●第1話
【side 吉岡 亮介】
「もう一声! もう一声、何とかならないですか!?」
不動産屋で頭を下げつつ頼み込む。希望の賃貸物件を借りられるなら、恥も外聞もない。頭なんていくらでも下げる。
何事かと不動産屋にいる別の客と社員が僕のことを見ているけど、気にしたら負けだ。大阪のオバチャンはこういった視線に打ち勝ってきたからこそ、あらゆる店で値下げ交渉に成功し、「大阪のオバチャン」として君臨しているのだ。心に大阪のオバチャンを宿せ、吉岡亮介!
しかし俺の懇願を見ても、不動産屋の男は難しい顔をしている。
「もう一声と言われましても、この辺で室内にバス・トイレ有りで二万円はねえ。23区外なら無いこともないでしょうけど」
「23区内でお願いします!」
もう一度、より深く頭を下げてみる。頭を下げるだけで希望物件が出てくるなら儲けものだからだ。
……と、大阪のオバチャンイズムで頼み込んでいる僕だけど、大阪には縁もゆかりもない関東生まれ関東育ちの人間だ。しかも年齢も二十歳で全然オバチャンではない。性別だって違う。そんな僕が頑張って大阪のオバチャンのごとき粘りを見せているのだから、少しくらいまけてくれても良いと思う。
「23区内は難しいですよ、二万円じゃねえ」
「賃貸情報に載ってる家賃は二万じゃないけど、頼み込んだら二万にしてくれそうな大家さんはいませんか!?」
「そんな大家は知りませんよ。千円安くする程度なら可能性はありますが、23区内にある賃貸物件の家賃を二万円にしてくれだなんて。荒唐無稽も良いところですよ」
不動産屋の男は半分僕に呆れながら頭をかいている。
ダメだ、ここで負けてはいけない。呆れられてからが勝負だと、どこかで大阪のオバチャンが言っていた。知らんけど。
「お金が無いんです。お願いします!」
「お願いします、と言われましてもねえ。最近、どこも家賃が上がっているんですよ」
「それは重々承知なんですが、そこを何とか!」
23区内ではなく郊外で賃貸を借りる選択肢もあるけど、そうすると都内に出るたびに多額の交通費が掛かってしまう。頻繁に都内に出たいと思っているから、それは避けたい。
それに僕は家にいることが多いため、トイレが共同だと日々のストレスが積み重なってしまう。トイレへ行くたびに部屋から出なくてはならないからだ。まあこれは最悪譲っても良い条件なのだけど、交渉で最初から最低の条件を提示する必要は無い。まずは共同トイレ以外の物件から探してもらおうという作戦だ。
「うーん。23区内でバス・トイレ有り二万円。他に条件は無いですよね?」
「他にも条件を付けられるんですか!?」
僕の言葉を聞いた不動産屋の男が鼻で笑った……気がする。すぐに表情をもとに戻したから僕の気のせいかもしれないけど。でもまあ確かに鼻で笑われても仕方のない質問だ。この条件で見つからないと言われているのに、さらに条件を付け加えようだなんて。
「追加の条件を加えるのは……無理ですよね?」
「ええ。これ以外に条件を付け加えるとなると、ご紹介できる物件はゼロになりますね」
不動産屋の男がさらっと言った。
「そうですよね……って、他に条件を加えないならゼロではないんですか!?」
言われたこっちの方が驚いてしまった。正直なところ、事前に家賃相場を調べていたため、そんな物件は存在しないと思っていたからだ。それでも一縷の望みをかけて聞いてみただけだったのだけど……そんな物件が存在している?
僕が期待に満ちた眼差しで不動産屋の男を見つめていると、彼はふうと息を吐きだした。
「一件だけ。いわゆる事故物件というやつです」
事故物件。
前居住者が物件内にて死亡した経歴のあるもの。
「事故物件、ですか……」
僕は大阪のオバチャンをやめて唸った。
東京23区内で、バス・トイレ有りで何の問題も無い物件が二万円で借りられるわけはなかった。まともな物件がそんな好条件のわけがない。家賃が安いなりの理由があって当然だ。
「僕はこれまで事故物件に住んだことがないんですけど……幽霊が出るんですか?」
僕の言葉を聞いた不動産屋の男は、両手を天に向けて欧米人がやるようなポーズを取った。
「幽霊が出るかどうかは知りません、と言いますか、この世に幽霊なんてものがいるのかどうかを私は知りません。ただその物件で人が亡くなった事実があるだけです」
「事故ですか、事件ですか?」
僕は思わず110番のような質問をしてしまった。勝手な想像だけど、事故死よりも事件で殺された場合の方が怨念が残りそうな気がしたからだ。
生まれてこのかた、幽霊を視たことなんてないけど。
「自殺ですね。このマンションの201号室に住んでいた人物が飛び降り自殺をしています」
不動産屋の男は、手際よく印刷した賃貸情報を僕に見せながらそう言った。
「自殺ですか……部屋が二階ってことは、飛び降りたのは部屋からじゃないですよね? マンションの屋上から?」
「そうらしいですね。四階まであるマンションなので、二階から飛び降りるよりも確実性のある屋上を選んだのでしょうね」
不動産屋の男が、賃貸情報の「四階建て」と書かれた部分を指差しながら言った。
「前にも屋上からの飛び降りがあったのに、屋上の封鎖に踏み切らなかった大家が悪いですね。こういうわけで、今はカギが掛かって行けないようになっていますよ、屋上には」
「そこまで詳しく教えちゃっていいんですか?」
「後から聞いていないと言われても困りますので。それに詳細を隠そうにも、事故物件を取り扱っているサイトにはしっかりと載ってしまっているのでね。とはいえ詳細を話す利点もありますよ。部屋で死んでいるよりも屋上から飛び降りている方が、部屋を借りる人間からしたら、いくらかはマシでしょう?」
「それはまあ」
自室で死んでいたとなると、どうしても部屋に痕跡が残ってしまう。発見が遅れた場合は部屋に死臭が染み付き、クリーニングをしても消えないのだとか。
それを思うと屋上からの飛び降り自殺ならすぐに発見されただろうし、次に部屋を借りる者としては心理的なダメージが少ない。
「はあ。不動産屋としては、どうせ自殺をするなら富士の樹海ででもしてほしかったですよ。おかげで事故物件になっちゃったんですから」
ぶっちゃけすぎだけど、不動産屋としてはそうだろう。賃貸物件で自殺をされたのでは、物件の価値が一気に下がってしまう。その結果、僕のような金欠の人間しかその物件に興味を示さなくなる。
「この201号室の家賃が月二万円なんですか? 前居住者が飛び降りたのは屋上からなのに?」
「マンション内のどこから飛び降りたとしても、飛び降りたのは201号室の住人ですから」
「へえ……」
あらためて、印刷された賃貸情報に目を通す。
賃貸情報には間取り図が載っていて、間取り図を見る限り、良さそうな部屋だ。室内にバス・トイレが設置されているし、小さいながらもキッチンがある。面積も広くはないけど、予想していたほど狭くもない。
「この部屋で亡くなったわけでもないのに家賃二万円は、かなりのお値打ち物件なんじゃないですか!?」
「……それが安いか高いかは、お客様次第ですね」
確かに事故物件は、人によっては住むだけで沈んだ気分になるものだろう。しかし僕はそういったことを気にするタイプではない。いや、タイプに関しては自分でもよく分からないけど、とにかく今はそんなことを気にしている場合ではないのだ。なにしろ金が無い。
「僕、ここに住みます!」
誰かに取られる前に契約をしてしまおうと、高らかに宣言をした。
すると僕よりも不動産屋の男の方が驚いているようだった。まさか内見もせずに事故物件の契約を決めるとは思ってもいなかったのだろう。
「内見に行かなくてよろしいのですか?」
不動産屋の男が僕の予想した通りの言葉を述べた。
これに質問返しをする。
「他にこの条件で住める物件がありますか?」
僕の言葉を聞いた不動産屋の男が、眉を下げつつ困ったような笑みを見せた。
「……無いでしょうねえ。しかも失礼ながらお客様の収入を考えると、ご紹介できる物件自体が少ないですから」
本当に失礼だ。悪かったな、低収入で!
高収入だったら誰が好んで事故物件になんか住むものか。セキュリティバリバリのタワーマンションに住んで、屋上の温水プールで優雅に泳ぐに決まっている。さらに地下にあるジムで身体も鍛える。あとは、ええっと……コンシェルジュになんやかんやしてもらう!
タワーマンションに関する知識の少ない僕は、脳内でふわっとした反論をした。たとえすら出てこないことが、僕とタワーマンションに住む人たちとの格差を感じさせて、一層惨めだ。
……って、惨めな気持ちになっている場合ではない。良い物件を他の人に取られる前に確保しなくては!
「この賃貸物件、契約で!」
「かしこまりました」
僕の宣言に、不動産屋の男がにっこりと素敵な笑みを見せた。借主の現れにくい厄介な事故物件が片付いて、内心小躍りをしているのかもしれない。
この男の思惑通りに動いてしまった気がして少し癪だけど、ここを断るともうこんな物件とは出会えない気がする。チャンスの女神には前髪しかないと言うから、舞い込んだこのチャンスをみすみす逃すのは馬鹿というものだ。
僕が前髪の無い女神のイラストを想像している間に、不動産屋の男が契約書類の準備を始めた。契約書を用意して、注意事項やら何やらを印刷して、僕の身分証をコピーして。
その合間に不動産屋の男がこちらを振り向いたかと思うと、世間話のノリで言葉を紡いだ。
「ああ、そうだ。これは告知義務ではなく、ただの忠告ですが」
不動産屋の男が、人の良さそうな、それでいて狡猾な鷹のような目を光らせた。
「あの物件では、どうかご近所付き合いはしないでください」




