●第7話
「お久しぶりです、ナツさん」
待ちに待った月末、マンションの最寄り駅に現れた吉岡はかなりやつれていた。頬がこけ、目の下にはくっきりとクマが出来ている。
「吉岡さんですよね!? 顔色が最悪ですが、大丈夫ですか!?」
「……え? あ、はい。僕は吉岡です」
一瞬、変な間があった。そのため人違いかと焦ったものの、単に吉岡の反応が鈍いだけだったようだ。吉岡は寝不足によって判断能力が落ちているのかもしれない。
「実は最近あまり眠れてなくて……悪夢を見るので……」
声にも力が無い。もとからインドアな雰囲気はあったものの、喫茶店で会ったときよりも明らかに具合が悪そうだ。
「悪夢って、野々木のですか?」
「いいえ。夢に出てくるのはもっと年上の男なので、野々木君とは関係ない人だと思います」
「吉岡さんの知り合いですか?」
「たぶん違うと思います。ただ顔の上半分が黒くてよく見えないので……口元を見る限り、それほど若くはなさそうなんですけど……」
ここまで言った吉岡は、ハッとした様子で私の横に立つ幸子おばさんに頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなってすみません。これから行く事故物件に住んでいる吉岡と申します。本日はよろしくお願いします」
「ご丁寧にどうも。この子の伯母の幸子です。視る前に言うのもアレだけれど、吉岡さんはその事故物件から引っ越した方が良いんじゃないかしら」
吉岡を上から下まで眺めてから、幸子おばさんが述べた。私も同感だ。
「あはは。悪夢は視るんですけど、住人たちは温かいマンションなので気に入ってるんですよね」
「とはいえ、そのやつれ具合はマズいわよ」
「おすそ分けとかで栄養のあるものを食べてるはずなんですけどね……」
吉岡が力なく笑った。
喫茶店で会ったときには何も思わなかったが、今日の吉岡の様子を見て、だんだん事故物件へ行くことが怖くなってきた。
とはいえ今さら帰るとも言えないので、私は吉岡に案内されるままに事故物件へと向かった。
吉岡のマンションは駅からやや遠いらしく、三人で会話をしながら歩いた。現在の時刻は夜九時のため、空では星が瞬いている。住宅街のためか車通りは少なく、駅から離れるにつれてすれ違う人も少なくなってきた。
「今さらですけど、夜にお呼びすることになって申し訳ありません。昼間よりも幽霊が出る可能性が高いと思いましたもので」
「お気になさらず。その考えには私も賛成ですので」
当初の話では昼間にマンションにお邪魔するつもりだったのだが、昼間に幽霊が現れるのかという話になり、この時間の来訪になったのだ。
「夜の方が幽霊は出るんだよね、幸子おばさん?」
「確率としては、そうね」
幸子おばさんが吉岡を眺めながら言った。先程から幸子おばさんは穴が開くくらい吉岡のことを見つめている。もしかして吉岡には何かが憑りついているのだろうか。それとも世話好きの幸子おばさんは、具合の悪そうな吉岡が倒れないか見張っているだけだろうか。
「吉岡さん、体調は大丈夫ですか? 具合が悪いなら出直しますが」
幸子おばさんが何も言わないため、私から吉岡に提案をしてみた。しかし吉岡はこれに首を横に振った。
「最近いつもこんな感じなので気にしないでください。それに日を改めたら、もっと体調が悪くなってる可能性もありますから。今日視てほしいです」
「……病院に行った方が良いんじゃないですか?」
「本当にマズくなったら行くつもりです。あっ、ここが僕の住んでるマンションです」
今が本当にマズい状態なのではないか、と私が言おうとしたところで、吉岡のマンションに到着した。
外観を見た限りでは、どこにでもある普通のマンションに見える。部屋が四階まであって、その上が屋上のようだ。集合ポストを確認すると、ポストは全部で十六個。各階四部屋ずつの合計十六部屋で構成されているマンションらしい。空室なのか、402号室のポストにだけチラシが溜まっている。
「このマンションの201号室が僕の部屋、元野々木君の部屋です」
集合ポストを確認する私と幸子おばさんに、吉岡が告げた。
「もうマンションの中に入りますか?」
「その前に。野々木が転落した場所はどの辺か分かりますか?」
「あー……そこまでは分かりません。こっちの正面側の道か、反対側の道かの二択にはなりますけど」
吉岡は野々木の自殺について調査をしていると言う割に、調べ方が甘いようだ。野々木の落ちた場所なんて、マンションの住人に聞けばすぐに分かりそうなものなのに。
マンションを見上げる。屋上を見ただけでは、どっちに飛び降りたのかは分からない。
「幸子おばさん、幽霊視える?」
「いいえ。少なくともこの辺りには居ないようね」
「じゃあ反対側の道なのかな。そっち視に行く?」
「それは帰るときでいいわ。それよりも先に中を視ましょう」
幸子おばさんがマンションの周りを軽く確認してから、薄く微笑んだ。
「さっそく屋上を視てみます? 今日のために不動産屋から屋上のカギを借りておいたんですよね」
私たちがマンションの外観を確認していると、吉岡が得意そうに懐から鍵を取り出した。
「いつもは施錠されてるんですか?」
「はい。二件も飛び降りがあったので、いつもはカギが閉まってて屋上へは行けないんです」
「二件? 野々木以外にも飛び降り自殺をした人がいるんですか?」
「あっ、どうなんでしょう。野々木のことばかり気にしてて、そっちは調べてませんでした。飛び降りた人が、亡くなったのか、助かったのか」
「じゃあ今、調べますね。このマンションの住所を教えてもらってもいいですか?」
私は吉岡に住所を教わると、事故物件が検索できるサイトに住所を入力してみた。すると二件の死亡情報が表示された。
「どうやら亡くなってるみたいですね、その人も。このマンションでは飛び降り自殺が二件あったと書かれてます」
「そうなんですか!? もしかして呪われてるんですかね、このマンション」
呪われているかは不明だが、二件の自殺があったマンションはなかなかに不吉だと思う。私ならまず住もうとは思わない。
「サイトによると、飛び降り自殺は、今年の1月13日に一件、1月29日に一件。二件の飛び降りは日付が近いんですね」
「もしかしたら、屋上が封鎖される前に飛び降りちゃえ!と思ったのかもしれません。現在はこうして常に施錠されてるわけですし」
施錠されているとはいえ、こうやってカギを入手することが出来るなら、あまり飛び降り防止の効果は無いと思うのだが……いや、ふらっと屋上にのぼって飛び降りることが出来なくなるだけで十分なのかもしれない。
自殺を考えている人が、不動産屋に行って屋上のカギ使用の申請をしてカギを受け取って屋上に出てから自殺をする、なんて考えにくいから。そこまでしてこのマンションの屋上にこだわる理由も無い。
このマンションは四階までしか無いから、運が良かった場合は生き残る可能性がある。ここの屋上へ行く手順を踏むような計画性のある人が、そうまでして確実に死ぬとは言えないこのマンションの屋上を自殺場所に選ぶとは思えない。
「千奈津ちゃん。どっちが何号室の住人か書いてある?」
私が考えごとをしていると、幸子おばさんが私のスマートフォンを覗き込んできた。二件の飛び降りの日付のことを聞いているのだろう。
「1月13日が103号室、1月29日が201号室の住人だって」
「201号室が僕の部屋ですね」
そして、元野々木の部屋。
「いつまでも玄関にいるのも時間の無駄なので、屋上へ向かいながら話しましょう」
「それもそうですね」
私たちは吉岡の意見に従って、屋上へ続く階段を上りながら会話を続けた。このマンションにはエレベーターが付いていないらしく、三人でひたすらに階段を上る。明日は筋肉痛かもしれない。
「野々木の前に飛び降りた人が住んでた103号室は、今どうなってるんですか?」
「103号室……そういえば知り合いの住人に103号室の人はいませんね。まだ空室なのかもしれません」
吉岡はあまり細かいことが気にならない性格なのか、野々木の幽霊以外に興味が無いのか。先程から自分の住んでいるマンションの情報を全然持っていない。
「空室なのは仕方ないですよ。事故物件にすぐに借り手が見つかるとも思えませんからね。私なら絶対に嫌です」
「あっ。空室なら不動産屋に頼んで103号室のカギも借りておけば良かったですね」
「こんな理由で部屋のカギを貸してはくれないんじゃないですか? 一応、売り物ですから」
「あー……確かにそうかもです。屋上はあくまでも共用部だから、カギを貸してくれたのかもしれません」
こんな会話をしながら、私たちはついに屋上まで階段を上りきった。
「ここが屋上です。僕も入るのは初めてなんですけど。開けますね」
吉岡の持つカギが鍵穴に差し込まれ、くるりと回る。
そして屋上の扉が開け放たれた。
屋上には誰も居なかった。
もし幽霊が居たとしても私には視えないから当然の光景かもしれないが。
三人で屋上を少し歩いてみる。ドアノブや柵など、至るところが砂ぼこりで汚れているようだ。しかしそれ以外に目立ったものは無く、すぐに見るべきものは見終わってしまった。
「何の変哲も無い屋上ですね。いつも施錠してあるだけあって、掃除はされてないようですが」
「幸子おばさん、何か居る?」
私が話しかけると、幸子おばさんは自身の唇に指を当て一言だけ告げた。
「静かに」
幸子おばさんの言葉を聞いた私は、急いで口を閉じた。
これはマンションに来る前、幸子おばさんと二人きりのときに聞いていた話。
幽霊は自身を認識した人間に執着を示すことがあるそうだ。そのため幽霊の居る場では絶対に幽霊が視えると言ってはいけないらしい。そして視えない人も幽霊の話をしない方が良いとのことだ。なぜなら幽霊自身には、自分が視えている人と視えていない人が識別できないから。たとえ視えていなかったとしても、幽霊が「この人は視える人だ」と勘違いをして憑いてくることがあるらしい。
だから幽霊の話をする場合は、幽霊の居ない場所でする必要があるのだそうだ。
そして今、幸子おばさんが「静かに」と言ったということは、この屋上には幽霊が居るのだろう。野々木ももう一人の住人もここから飛び降りたという話だから、幽霊が屋上にいること自体は何も不思議ではない。
ただ私は若干幸子おばさんの霊感を疑っている節があったから、幸子おばさんが大真面目な顔で黙るように促してきたことには驚いた。幸子おばさん、本当に幽霊が視えるんだ!?と。
「吉岡さん、ありがとう。屋上はもう十分よ」
吉岡に向かって幸子おばさんが言った。
その幸子おばさんの耳元で、小声で尋ねる。
「もういいの?」
「あたしは霊媒師じゃないの。居る、居ない、以上のことは分からない。視たらそれでおしまいよ」
幽霊に聞こえないようにしているのか、幸子おばさんも私の耳元で囁き返した。
そして律儀に私たちの囁き合いが終わるのを待っていた吉岡が、マンション内へ続く扉を開けた。
「では次は、僕の部屋に行きましょうか」




