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ご近所付き合いはしないでください  作者: 竹間単


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5/9

●第5話


 不動産屋の男が近所付き合いをしないように言及した理由の分かった僕は、自分から積極的に近所付き合いをすることにした。

 不動産屋の男の言葉の真意が不明だったため若干の恐怖を感じていたのだけど、理由さえ分かれば何と言うこともない。彼は、僕がマンションの住人を変な団体に加入させることを防ごうとしていたのだ。

 僕はマルチなんてやっていないし、それ以外のおかしな団体にも所属していないから、僕が近所付き合いをしたとてマンションの住人たちに危害が及ぶことはない。だから近所付き合いをしても問題は無いはずだ。

「野々木君、リンゴをたくさんもらったから持ってきたわよお」

 僕の帰りを待っていたのか、スーパー帰りに玄関で住人のおばあさん――山崎さんという名前らしい――に捕まってしまった。山崎さんは困惑する僕に構わず、持っていたエコバッグの中に勝手にリンゴを入れてきた。

「ありがとうございます。でも勝手に入れられるのは、ちょっと……」

「もしかしてバッグの中にケーキでも入ってたかい? それは悪いことをしたねえ」

「ケーキは入ってないですけど……そんなものを買うお金は無いですし」

 自分で言っていて悲しくなる。貧乏人ほど毎日お金のことばかり考えなければいけない。大金持ちになりたいとまでは言わないから、毎日お金の心配をしなくてもいい生活がしたいところだ。

「野々木君はケーキが食べたいのかい?」

「そうですね。甘党なのでたまにはそういう物が……って、その前に、山崎さん。僕は野々木じゃなくて吉岡です」

 僕が訂正をすると、急に山崎さんが嬉しそうな顔をした。どうしてそんな顔をするのだろうと思っていると、すぐにその答えは明らかになった。

「もしかして野々木君は婿入りでもしたのかい? おめでたいねえ」

「いえ、そうではなく。僕は独身です」

「それじゃあ親が離婚を? ごめんねえ。辛いことを聞いたねえ」

「そういうわけでもなくて。僕は生まれたときから吉岡で……まあいっか」

 いくら説明をしても山崎さんが理解してくれる気がしなかったため、僕は自身の名前を訂正することを諦めた。

 山崎さんとマンション以外の場所で付き合いがあるわけでもないから、放っておいても大きな問題は無いだろう。

 山崎さんからリンゴを受け取った僕が部屋へ行こうとすると、階段から下りてくる女性がいた。このマンションに住んでいる石川さんだ。

「ちょうど良かった! 山崎さんからもらったリンゴでアップルパイを焼いたのよ。ぜひもらってちょうだい」

「今、アップルパイって言いました!? 俺、アップルパイが大好きなんです!」

 石川さんの声を聞いた男が一階の部屋から登場した。彼もこのマンションの住人だ。僕と同じ二十歳の桜井君。野々木とは関係のない大学に通う大学生らしい。彼は人懐っこい笑顔で僕たちの会話に混ざって来た。

 あれよあれよと言う間に、マンションの玄関の前で井戸端会議が始まってしまった。そして逃げ遅れた僕も井戸端会議に参加する羽目になってしまった。

「そのアップルパイってどのくらいの量があるんですか?」

「大きめに焼いたから、三人に配ってもまだ余るくらいよ。それじゃあ後で山崎さんと野々木君と桜井君の三人分、タッパーに詰めて持って部屋に行くわね」

「ありがとうございます!」

「あの、僕は野々木ではなく……」

「じゃあ俺は明日、お礼に花を持って行きますね。リンゴとアップルパイのお礼に。野々木君にもついでにあげますよ」

 名前の訂正を試みたものの、見事に僕の話は流されてしまった。こういう複数人が集まった場では、声の大きい人の発言が勝つ。当然、僕ではなく元気な桜井君の発言の方にみんなが返事をする。

「あら、わざわざ花なんて買わなくても大丈夫よ。お気持ちだけで十分」

 石川さんの言葉に、桜井君がはにかんだ。

「実は狙ってる子が花屋で働いてまして。何かしらの理由を付けて、花を買いたいんですよ」

「まあ、青春ね!」

 桜井君の話を聞いた石川さんと山崎さんが楽しそうな顔で笑う。一人だけ真顔でいるのも変なので、一応僕も軽く笑っておく。

「ってことで、花屋には行きたいものの、花を一本だけ買うと彼女へのプレゼントだって誤解をされそうだから、複数買いたいんです。もらってくれますよね!?」

「そういうことなら、ぜひ!」

「私にもくれるのかい? ありがたいねえ」

 桜井君の言葉に石川さんと山崎さんがニコニコしながら頷いた。僕が何も言わずに突っ立っていると、桜井君は僕のことを見ながら首を傾げた。

「野々木君ももらってくれますよね?」

「僕は野々木ではなく……そういう事情なら花はありがたく頂きますけど、でも僕にはお返しできるものが何も無くて。貧乏人なので」

 同い年の桜井君にこんなことを言うのは恥ずかしいけど、無い袖は振れないのだ。

 こんなことを言われたら桜井君は嫌な気分になるかなと思ったものの、彼はご機嫌な様子を崩さなかった。

「いらないですよ、お返しなんて。花一本なんて数百円程度ですからね」

「私も食べきれないリンゴをおすそ分けしてるだけだからねえ」

「それを言ったら私のアップルパイは山崎さんからもらったリンゴで作ったものだからね。貰い物で作ったパイでお礼を要求しようなんて考えないわよ」

 三人はお返しはいらないと笑いながら井戸端会議を終えた。

 他人に無関心な人が多いと言われている東京で、同じマンションの住人の名前を知っている人はどのくらいいるのだろう。どうやらこのマンションは、住人同士のつながりが強く、とても温かい場所のようだ。

 ……僕の名前は間違われたままだけど。



   *   *   *



「不思議だな。野々木はマルチのせいで嫌われてるはずなのに、マンションの住人はみんな僕に優しい。僕のことを野々木と勘違いしてるのに、なんでだろう」

 野々木がマンションの住人たちをマルチ商法に引き入れていたのだとしたら、当然住人たちは野々木に対して悪感情を持つ。

 しかし彼らは僕のことを野々木だと思っているのに、友好的に接してくれる。

「……って、おばあさんの山崎さんはともかく。石川さんや桜井君が、まったくの別人である僕を野々木と勘違いするのはおかしい。だって僕と野々木は似ても似つかない見た目なんだから」

 僕と野々木が同じなのは、性別と年齢だけ。顔の造形だって全然違うし、野々木は明るい茶髪をしていた一方で、僕は生まれたままの黒髪だ。

「それを思うと、僕のことを前居住者の野々木と勘違いしてるのは山崎さんだけで、他の人たちは山崎さんの影響で僕の名前が野々木だと思ってるだけなのかな。前居住者の野々木とは別人だけど、たまたま同じ苗字の人が引っ越してきた、って」

 その説が濃厚な気がする。

 野々木という苗字はよくあるとまでは言えないけど、無くはないはずだ。僕はこれまで会ったことはないけど。

 ふと気になって、ネットで検索をする。

「えっ!? 全国で三十人しかいないの!? 野々木さんが!?」

 僕は検索結果に驚いた。まさか野々木という苗字の人がこんなに少ないとは思っていなかったからだ。「野」も「々」も「木」も苗字によくある漢字なのに、組み合わさるとこうも少ないなんて。

「でも僕が驚いたってことは、みんなも『野々木』は割とある苗字だと思ってるんだろうな。だからこそ僕の苗字が野々木だと勘違いしてるんだろうし」

 検索を終えた僕は作業テーブルの前に座った。まだインターネットの契約はしていない。まだ何も起こってはいないもののこの部屋は事故物件のため、おかしなことが起こって退去を余儀なくされる可能性があるからだ。安易にインターネット回線を契約してしまうと、いざ退去したくなったときに面倒くさいのだ。

 だけどこのまま何も起こらないようなら、そろそろ契約をしても良いかもしれない。今のところはスマートフォンのデザリング機能で何とかしているものの、送受信するデータが大きいため、ネット回線が安定していた方が楽なのだ。

「でも早まりたくはないよなあ。契約ってお金がかかるし。完全に幽霊が出ないって判明してから契約したい」

 だから早いところナツさんに、霊感のある人とやらをここに連れてきてほしいのだけど、霊感のある人の都合が付かないらしく、最短でも月末にならないと来訪できないらしい。

 インターネットの契約問題だけではなく、事故物件の謎も早めに決着をつけたい。そうしないと事故物件体験漫画を描くことが出来ないから。

「はあ。仕方ないからアシスタントの仕事を早めに片付けておくか。ナツさんが来てからは自分の漫画原稿だけに集中できるように」

 屈んでパソコンの電源を付けていると、ゴトンと大きな音がした。顔を上げると、作業テーブルの上に置いていたマグカップが床に落ちている。マグカップの中にはまだ何も入っていなかったし、マグカップ自体も割れなかったから、被害は何も無い。

 だけど。

「手が当たった? 当たってないよな。風も無いはず……風くらいじゃマグカップは落ちないけど……」

 何とはなしに周囲を見回すと、別の異変に気付いた。

「ガーベラの茎が折れてる……」

 棚の上に置いておいたガーベラの茎が、真ん中あたりでポッキリと折れている。このガーベラは桜井君にもらったものだ。家に花瓶なんてものは無いから、グラスに水を入れて棚の上に置いておいたのだ。それが見事に折れている。

「いつから? 昨日は折れてなかったと思うけど。花ってこんな折れ方をするものなのかな?」

 口にしてから気付く。

 もしかすると、待っていたものが始まったのではないか、と。

「これって心霊現象!?」

 慌ててノートを取り出すと、起こったことを記録していった。いざ漫画を描くときに、忘れないようにするためだ。

「マグカップが落ちて、花の茎が折れて……視線を感じる」

 部屋の中には僕しかいないはずなのに、誰かに見られている気がする。

「誰もいない、よな?」

 恐る恐る部屋の中を歩き回って確認をする。当然、誰も隠れてはいなかった。

「と、とりあえず、今日はもう寝よう。疲れてるのかもしれない。作業は明日やればいい」

 部屋の確認を終えた僕は、誰に言うでもなくそう呟くと、就寝準備を始めた。

「きっとマグカップは不安定な位置に置いてたから落ちただけで、ガーベラの茎はあの付近を通ったときにぶつかって折っちゃったんだ。それに視線は、ただの気のせい。うん、そうに違いない」

 不思議なことに、あんなに望んでいた心霊現象なのに、いざ起こり始めたら心霊現象以外の可能性を考え始めている。まるで心霊現象が起こってほしくないかのように。

「……これが体験した本人にしか描けない漫画になる、ってことなのかも。まさか待ちに待った心霊現象が起こったのに、心霊現象じゃなかったらいいなって考えるとは思わなかった」

 人間の心理は不思議だ。だからこそ、この複雑怪奇な心理を描写できる漫画家は強い。そしてそのことを学ぶには、当事者になるのが手っ取り早い。複雑な心理の変化を、身を持って体験できるのだから。

 僕は今になってあの編集者の言葉を、真に理解した気がする。




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