●第2話
無事に契約を完了させた僕は、さっそく新居に荷物を運びこんだ。引っ越し業者に頼むお金は無いため、友人とレンタカーを召喚することで事なきを得た。と言っても大した量の荷物は運んでいない。最低限の家具と電化製品、それに漫画を描くのに必要なアレコレだけだ。
先程友人とレンタカーは地元に帰って行った。友人には報酬代わりに、彼の姪っ子の似顔絵を描く約束をしている。最近の友人は生まれたばかりの姪っ子に夢中なのだ。
とはいえ引っ越し作業を、似顔絵を描くだけで手伝ってくれるのだから、持つべきものは友だ。
友人を見送った後、僕はあらためて自身の部屋を見つめた。すると、あることに気付いた。
「これは不動産屋が外しておくべきじゃないか!?」
なんと部屋のドアの上に、前の住人の表札が入ったままになっていたのだ。賃貸のため木で出来た表札ではなく紙に名前を書いて入れるだけのものだけど、良い気分はしない。それが自殺して亡くなった人のものならなおさらだ。
「まったくもう。僕が金持ちだったら文句を言いに行ってるところだったぞ」
しかし今の僕はこの部屋を追い出されたら行く当てが無い。だからこのくらいのことで騒ぎ立てるのは得策ではないのだ。
「……もしかして不動産屋が僕の足元を見てるから作業が雑なのか?」
あり得る。絶対に逃したくない人物が相手だったら、何重にもチェックをして、こんな見落としはしないはずだ。要は、僕は舐められているのだ、あの不動産屋に。
悔しい。悔しいけど……事故物件しか借りられないような収入の人間は舐められるのも仕方がないのかもしれない。
「くっそお! 絶対ビッグになって見返してやるんだからな!」
僕は大声で文句を言いながら、表札に入れられた「野々木」と書かれた紙を取り出して握り潰した。
イライラしながら部屋の中に入った僕は、先程まで使用していたゴミ袋に握り潰した紙を放り込んだ。そして部屋を見渡す。
「思ってたよりも綺麗なところだよな。四畳半ってわけでもないし」
ベッドと作業テーブルでだいぶ場所を取ってはいるものの、それらを置いてもまだ床は見える。その二つさえ置くことが出来ればいいと思っていた僕からすると、十分な広さだ。
「掃除も必要なさそう? クリーニングしてあるって書いてあったたもんな……って、掃除をするなら本来は荷物を運びこむ前にしなきゃだったか。綺麗で良かった」
自分以外に誰もいないため、独り言を呟きながらダンボールに手を付ける。
「こういうのは先延ばしにすればするほど、やる気が削ぎ落ちちゃうからな。今から荷解きするか!」
僕はダンボールから洋服を取り出すと、置いたばかりの棚の中に仕舞っていった。洋服のダンボールはすぐに片付いたため、次は作業道具の詰まったダンボールを開けていく。
ダンボールにはデスクトップパソコンとモニター、それにペンタブレットが入っている。無理に詰め込んで傷が付くのも嫌なので、ダンボール数箱に分けて入れておいた。その甲斐あってどれも綺麗な状態を保っている。
それらを作業テーブルに設置していく。まだネット回線の契約が終わっていないためインターネットに繋げることは出来ないから――細かいことを言うならスマートフォンのデザリング機能を使えばネットには繋がるけど――とりあえずはオフラインでの使用になる。
オフラインでも出来ることは山ほどあるから、とりあえずは問題ない。
金欠なのにペンタブレットを所有していることから分かるように、僕は漫画家志望だ。これまでは田舎に引きこもりながら細々と漫画を描いていた。そして定期的に漫画の賞に応募をしている……けど、未だ何も結果は残せていない。
今回わざわざ都会に住もうと思ったのも、このことが関係している。
田舎にいたのでは出版社に漫画の持ち込みが出来ないから、東京に引っ越してきたのだ。
インターネットの発達した現代、WEBで漫画の持ち込みをすることの出来る出版社もある。しかし大手になればなるほど編集者が顔を見ながら直接批評をしてくれることはなく、ほとんどがメールか電話での連絡。しかも有望な人だけに返信をすることが多い。
一方で直接出版社へ出向いてしまえば、必ず誰かが面と向かって批評をしてくれるのだ。この差は大きい。
さらに同人イベントでは、出張編集部という出版社の編集が集まってイベント参加者の漫画を見る催しをやっている。ここに行けば、一気に複数社の編集者からの批評をもらえる。さらに見込みがあると思ってもらえれば、編集者の名刺をもらって後日連絡を取り合うことも出来る。その代わりイベント参加者が多いため、一人にかける時間はとても短い。とはいえ行って損は無い、漫画家志望にとって得しかない催しだ。
しかしそれだけなら予定を組んで日帰りで東京へ行けばいいと思うかもしれない。だけど僕が東京に住もうと思った理由はもう一つあるのだ。
それはズバリ、漫画家先生のアシスタントとしてアルバイトをするためだ。
実は現在僕はとある漫画家先生のアシスタントとしてアルバイト料をもらっているのだけど、如何せん遠方に住んでいるため、漫画家先生に指定された作業を終えた原稿を納品するだけになっている。
昔とは違って原稿がデジタルのため、メールで受け取ってすぐに作業をすることが出来る。主な作業は、指定された部分のベタを塗っていくだとか、トーンを貼っていくだとか、その程度。アシスタントの中でも一番新人のする作業だ。
まあ作業内容は別に良い。これは単に僕の実力が足りないから、これしか任せてもらえないと言うだけの話だから。
だけどこの先自分が、このアシスタント作業によって成長するビジョンが一切見えてこない。
漫画家先生に無茶ぶりをされるよりも、こういったビジネスライクな関係の方がストレスが少なくて良いと言うアシスタントも多い。しかし僕としては、作業を終えたものを納品するだけでは漫画家先生に何も教わることが出来ないため、成長に繋がらないと感じてしまうのだ。
もしかすると現場でも漫画家先生はアシスタントに大したことを教えていないのかもしれない。それでも現場で重要な作業をしている先輩アシスタントが、他のアシスタントに何らかの指導をしているはずだ。
それに職人技は見て盗めとも言う。何も教えてもらえなかったとしても、漫画家先生の作業を通して得られるものはあるはずだ。
あとは人脈も得られるものの一つかもしれない。漫画家先生との繋がりが強くなることはもちろん、先輩後輩アシスタントとの繋がりや、食事会などで他の漫画家先生やアシスタントとの交流もあるかもしれない。
東京では、得ようと思いさえすれば、得られるものはいくらでもある。
しかし指定の作業をこなした原稿を納品するだけのオンライン上の関係では、こうはいかない。
試しに漫画家先生にアドバイスをもらおうとしてみたこともあるけど、時間が無いからと断られてしまった。この辺は個人によるとは思うけど、顔を見て一緒の飯を食べた人間と、そうではないオンライン上だけの付き合いの人間とでは、目の掛け方が違う。そう感じる。
だから僕は、東京に出てきた。
漫画家になるという夢を叶えるために。
「世間じゃ二十歳は若いって言うけど、、漫画家の世界じゃ全然だ。一刻も早くデビューしないと」
作業をするためにパソコンの電源を入れようとして、ハッとする。
「おっと。描き始める前に、近所を散策しておかないと」
そして近場のスーパーやドラッグストアをチェックする必要がある。Google map上では確認しているものの、実際に行ってみないと分からないこともあるからだ。
特にスーパーは、値段の安い店か、そうではない店か、値引きをしているのか、しているなら何時からしているのかを確認しないといけない。我ながら考えることが貧乏学生のようで嫌になるけど、実際に金が無いのだから仕方がない。少しでも節約をして、浮いた金を漫画家になるために使いたいのだ。
「具体的にはペンタブの替え芯が欲しい。意外とすぐ使えなくなるんだもんなあ」
大きく伸びをすると、部屋の中を見回した。引っ越し当日にしてはかなり片付いたのではないだろうか。
「さて。散歩がてら夕飯を買いに行くか」
僕は財布と部屋のカギとスマートフォンをポケットに入れただけの恰好で、外へと出た。
「あら、ノノギダイチ君よね? お久しぶり。この前はありがとうねえ」
マンションの階段を下りると、このマンションの住人らしきおばあさんに声をかけられた。
このおばあさんはここで自殺があったことを知らないのだろうか。それともボケていて飛び降り自殺が起こったことを覚えていない?
どちらにしても初対面の人間が口に出来る話題ではない。自殺騒動のことを知らないのなら、知らずに暮らしていた方が絶対に気分が良い。それに間違っても初対面の人間に「もしかしてボケてますか?」なんて聞けない。いや、初対面ではなくてもそんなことは言えないけど。
「僕は野々木ではなく、吉岡です。今日、ここに引っ越して来ました」
「うんうん。元気なのは良いことねえ」
おばあさんは耳が遠いのか、微妙に会話のキャッチボールになっていない返事をした。
こういうときは何と言うのが正解だろうか。適当に相槌を打っておくのが無難かもしれない。おばあさんを上手くかわして早くスーパーへ向かいたいけど、さて何と言えばいいのだろう。
僕がそんなことを考えてまごまごとしていると、おばあさんの方から僕に向かって手を振ってきた。
「それじゃあねえ。またリンゴをもらったら、おすそ分けに行くからねえ」
うーん……このおばあさんは、分かっているのか、いないのか。
僕が今日引っ越してきたばかりの入居者で、野々木という人物とは別人だと認識してもらえたのか、イマイチ自信は無い。だけど今日のところはこれで別れても良いような気がする。なんと言っても今日は入居初日だし。
「さようなら、おばあさん」
「はい、さようなら」
スーパーで購入した三割引きの刺身を持ちながら歩く。
「引っ越し祝いとして今日くらいは贅沢しても良いよな。三割引きだし」
必要だと思っていた出費が必要無かったこともあり、今日の僕はちょっぴりリッチだ。
引っ越しをしたらマンションの住人たちに引っ越しそばを渡した方が良いのかと不動産屋の男に尋ねたら、東京ではそういったものを渡す風習が無いと教えられた。そのため引っ越しそばを購入する分のお金が浮いたのだ。
「はあ。気付くとお金のことばっかり考えてる。これだから貧乏は嫌なんだよな……って、あっ」
そういえば、先程はうっかり入居早々に近所付き合いをしてしまった。
……いや、さっきのはただの挨拶で、近所付き合いとまでは言えないものかもしれない。
そもそもあの不動産屋の男は、どうして近所付き合いをしないように言ってきたのだろう。そのことについて質問をしても、はっきりとした答えはくれなかった。
もしかすると、ボケている入居者が多いから近所付き合いをすると疲れるぞ、という意味だったのだろうか。
そうだとしたら、ものすごく失礼な気がする。
「僕のことも鼻で笑ってたし、失礼な不動産屋だったのかもな…………あれ?」
自宅に戻ってくると、ドアの上に表札が入れられていた。表札には「野々木」と書かれている。なんだかデジャヴだ。
「僕、この表札を外さなかったっけ?」
首を傾げながら、僕は野々木と書かれた紙を引き抜いた。




