第1話 お前の代わりなど、いくらでもいる
「お前の代わりなど、いくらでもいる」
その言葉が、夕暮れの廊下に落ちた。
私は小さな木箱を抱えたまま、神殿長ドラクロワ閣下を見上げた。五十五年の人生で一度も結界術式に触れたことのない方の口から、その言葉が出てくることに──驚きはなかった。
悲しいくらい、予想通りだった。
「聖女フローレンス様のご意向である。補佐官の任は本日をもって解く。私物をまとめ、速やかに退去するように」
ドラクロワ閣下の背後で、金色の巻き髪が揺れている。聖女フローレンス・ミラベール様。翠の瞳が、にっこりと微笑んでいた。
「ねえリゼット、今までありがとう。次の子はもう決まっているの。とっても可愛い子よ」
可愛い子。
……結界維持の後任を選ぶ基準が「可愛い」。
(知っていた。この方は、私が毎朝四時に何をしていたか、一度も聞いたことがない)
フローレンス様の隣で、エドモンが目を逸らしている。
私の婚約者──いや。半年前からは事実上の元婚約者。彼は何も言わない。言わないことが、彼の答えだった。
「……結界維持の引き継ぎですが」
私は、三十ページほどの書類束を差し出した。
七年分の術式運用マニュアル。維持手順書。記録帳の所在一覧。後任がこれなしで結界を維持するのは不可能だ。
「結界の術式には術者固有の魔力署名が刻まれています。別の方に引き継ぐには、最低でも一ヶ月の移行期間が──」
「不要だ」
ドラクロワ閣下が、書類を見もせずに手を振った。
「聖女様の加護が結界を守っておられる。貴女の仕事など形式的なものに過ぎん」
形式的。
七年間。毎朝四時と毎夕六時。三百六十五日、一日も欠かさず、あの冷たい術式陣に立ち続けた七年。
それが「形式的」。
……そう。
この人たちにとっては、そうだったのか。
「……左様ですか」
書類を引っ込め、控えだけを木箱の底にそっと入れた。
それから一礼して、踵を返す。背後でドアが閉まる音がした。「せめて一週間後に新しい──」と言いかけた言葉は、もう誰にも届かない。
◇
神殿の正門を出ると、夕焼けの空に結界の光がうっすらと見えた。
淡い燐光。私の魔力で、七年間紡いできた光。
──あの結界は、「生きた魔法陣」だ。
術者が毎日魔力を注がなければ、少しずつ衰弱する。突然やめたらどうなるか。七日間の猶予を経て、段階的に弱まっていく。三日目に微細な綻び。五日目には小型の魔物が通れるほどの隙間が開く。七日目には──。
引き継ぎ書類には、そのことも書いた。
受け取ってもらえなかったけれど。
(……あと七日)
それだけは、覚えておこう。
◇
実家の門をくぐったのは、日が完全に落ちてからだった。
父は「戻ってきたのか」とだけ言って、温かい茶を出してくれた。母は何も聞かずに旅支度を整えてくれた。
ヴァレンヌ伯爵家は、昔からそういう家だ。言葉より行動。感情より事実。
……私がこうなったのも、たぶんこの家のせいだ。
茶を啜りながら、七年間のことを考えた。
十六歳で聖女補佐官に任命された。当時の聖女は穏やかな老婦人で、先代の結界術師セシル様が直接、結界維持の術式を私に教えてくださった。
セシル様の手は、細くてしわだらけで──でも術式陣に触れると、指先から金色の光が溢れた。
「結界はね、リゼット。生きているの」
そう言ってセシル様は笑った。「毎日話しかけて、魔力を注いであげて。赤ちゃんを育てるみたいに、愛情を込めてね」
セシル様は病を得て翌年に亡くなった。後任が見つからないまま──私が「仮の引き継ぎ」として結界維持を始めた。
仮。
仮のまま、七年が経った。
三年前、先代聖女が引退し、フローレンス様が新しい聖女に就任した。華やかで、人懐っこくて、誰からも好かれる方だった。夜会では常に人の輪の中心にいた。
私は──夜会の時間は、いつも結界の夕方の維持儀式と重なっていたから、出たことがない。
社交界に顔を出さない私は、いつの間にか「暗くて地味な補佐官」として認識されるようになった。すれ違う神官たちの視線が、少しずつ素通りするようになった。
挨拶を返されないことにも、慣れた。
エドモンの態度が変わったのも、その頃だ。最初は「聖女様のお側で学びたい」。次に「聖女様のご相談に乗っている」。
フローレンス様の隣で目を輝かせるエドモンを見るたびに、胸の奥がざらついた。でも──引き止める言葉が見つからなかった。
だって、私には夜会に出る時間もなければ、華やかに笑う余裕もない。
毎朝四時に起きて、冷たい術式陣に両手をつく。夕方六時にもう一度。
そうやって結界を守ることが、私の全部だった。
半年前、「僕たちの婚約は──」と言いかけて、結局最後まで言えなかったあの夜。エドモンは俯いたまま、私の顔を見られなかった。
(あの時、怒れたら良かったのかもしれない。泣いてすがれたら良かったのかもしれない。でも私の頭にあったのは、翌朝四時の維持儀式のことだけだった)
おかしな話だ。婚約者を取られたことより、結界の心配をしている自分。
けれど、あの結界は私が七年間育てたものだ。私の魔力で、私の手で、一日も欠かさず。セシル様に「愛情を込めて」と教わった通りに、本当に愛情を込めて。
──それを「形式的」と呼ぶ人たちの下で、これ以上守る義理はない。
ない、はずだ。
……それなのに胸の奥がちくりと痛むのは、たぶん、あの淡い光に情が移ってしまったからだろう。
◇
翌朝。北へ向かう馬車に揺られながら、窓の外の景色を見ていた。
木々が緑から黄に、黄から灰色に変わっていく。空気がどんどん冷たくなる。
新しい場所に向かっている。知らない土地だ。
不安がないと言えば嘘になる。
でも──。
木箱の底で、引き継ぎ書類の控えがかさりと鳴った。
これだけは、いつか誰かに渡せるように持ってきた。結界を見捨てたわけじゃない。ただ、私がいなくてもいい場所から、私を必要としてくれる場所へ──。
(……移るだけだ。逃げるんじゃない)
自分に言い聞かせるみたいに、何度も何度も。
馬車の窓越しに、王都の方角を振り返る。
もう見えないはずの、あの淡い光。
七年間、誰にも気づかれなかった光。
──あと、六日。




