●第9話
「何から話そうかしらね」
私の家で落ち着いたところで、幸子おばさんが深い溜息を吐いた。
「何からって、なあに?」
「実はね、あのマンションには二体の幽霊が居たのよ」
「そうだったんだ!? じゃあ吉岡さんに教えてあげないと」
私がスマートフォンを操作しようとすると、スマートフォンを持つ腕を幸子おばさんに押さえつけられた。
「待ちなさい、千奈津ちゃん。約束通り、彼のアカウントはブロックしてちょうだい」
「それなら幽霊のことを伝えてから」
「伝えちゃダメ」
「どうして?」
私の疑問に、幸子おばさんは首を横に振った。
「順番に話してあげるから、とりあえずブロックしなさい」
「……分かった」
もともとそういう約束で幸子おばさんに吉岡のマンションまでついて来てもらったわけだから、これを断るのは不誠実だろう。
私は吉岡のアカウントをブロックすると、その画面を幸子おばさんに見せつけた。
幸子おばさんは安堵した顔をした後、事故物件をめぐる、自身の見解について話してくれた。
「これは全部あたしの想像だから、そのことを念頭に置いて聞いてちょうだいね」
静かに頷きながら生唾を飲む。幸子おばさんには一体何が視えたと言うのだろう。
「103号室の住人は、野々木のせいで自殺しているわね。恨みを抱いた幽霊が吉岡君の部屋にいたから」
「そっちの霊があの部屋にいたの!?」
あの部屋に居るとしたら、野々木の幽霊だと思っていたのに。
「そう。吉岡君の部屋にいるのは103号室の住人だった幽霊……と言っても、生前のその人を見たことはないからただの予想だけれどね。全然関係無い人の可能性もある。でも状況的に考えると103号室の住人でしょうね」
幸子おばさんが視たのが103号室の住人の幽霊だったとして、どうして吉岡の部屋に居たのだろう。
野々木の幽霊があの部屋に居るのなら、生前暮らしていた場所に縛られているとかで何となく理由は理解できる。しかし103号室の住人の幽霊が吉岡の部屋に居る意味は分からない。あの部屋にはもう野々木は住んでいないのに。
「イマイチ状況が飲み込めないんだけど……あの部屋に居たってことは、吉岡さんを呪ってたのって103号室の幽霊なの?」
「たぶんね」
「でも、どうして? 吉岡さんは103号室の住人が飛び降りた事件とは無関係だよね? もしかして吉岡さんは関係者だったの!?」
だとしたら、吉岡の言葉はすべて嘘ということ?
……これはただの勘と人間観察の結果だが、吉岡は嘘を吐いてはいないように見えた。そう見えるほどに吉岡が演技派だったということなのだろうか。
私が首を傾げていると、幸子おばさんがぽつりと呟いた。
「彼は『野々木』に仕立てられたのよ」
「野々木に、仕立てられた……?」
さらに首を傾げる。
幸子おばさんは吉岡が野々木に仕立てられたと言うが、吉岡は野々木とは似ても似つかない人物だ。とても野々木に仕立てられているとは思えない。
「全然野々木みたいな仕上がりじゃなかったよ、吉岡さん」
「外見のことじゃないわよ。ほら、吉岡君は何度外しても表札を『野々木』にされると言っていたでしょう? それにお隣さんに『野々木さん』と呼ばれていた」
「表札の件はよく分からないけど……でも名前は住人のおばあさんに勘違いされたせいだって言ってたよ?」
「何度も訂正しようとしたけど上手く訂正できなかった、とも言っていたはずよ。その理由は、住人の中に訂正されては困る人がいたからでしょうね」
訂正されると困る……吉岡を野々木に仕立てたいから。
そういうことなのだろうか。
「最初に会ったとき、彼は千奈津ちゃんに『吉岡さん』と呼ばれてもすぐには反応しなかったでしょう? あれは彼が『吉岡さん』と呼ばれるよりも『野々木さん』と呼ばれることの方が多いからでしょうね」
「……住人たちは、どうしてそんなことを?」
「103号室の住人の呪いのせいだと思うわ」
「呪い?」
「本物の野々木に恨みを持った103号室の住人は、野々木のことを呪った。しかし恨みの対象である野々木が亡くなったことで、呪いは行き場を失ってしまった。きっと明確な行き場を失くした呪いは、マンション全体に広がったんでしょうね」
無い話ではないように思う。
生きている人間だって、恨んでいた相手が亡くなってしまったら、どこに恨みの矛先を向ければいいのか分からなくなってしまうから。
「そこで住人たちは考えた。新しく野々木の部屋に引っ越してきた人を『野々木』に仕立て上げて、その人に呪いを被ってもらおうと」
「呪いの対象を用意することで、呪いを一か所に集めようとしたってことか」
「その通り。住人たちが吉岡君に親切にしているのは、彼にマンションを出て行ってほしくないからでしょうね。せっかくの野々木の身代わり、生贄なんだから。もしかすると彼に食べ物を与えるのは、あの部屋に居る幽霊に対するお供えの意味もあるのかもしれないけれどね。その辺は当事者じゃないから分からないわ」
「……それ、吉岡さんに言ってあげないとマズいんじゃない?」
早いところ事実を伝えて、吉岡をあのマンションから退去させた方が良い気がする。
しかし私の意見に、幸子おばさんは首を振った。
「ここからが厄介なところなのよ」
「ここまでで十分厄介だと思うけど……」
「まだまだ序の口よ」
幸子おばさんは一つ咳払いをしてから、話の続きを語り始めた。
「屋上にいた幽霊は野々木だった。千奈津ちゃんに見せてもらった写真の野々木と同じ顔をしていたわ。彼は自殺をしたらしいけれど……どうにも自殺をした様子じゃなかったの」
「どういうこと?」
「103号室の住人と同じように、誰かを恨んでいたわね、あれは」
野々木が誰かを恨んでいた?
一体、誰を?
「野々木は恨むよりも恨まれるタイプだと思うけど。野々木が、誰かを恨んでたの?」
「そう。そして恨みの対象は、マンションの住人全員、もしくはマンションの住人の誰か、ね」
幸子おばさんの言葉に、数回目を瞬かせる。
野々木がマンションの住人を恨んでいた?
何かトラブルでもあったのだろうか。ゴミ出し問題とか、騒音問題とか。
……やっぱり野々木は恨む側ではなく恨まれる側の気がする。いかにも雑なゴミの分別をしそうだし、騒音も出しそうだ。
「野々木が恨む側だなんて、想像が出来ないよ」
「たぶん103号室の住人は、野々木に勧められたマルチ商法が原因で自殺をしている。住人たちがどのくらい103号室の住人と仲が良かったのかは知らないけれど……その人のことを別にしても、自殺の原因となったマルチグループが自分たちが入れられたものと同一だと知ったら……住人たちはどうすると思う?」
「野々木に怒る?」
「怒って恨んだ人は、何をすると思う?」
「怒り、恨み……もしかして住人が野々木を殺したってこと!? それはさすがに考えすぎなんじゃないかな」
相当怒って恨んだとは思うが、それが野々木殺害に繋がると言うのは極論だ。
詐欺被害者の多くは、詐欺師のことを殺すのではなく訴えようとするだろう。もちろん絶対に無いとまでは言えないが、確率から考えると殺人まで行く可能性は低いような気がする。誰にだって、人間を殺してはいけないという倫理観があるから。その倫理観がある前提で、社会は回っているから。
「あたしも詐欺の件だけで野々木が殺されたとは思っていないわ。そうじゃなくて、野々木が殺されたのは復讐のためだと思っているの。そして野々木に怒っていた住人たちは、その復讐を手伝った。殺害に関与したか、口裏を合わせたか、もしくは見て見ぬフリをしたんでしょうね」
「復讐って、自殺した103号室の住人の? 同じマンションに住んでるって言っても、他人だよね? それこそ可能性が低くない?」
「同じ部屋に住んでいる人は他人じゃないわ」
「同じ部屋って、103号室? でも吉岡さんは103号室が空室だって……」
「ポストにチラシが溜まっていなかったでしょう?」
そういえば、あのマンションの集合ポストの中でチラシが溜まっていたのは、402号室だけだった。
「402号室のポストにはチラシが溜まっていたから、もし103号室が空室なら、402号室と同じ量のチラシが溜まっていたはずなのよ」
「それじゃあ……」
「夫を自殺に追い込まれた妻あたりが、復讐計画を考えたんでしょうね」
そこまで言った幸子おばさんは、ふっと力を抜いて笑った。
「なーんて、全部あたしの想像だけれどね!」
そうだった。これはあくまでも幸子おばさんの想像……なのに、正解の気がしてしまう。私には霊感が無いから視えなかったが、幸子おばさんが視たと言う二体の幽霊が本当にその位置に居たのなら、辻褄が合ってしまう気がする。
しかし気になることもある。
「もしそれが本当なら、野々木の幽霊がマンションの住人を呪わないのは何故? 自分を殺した相手のことは呪おうとするんじゃないの?」
「野々木は方々で恨みを買い過ぎたんでしょうね」
「恨みを買い過ぎた?」
「野々木の幽霊は、屋上で身動きが取れなくなっていたの。まるで磔にでもされているようにね」
「誰かの恨みが、野々木の幽霊にまとわりついてるってこと?」
幽霊が他人の恨みのせいで動けなくなることなんてあるのだろうか?
……答えを探しても無駄だ。だって私には幽霊が視えないのだから。
「幽霊になってまで呪われるなんて、野々木って人はよっぽど悪いことをしてきたんでしょうね」
「うん。野々木は自業自得だから同情はしないけど、吉岡さんは可哀想だね。103号室の住人の幽霊が、屋上に居る野々木の幽霊に気付いて野々木本人を呪えば全部解決なのに。吉岡さんの部屋に居る幽霊に、野々木が屋上に居るって伝えられないの?」
「あたしは幽霊と会話なんて出来ないわよ。それに103号室の幽霊が、移動できるタイプの幽霊とも限らないしね」
「ふーん」
幽霊のルールは私にはよく分からないが、いろいろと制限があるようだ。
私は用意していたものの飲まないうちに冷めてしまった紅茶を口に含んだ。紅茶は冷めても美味しい。だが、まだ寒い今の時期は熱い紅茶の方が良いかもしれない。明日の朝は淹れたばかりの熱い紅茶を飲もう。
「最後に聞いても良い?」
私はティーカップを置きながら幸子おばさんに尋ねた。
「吉岡さんに幽霊が居ることを伝えちゃダメなのはなんで? あの場で伝えなかったのは、幽霊に聞かれたら困るからだって分かるんだけど、家に帰ってきた今なら伝えても良くない?」
私の質問に、幸子おばさんは困ったような顔をした。
「もしあたしがあの部屋に幽霊が居ることを伝えたせいで彼が部屋から退去したら、住人たちの恨みがこっちに向くかもしれないでしょ。せっかくの生贄になんてことをしてくれたんだ、って」
「まあ確かに」
「それにここまでのあたしの考察が正解だった場合、マンションの住人たちが、野々木の殺人事件の真相に気付いたあたしを殺しに来るかもしれないからね」
「それは……無いとは言い切れない、か」
だから幸子おばさんは私の家に入るまで、周囲を警戒したり、どうでもいいスイーツの話をしていたのか。
「千奈津ちゃん。いくら家賃が安くても、事故物件なんかに近付いちゃダメよ。そういう場所にはいろいろな負の思惑が入り組んでいるからね」
そのことは今日、痛感した。幽霊の視えない私からしても、他人のことを亡くなった前居住者の名前で呼ぶあのマンションの住人は怖かった。笑顔で接していたが、あまりにも悪意があったから。
「人の恨みに関わっても、良いことなんか一つも無い。千奈津ちゃんは、そういうものからはなるべく距離を取りなさい」
「……うん。分かったよ」
私はふとスマートフォンを見つめた。画面は吉岡のアカウントをブロックしたときのままだ。
「吉岡さんはどうなるの?」
「彼はもうダメでしょうね。恨みに深く関わり過ぎた」
「もしも吉岡さんが入院とかであの部屋から出て行ったら、マンションの住人はどうするのかな」
「さあね。次に引っ越してきた人を生贄にするんじゃない?」
幸子おばさんが恐ろしいことをさらりと言った。
しかし私もその通りになる気がする。
「人間って怖いね」
「ふふっ。適切な人と、適切な距離で付き合えば大丈夫よ」
私はぎこちなく笑いながら、ティーカップに残った冷めた紅茶を飲み干した。
了




