヴァレンヌ殿。おめでとうございます。──閣下にお伝えしてきます」


 言い終わる前に、もう走り出していた。外套の裾が雪を巻き上げている。


 この穏やかな副官が全力で走るのを見るのは、宰相閣下の来訪通信の時以来だ。


 (あの時は不穏だったけど、今日は……)


 雪原に立ったまま、もう一度結界の光を見上げた。


 淡い燐光。私の魔力で紡いだ光。


 王都で七年間守り続けた光と、同じ色だ。



 昼過ぎ。官舎に戻ると、マルクが手帳を片手に待っていた。


「王都の続報です。王宮魔術師団がヴァレンヌ殿の引き継ぎ書類をもとに、結界の再構築に着手したそうです」


 あの書類。追放の日に木箱の底に入れて、宰相閣下に渡した三十ページ。


「再構築には時間がかかりますが、道筋はできた、と」


「……そうですか」


 道筋ができた。それだけで十分だった。あの結界は私が七年間育てたものだ。壊れたままにしたくなかった──たとえ、もう私の手で守ることはなくても。


「それから」


 マルクが手帳をめくった。


「聖女フローレンス様は癒しの儀式に専念されているそうです。……華やかな社交の場からは退いた形ですが、癒しの加護で人々を助ける仕事は続けておられると」


 フローレンス様。


 あの方の加護は本物だ。結界は守れなくても、傷ついた人を癒す力は誰にも否定できない。社交界の花ではなくなっても──その手で救われる人がいるなら、それはそれで正しい道なのかもしれない。


「ドラクロワ元神殿長は隠居。エドモン・ルヴェール殿は──」


 マルクが一瞬、言葉を選んだ。


「ヴァレンヌ殿に手紙を送ろうとされたそうですが……何度書こうとしても書けないまま、まだ出せていないようです」


 (……書けない、か)


 あの人らしい。最後まで、自分の言葉を見つけられない人だった。


 もし手紙が届いたら、読むだろうか。


 ──読むかもしれない。読まないかもしれない。でも、もうそれは私の人生の中心にある問題ではない。


「ありがとう、マルク」


「いえ。あ、それと──」


 マルクが、さりげない口調で付け加えた。


「防寒着と茶葉の件ですが。事務方の備品発注記録を確認したところ、該当する記録は一件もございませんでした」


 足が、止まった。


「……一件も?」


「ええ。赴任初日からのものも、風邪の時のものも、全てです」


 マルクが穏やかに一礼して去った後、官舎の部屋で一人になった。


 棚の上に、茶葉の小箱が並んでいる。


 赴任初日から──一度も切れたことがない。蜂蜜入りのジンジャーティー。同じ甘い香り。同じ小さな木箱。毛布も、防寒着も、風邪の時の蜂蜜も──「生姜によく合う」と殴り書きされた、あの無骨な字の小瓶も。


 全部。


 全部、あの人だった。


 赴任初日に私が寒がっているのを見て、その夜のうちに毛布と茶葉を届けた。名前を書かずに。聞かれても答えずに。風邪を引けば五回も様子を見に来て、報告書は一人だけ即日で返して、手袋を渡した後は素手で執務して──。


 (……ずっと、そうだったんだ)


 目の奥が、じわりと熱くなった。


 棚の隣に、木箱が置いてある。引き継ぎ書類の控えを入れていた、あの小さな箱。中身はもう空だ。宰相閣下に渡した。七年分の重さを詰め込んでいた箱が、今は嘘みたいに軽い。


 空の木箱を、そっと閉じた。


 もう、ここに過去を入れておく必要はない。



 夕方。結界の最終確認を終えて館に戻ると、ギルベルト閣下が正面玄関の前に立っていた。


 外套を羽織って、腕を組んで、石柱に背を預けている。まるで──待っていたかのように。


「閣下?」


「結界の完成、聞いた」


 短い。いつも通り短い。けれど声の中に、硬さがない。


「……よくやった」


 二度目の「よくやった」を、この人の口から聞いた。一度目は──いや、一度目は「よかった」だった。赴任を受諾した日。あの小さな呟き。


「ありがとうございます。……閣下のおかげです」


「俺は何もしていない」


「茶葉を届けてくださったでしょう」


 ギルベルト閣下の動きが、一瞬止まった。


 灰色の瞳がこちらを見る。ほんの僅かに──動揺が走った。この人の感情が表に出ること自体が珍しいのに、動揺は初めて見た。


「……マルクか」


「事務方の備品発注記録に、該当なし、だそうです」


 ギルベルト閣下が顔を背けた。


 耳の先が──赤い。


 使者を退けた日に見た赤と、同じ色だ。あの時は暖炉のそばだったから寒さのせいだと思い込めた。けれど今は夕暮れの屋外で、この人は北方の辺境伯で、この程度の寒さで耳を赤くするような人ではない。


 (……やっぱり。あの時も、寒さのせいじゃなかったんだ)


「毛布も、防寒着も、蜂蜜も──全部、閣下ですか」


 答えない。


 答えない代わりに、ギルベルト閣下が私の手を取った。


 大きな手だった。剣だこのある、無骨な手。あの日──魔力切れで倒れかけた私を支えた手。手袋を押しつけてくれた手。外套をかけて、髪に触れそうになって止めた手。


 その手が、私の指を──両手で、包んだ。


 冷えた指先に、大きな掌の熱が伝わってくる。


「辺境は冬が長い」


 低い声。まっすぐにこちらを見ている。灰色の瞳に、夕日の橙色が混じっている。あの夜、「綺麗だ」と呟いた時と同じ目だ。あの時は星だと思った。──違った。


「……寒さに弱いなら、対策を考える」


 (……それは)


 心臓が、どくん、と鳴った。


「対策、とは」


「ずっと、温めてやる」


 ──。


 世界が、一瞬止まった。


 ずっと。


 この人の口から「ずっと」という言葉が出てくるのを、初めて聞いた。いつも短くて、主語を省いて、必要最小限の言葉しか使わない人が──「ずっと」と言った。


 頬が熱い。耳まで熱い。心臓がうるさくて、自分の声が聞こえない。


 でも──口は、勝手に動いた。


「……それは、職務命令ですか?」


 自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。いや、落ち着いてなんかいない。声が微かに震えている。けれど笑みが、勝手に浮かんでしまった。


 ギルベルト閣下の瞳が、僅かに見開かれた。


 それから──耳だけではなく、頬まで赤くなった。この人がここまで色を変えるのを見るのは、初めてだ。


「……個人的な、申し出だ」


 低い声が、掠れた。


 個人的な。


 領主としてでも、上司としてでも、騎士団長としてでもなく──ギルベルト・アッシュフォードという一人の人間としての、申し出。


 包まれた手の中で、私の指が温まっていく。大きな掌の熱が、じんわりと、指先から腕へ、腕から胸へ、胸から目の奥へ──伝わっていく。


「……はい」


 声が震えた。今度は隠せなかった。


「お受けいたします」


 同じ言葉。赴任を受諾した日と、同じ一言。


 あの日は声が震えたことに自分で気づいた。今日も──震えている。けれどあの日とは、震える理由が全く違う。


 ギルベルト閣下の口角が上がった。


 あの微かな変化ではない。はっきりと──笑っている。目尻に皺が寄って、灰色の瞳が細くなって、無愛想な顔に光が差している。


 (笑った顔を見るのは、三度目だ。……一番、いい顔をしている)


 不意に、涙がこぼれた。


 泣くつもりなんてなかった。七年間泣かなかったのに。追放の日も、使者を退けた日も、宰相閣下の「遺憾」を聞いた日も。


 なのに──この人の笑った顔を見たら、堰が切れた。


「っ……すみません」


「謝るな」


 包んだ手に、ほんの少しだけ力が込もった。壊れ物を持つみたいに、静かに、けれど確かに。


「……泣くな、とは言わない」


 ぶっきらぼうに、短く。


「ただ──泣いている間も、離さない」


 (……ずるい)


 何度目かわからない「ずるい」が胸を過ぎって、涙がまた溢れた。止まらない。止まらないのに、不思議と苦しくない。温かい手に指を包まれたまま、ぼろぼろ泣いている自分が──少しだけ、可笑しかった。



 どのくらいそうしていただろう。


 涙が止まって顔を上げると、空はすっかり暗くなっていた。


 星が出ている。辺境の、降るような星空。その下で──結界の光が、地平線に沿って淡く帯を引いている。


 私の魔力で紡いだ光。


 七年間、王都で一人で見上げていた光と、同じ色だ。


「……綺麗だ」


 ギルベルト閣下の声が、隣から聞こえた。


 あの夜と同じ言葉。


 けれど今度は──視線の先が、わかる。


 灰色の瞳は星を見ていない。結界の光を──私の光を、見ている。


「……ええ」


 今度は「星が」とは言わなかった。


 代わりに、包まれたままの手を──少しだけ、握り返した。


 結界の光が、二人の足元を淡く照らしている。


 七年間、誰にも気づかれなかった光と同じ色。


 けれど今は──それを見ている人が、隣にいる。

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― 新着の感想 ―
聖女が結界を張っていたと考えられていた7年間分の給料の見直しをして、その分の余剰金を接収、正当な受取人であるヴァレンヌに渡してほしいと有能そうな宰相さまに祈りたい… 働いてなかったんだから返せー!!!…
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