スパルタとオバケ、時々天使とポンコツ《後編》
「クリアな滑舌にはやはり頬の筋肉も必要だし、何よりも重要なのは舌の筋肉よ。舌の筋肉は意識しなければ鍛えられないし使わなけば衰えてく一方。早速やってみましょ。」
まずはストレッチから、黒木はそういうと茜を再びお手本にしながら説明していく。俺はとにかく言われるがままに必死についていくことしかできなかった。
「口を閉じたまま舌を歯と唇の間でゆっくりとぐるっと一周させる。それを何回か繰り返したら今度は反対。できたら鎖骨の部分に手を置いて押さえて、上を向いて舌をぐっと突き出してキープ!左右もできると尚いいわね。」
言われるがまま茜の真似をして舌を動かす。
正直な感想を言うとここまで忙しなく舌を動かすことなどなかったため、かなりきつい。これをスラスラとこなしてしまう黒木も、いつものことのようにやってのける茜も、素直にすごいと思ってしまった。
ある程度舌のストレッチが終わると、黒木はホワイトボードに何やら呪文のようなものを書き始めた。
【だらでれどろ らだれでろど】
【だぞで ざどぜ ぞだざ でぜど】
【だぞ ざど どざ ぞだ】
俺が首を傾げていると、黒木はこちらに向き直る。
「舌の筋肉が必要になるラ行、言いにくい接続のザ行とダ行の組み合わせ。訓練するにはもってこいの文字の羅列ね。毎日死んだように唱えてればそのうち馴染んでくるわ。」
「……死んだように、とは?」
「多分そのうち意識しなくても口から言葉が出てくるようになるぞー。」
「えぇ、そういうこと……?」
「というわけで毎日やってみようね、琥珀くん!」
そう語る茜もきっとしつこくやらされて、苦労したんだろうなと俺は哀れむ。まあそんな哀れみの目を向けられるのは俺もかもしれないが。
口の中で軽く唱えてみたものの、あまりにも言いにくい発音の並びに、げんなりとした気持ちで黒木を見つめる俺。
俺の視線に気づいた黒木は、お得意の鋭い視線で刺してきた。
「いい?これまだ基本だから。この先もっともっと難しい単語や言いにくい文章は出てくるのだから、ここで折れてたら困るわ。」
「いや、でも、けっこう難しそうな……。」
「難しいのは当たり前でしょう?やったことないんだから。とにかくやるしかないの。今はまだ早くいう必要はないから、はっきりと滑らかに言えるように意識して。はい、つべこべ言わずに、さっさと口を開く!」
「は、はい!」
そう言われてやってみるも、うまく言えないものは言えない。
「だらでれどろ、りゃあでぃあれでろ……」
「噛んでるわよ。ゆっくり、焦らない。もう一度最初から。」
「うぅ……、はい。」
「さっきも言ったけど、大事なのは焦らず均等に丁寧に発音することよ、速さは二の次でいいわ。」
言われるがままに唱え続ける俺。そのうち何を言ってるのか、口がちゃんと動いているのかすら分からなくなってくる。ゲシュタルト崩壊というやつだ。
「だぞで、だ、ざ、どぜ、ぞだ、だ、ざでで、ぞ……」
「……すみません黒木様、そろそろ琥珀は限界だと思います!」
「そうね、じゃあ藤倉くん。そろそろ終わりにしましょ。」
「や、やった……。俺もう正直疲れーーーー。」
「あと3回、出来たらね。」
「…………。」
俺にはもう、反論する体力など残っていなかった。
「はぁ、疲れた……。やっぱり俺全然だな……。」
「んー、どうした琥珀ー。らしくないぞ!」
疲れてヘトヘトになり、部室の隅で座り込んでしまう。
そもそもこんなにたくさん2、3日で詰め込まれたところで、初心者の俺にできることやれることは限られている。実際教えられてもできていないことが多い。覚えるのにも限界があるし、どうしてここまで切羽詰まっている中やらなければならないのか。
これまで準備してきたキャストたちが全力で教えてくれるのは嬉しいが、この2日間ほどでできるようになったことはほとんどないわけで、大切な練習時間を奪ってしまっているのではないかと後ろめたく思ってしまう自分がいる。昨日教えてもらった腹式呼吸だってものにできなければ意味がない。
何より、他のキャストたちとの実力差を実感してしまう。茜もああ見えて真面目にやることはやっているのがわかったし、白鷺と黒木に関してはどこで身につけてきたのかと聞きたいぐらいで、氷室は言わずもがなだし一朝一夕の努力じゃないのは疎い俺でもわかる。だから俺が今日も1日運動したところで、観晴ヶ丘祭までに何も変わらないのではないか、そう思っていると。
「琥珀くん。」
見上げると帰り支度を済ませた氷室がこちらを見下ろしていた。しばらく見つめ合う時間が続いたのち、口を開く。
「始めたばっかりなんだから、できなくて当然だよ。」
「そんなの分かってるけどさ。みんな一生懸命教えてくれてんのに、できないとまぁまぁ悔しくて。」
「……思ってた以上に繊細ね、彼。」
「ははは、オレもそう思うー。」
そういうと黒木はため息をついた。それに同意する茜。
「……やってて俺にとっては難しいことなんだよ。それをみんないとも簡単にやるから俺も出来ないと同じラインにすら立てない。」
最初は何があっても無干渉を決め込んでいたはずなのに、周りとの差が気になって仕方ないのだ。
次はどんな言葉が飛んでくるのかと構えていると、氷室は俺に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。思っていた以上に優しい澄んだ目の色で、思わず俺は息をのむ。
「今、こうしてくるみと糸音にたくさん教えてもらってるのは、今までやってこなかった分の基礎を一通り教えておかなきゃって思いもあるけど、無理して今できるようになってほしいわけじゃないよ。変に期待をかけたかもね、ごめん。あくまで僕たちが教えてることは、自分がステージで演技するにあたって役に立てばいいな、ぐらいの気持ちでいてほしい。できなくて当たり前、そのことに甘えてほしいわけじゃないけど、これに関しては変えられない事実なんだから悩んでる暇なんてないよ。……今までやったことなかったのにここまで真剣に取り組んでくれるのは、すごくありがたいけど。」
そうなんとか言い切ると、氷室は咳き込む。
その言葉にハッとする。キャストができなければいけないことがまだできていない、俺がどれだけ頑張ったとしても2週間でこの事実は変わらないだろう。
きっと俺は心のどこかで、キャストたちがいつもしている努力をいとも簡単にできると思っていたのかもしれない。だがやってみたら想像以上に難しくて、できない。単純に悔しい。期待されているのだからすぐにできなければ、という焦りも間違いなくあった。でも急にお願いされて、できなくて当たり前。それなのに俺は何を焦っているのだろう。焦っても何も変わらないのに。
氷室の言葉に「その通りだぞ、琥珀!」と茜が続く。
「まだ初めて2、3日だろ?オレの目から見ても琥珀は十分頑張ってるし、お前は気づいてないかもだけどものすごいスピードで成長してるんだぜ。」
「褒めすぎは厳禁よ。とは言え全くその通りだけど。」
「いとちゃんが褒めるなんて珍しい〜♪」
「たまにはいいでしょ!願わくば、公演会が成功してもキャストをちゃんと続けてもらいたいぐらいなんだから!」
「わーい!ツンデレないとちゃんだぁ〜!」
「今それは関係ないでしょ!遠山くんも笑わないの!しばかれたいの!?」
「え、なんでオレ巻き込まれた!?」
「ふふ、賑やかだね。」
咳が落ち着いた氷室が目を細めていう。そして俺に向けて手を差し出した。
「ともかく琥珀くんが心配することはないよ。ほら、今日もたくさん運動したんだから帰って休まなきゃ。」
「……そうだな。」
「あ、あと僕は君の声大好きだよ。」
「は、はぁ……、どうも?」
俺もその手を取って立ち上がる。氷室は満足げな顔をしていたけれど、俺としてはなぜ氷室の手を借りているのだとなんだかむず痒く、不思議な気持ちだった。
〜Switching:遠山茜〜
部活が終わり、唯一の最寄り駅まで仲良く帰る放送部一年一同。
最寄り駅には電車の路線が2本通っており、だいたいここで二手に分かれることになる。オレと琥珀と氷室が同じ路線で、白鷺と黒木はもう一方の路線だ。
「こはくん落ち込むことないからね〜、毎日のんびり、自分のペースで頑張ってこ〜!」
「そうよ、一朝一夕、日々の積み重ねが大事になるんだから、慌てないことね。」
「……お前らってどうして正反対な性格してるのに仲良いんだ?」
部活帰りはだいたい改札付近までみんなで行くことが多い。今日はオレと氷室でそんな三人の様子を見ながら後ろについていくような形だった。
「にしてもあいつ、結構ビシバシ鍛えられてんなー。」
昨日今日と隣で見てきた琥珀の姿を思い返してこぼれ出た俺の言葉に、氷室が反応する。
「まぁ、僕も思った以上に真剣にやってくれてびっくりしてるよ。」
「琥珀はあぁ言ってたけど、2日みっちりやっただけでも少しずつ変わってきてるんだよな。」
琥珀の成長しているというのは技術面のこともあるがオレ的には顔つきや意識もそうだと思う。
もともと面倒ごとはあまり関わりたくない主義だけど、困っていたら手を差し伸べてくれる優しいやつだ。今までやったことのないことに向き合って、大変なはずなのに、顔つきが今までよりほんの少し楽しそうに見えるのだ。
心のどこかの、自分で気づいていない部分でみんなの役に立ちたいと思ってくれているからこそあいつなりに頑張ってくれている。あぁやって悩んでしまうのも琥珀らしいとオレは思う。
「そりゃあそうだね。糸音はアナウンサー志望でスクールとかにも通ってたりするから滑舌を鍛えてもらうにはもってこいだし、くるみは元演劇部でいい発声の仕方を知ってる。こんなスペシャルな講師たちにつきっきりで教えてもらえるなんて羨ましい限りだよ。」
「……オレからすると、ほんわかから急に豹変するスパルタと、監視されてる気がして寒気が止まらないオバケだけどな。」
オレがボソッとそういうと前を琥珀を挟むように歩いていた2人が急に振り返った。オレは思わずビシィィイッと音がなりそうなぐらい姿勢を正す。
不審なオレの様子に一瞬「?」と白鷺が首を傾げたものの、すぐに戻り今度は黒木が口を開く。
「駅に着く前にコンビニ寄りたいんだけどいいかしら。」
「僕はいいけど、茜くんは?」
「お、オレも大丈夫!」
あっぶねー、とオレは心の中でつぶやく。きっと今の言葉が聞こえていようものなら、こののどかな公園が一気に修羅場とかすところだった。
「茜くんってさ、余計な一言多いよね。発言にはもっと気をつけた方がいいと思う。」
「……毎回思うけど、オレ、そんなに怒らせること言ってる?」
「僕は思わないけど、他の誰かにとっては地雷かもしれないからね。」
「えぇー。」
隣を歩く氷室がため息をつく。
オレとしては自分が素直に思ったことを言ってるだけなのだが。どうも納得できない。
「茜くんも茜くんで変人だけど、琥珀くんも変人だよね。」
ボソッとした氷室のつぶやきに、オレは耳を傾ける。
「僕が無理無理押し切ったとはいえ、最初は嫌々、というか全力で拒否してたよね。それなのにちょっと楽しそうだったり悔しがってたり落ち込んでたり、行動と態度が矛盾してるんだけど。」
「琥珀はなぁ、1度やるって決めたこと、興味があることに夢中になる傾向があるんだ。つまり……」
「琥珀くん、自分の知らぬ間に面白いな〜って思い始めてて、全力でやってるってこと?」
「ふっふっふっ、その通ーり!どうだ?うちの琥珀は!」
「すっごい天邪鬼だね。変なの。」
「元々変だと思うぞ、あいつ。」
隣から「茜くんも人の事言えないくらいやばいタイプの変人だよ。」と聞こえた気がするけど、オレの親友を褒めたたえてくれたようなので、ここはスルーしておく。
オレが代役のことを伝えるのが遅くなってしまったぶん、できる限りのサポートはしていかなければと思っている。でも何よりオレが心の底から思うことは。
「お前と一緒に公演会ができるのが、楽しみだよ。」
「ん、茜くん何か言った?」
「いーや、なにも?」
「ーーーーだから、俺は特に用事は無いの!」
気づけば前を歩く3人はとっくに最寄り駅のコンビニに着いていて、特にコンビニに用事がないため帰ろうとしている琥珀を無理やり連行しているところだった。
「ほら、早く行こうぜ!」
オレと氷室は少しばかり早足で3人の元へ向かった。




