スパルタとオバケ、時々天使とポンコツ《中編》
翌日の二時間目と三時間目の中休み。
俺は案の定、ヘトヘトで机に突っ伏していた。もちろん突っ伏しているのにも理由がある。この姿勢だと腹筋を使わなくて楽だからだ。
昨日はあれからお腹を意識しながら腹式呼吸の仕方を練習し続けた。基本的なことが理解できたと判断されるや否や、8拍吐いて、2拍で息を吸って、みたいな吐く時間をなるべく長くして瞬間的に息を吸う練習だとか、決められた拍で均等に(羊羹のようにと白鷺は言っていた)息を使う練習だとかなるべく喉に負担をかけない発声方法を2時間弱で仕込まれた後。
『うーん、まだまだ筋力が足りないからか大きさがなぁ〜。よし、簡易的にはなっちゃうけど、最後に筋トレもちょっとだけやっておこうか〜!』
『……“え”』
この「”え“」はもはや隠すこともできず、本心から出たものである。正直に言うと限界だった。
しかし、疲れなど一切なさそうでさらにやる気に満ち溢れている生き生きとした白鷺に反論などできず、プランク、足上げなど筋トレをみっちりやり終わる頃には随分と疲労が溜まっていた。
終わりがけにはもちろんちゃんと「毎日続けることに意味があるからね〜!」と釘を刺されたのだった。
「お疲れさん。まぁ、何だか大変そうだねー。」
そう言って都生は俺の目線に入るようにしゃがみ込み「はい、どーぞ。」と紙パックのジュースを差し出してくる。今日はどうやらりんごのジュースのようだった。いつも圧倒的にオレンジの割合が多いのになんでりんご?と疑問に思っていると。
「調べたら柑橘系って喉とか痛めてると染みたりするから良くないって言うじゃん?」
「お、おう……、ありがとう。」
かなりイケメンな完璧すぎる回答をされて、お礼を言うのが精一杯だった。優しさが染みる。
俺が早速もらったジュースにストローを刺して口をつけると、都生が遠慮がちに話し出す。
「いや、俺にも多少の責任はあるかなと思ってさ。」
そう言われて思い出す。
実は昨日、帰ってから都生から何故か謝罪のメッセージが届いていたのだ。その理由はどうやら公演会の主役の代役をお願いすると言う話を、茜は都生には話していたらしく、だからこそ昨日の昼休みあんなに心配をしていたのだ。
ちなみにその時点で都生は茜からすでに代役の了承を得たと聞いており、プレッシャーになるから直接言うのはやめておいてくれと茜に懇願されたのだとか。とんだバカ野郎である。
「それは都生のせいじゃない。全部あいつが悪い。」
「まぁ、茜が悪い部分が大半かもだけどさ。隠し事をしてたってことでは、俺も同類だし。ごめん。」
「別にそんなに気にしなくたっていいって。」
最終的には受け入れたのだから、嘘ではないのである。
そう俺と都生が談笑している中、茜は隣の席で「ぐすん……、ひどいよ琥珀〜。」と嘆いていた。もちろんそれを俺は呆れた目で見つめ、そんなやつ知りませんと言わんばかりに目を逸らす。その様子を見て都生も苦笑いするしかないのであった。
俺が茜に怒っている理由はもう一個ある。昨日の影響で腹筋が筋肉痛なのだ。笑うとものすごくお腹に響いて痛い。
なのでいつもなら面白い話なんだけど〜と前置きをしておきながらあまり面白いとは個人的には思えない(都生は笑っていることが多い)茜の話なのだが、今日に限って俺のツボにハマるタイプの面白い話で、朝から茜を殴りそうになった。
とりあえず今は少しでも痛さを軽減するために茜とも距離をとっているのである。
都生は自分の分のジュースも取り出すと、俺の前の席に腰掛ける。
「今日も部活でしょ?何やる予定なの?」
「わかんない。とりあえず動きやすい服装でデッキ集合って言われたんだけど……。」
メッセージアプリを開いて昨日の放送部のグループチャットを見返す。そこには黒木からそう言った意味合いのメッセージが届いていた。
「いやぁ、筋肉痛な上に2日連続で運動とかたまったもんじゃない……。」
そう俺がぼやくと、都生は少し言いにくそうな顔をしながら「あー、琥珀?」と口を開く。
「運動着でデッキ集合って、もうまさに運動しますよーって言ってるようなもんなんだけど……。」
「…………は?」
そのやりとりを聞いていた茜が、ふるふると小刻みに肩を震わせ始めた。どうやら笑っているらしかった。
急にどうした?と俺が怪訝に思っていると、いきなりガバッと起き上がり、ドヤ顔で俺にこう告げた。
「昨日のはまだまだ序の口だ!本当に大変なのはこれからだぜ?」
観晴ヶ丘総合には、校舎の2階に生徒が自由に利用できるスペース、ラウンジと呼ばれるところがある。そこからグラウンドを囲うように作られているデッキ(といっても幅はそこまでない、グラウンドを見下ろせて一周できる通路のような場所)に出られるようになっているのだが、運動部がグラウンドを使えない時にランニング等トレーニングをするのに最適な場所らしいのだ。
そしてこんなところに放送部のメンバーを集めるのだから、やることは一つだった。
「週に一度の体力強化デーです!文化祭も来週に迫ってることだし、いつもより3周多くしちゃおうかしら。」
いつも下ろしている長い髪をポニーテールにして、気合十分の黒木。
「わぁ、いとちゃんスパルタだね〜。」
でも大賛成〜、とにこにこ笑顔は変わらずぱちぱちと拍手をする白鷺に対して、俺は心の中で「あなたも十分スパルタでしたけど!?」とツッコミを入れる。
俺は運動することが苦手ではないとは言え、普段から好んで運動しているわけではない。ましてや残暑が続く中、外で運動なんて歓迎できるわけがなかった。茜も隣で死にそうな顔をしている。なお、氷室は着替えてはいるものの見学だ。
ちなみにいつもこの時間は何をしていたかと言うと、変わらず部室で読書である。
「藤倉くんは参加するのは初めてよね。」
「くれぐれもお手柔らかにお願いします……。」
「そんなに緊張することはないわよ、体育の授業とそんなに大差ないから。」
「それはつまり体育の授業並みに疲れるってことでは!?」
そんな俺の嘆きをものともせず、黒木は説明を続ける。
「まずは、怪我しないようにみんなで準備運動。それから日替わりの筋トレをして、その後デッキをいつもは5周だけど行事前特別ボーナスでプラス3周、8周ね。ここまで1時間で終われたらベストってところかしら。」
「やること、多くないですか?」
思わずいつぞやの茜のように俺も黒木に対して敬語になる。
「だから言ったろ、まだまだ序の口だって。」
そう隣から茜が誇らしげにつついてきたが、どの口が言ってんだと突き返す。
そのうち祐先輩から「じゃあ準備運動はじめるぞー!」と声がかかった。
準備運動としてラジオ体操第一と柔軟(ペアになった茜になんでそんなに硬いの!?と驚かれた。)を一通り終えると、さっそくランニング開始だ。
「あくまで肺活量を鍛える目的だから、早く走ろうとしない。目標は走るペースと呼吸のリズムを一定に保つこと。それじゃあ各自のペースで8周行くよー!」
自分のペースでいいと言ってたものの、あまりに楽しすぎるのも良くないだろう。そう思って茜についていくような形で走っているけれど、いくら早く走らなくてもいいとは言え、隣で走っている茜のペースは自分にとっては早く感じる。
もともと持久走の類は運動の中でも好きじゃない。そのうちだんだん右の脇腹が痛くなってきた。悪い走り方をしているようなのは分かったが、残り2周のところまで漕ぎ着けていたのもあって頑張ることにする。
「琥珀ー、大丈夫?ペース落とした方がいいんじゃ?」
「だい、じょうぶ……。」
「はぁー、やれやれ。」
なんとか走り切ったものの、全体的に疲労感がすごい。急に止まると良くないとのことなので、1周分ジョギングのペースで歩く。茜は「はー、走り切ったぜ〜。」と至極満足そうな表情だ。
「お前、随分余裕そうだな。」
「そりゃあ、入部してから走り続けてるからなー。逆に体力ついてないとめげるって。」
「……それも、そうだな。」
「2人ともお疲れー!」
当たり前なことをいわれ、返す言葉もない俺。半周ぐらいまで歩いたところで、祐先輩が追いついてきた。
「ペース結構早くなかった?大変だったでしょ。」
「それなりに、早かった気がします……。無理しすぎました。」
「遠山くんも、一緒に走るならあんまりペースあげすぎないようにしてあげて。」
「いやー、オレいたっていつも通りに走っただけですけど。」
勝手に琥珀がついてきてただけです〜、と茜が頭をかきながら得意げにいうと祐先輩は「え、じゃあ、藤倉くん相当頑張ったじゃん!」と褒められる。けれど個人的には、筋肉痛である上に少し無理をしてしまったことを後悔していた。それは祐先輩も見ていて分かっていたようで、アドバイスをくれる。
「まだ1回目だから掴みにくかったと思うんだけど、自分の中で最適な呼吸法を見つけられるといいね。長距離は吸って吐いて、を1回ずつじゃなくて吸って吐いてを2回ずつにするか、長く吸って吐くのを2回にするかにすると楽って聞いたことあるよ。」
要するにリズムにするとすーすーはっはっ、か、すーっはっはっ、がやりやすい、とのことだった。とりあえず置いて行かれたくない精神でひたすらスピードを保つことだけを考えていたので、次やる時があれば、実践してみようと思う。
他のみんなも俺よりもやっている時間が長いからとは言え、それ相応に走ることに慣れている様子だった。
一周歩き切ったところで、立ち止まる。ぼーっとグラウンドを見渡すと一抹の不安がよぎった。
氷室の頼みだから受け入れたけれど、昨日といい今日といい、こんな足りないものだらけの自分で本当に2週間後の公演会は何とかなっているのだろうかと。
「おーい琥珀?次筋トレだぞー!」
「あ、あぁ。」
茜の声で現実に引き戻される。一旦頭を振ってそのマイナスな思考を消して、茜のほうへと向かった。
というか、なんで俺はできない前提で受け入れたのに、こんなに必死になってるんだ。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お……」
「はい!しっかりお腹意識して〜。」
筋トレが終わった後、視聴覚室に場所を移して放送部一同は発声練習のターンに入っていた。
有栖川先輩が叩く手拍子に合わせて五十音順、ワ行まで続けていくらしいが、これがなかなかきつい。腹式呼吸やその他姿勢も意識しつつだと、今何行を読んでいるんだとわからなくなりそうだった。
「ひとまず、発声練習も少しやってもらったわけだけど……。ここからはクリアな発音には欠かせない、滑舌の話をしていくわ。」
「「はい、よろしくお願いします!」」
俺が頭を下げるのはともかく、何故か隣の席では茜も頭を下げている。その様子を見て黒木は満足げに頷いた。
「普段のお昼の放送を聞いている限り、藤倉くんは滑舌も悪くないんだけど、まだ伸びる余地があるってことで一応ね。」
他のキャスト、裏方陣が打ち合わせをしている中、本日は視聴覚室の前方の席で黒木から講義を受けることになった。ちなみに隣では茜が白鷺の時と同様ブルブルと震えている。そんな茜いわく。
「あいつ、滑舌オバケだから。」
との事。一体オバケとはどういうことなのか。首を傾げていると黒木が口を開く。
「突然だけど藤倉くん、滑舌を訓練する前に、発音の基礎と言えるものってなんだと思う?」
「え、えーと、五十音をはっきりいうとか?」
「惜しいわね、もう少し噛み砕いてもらえるとありがたいんだけど。」
「えぇ……。」
考えること5分。しばらく俺の反応をみて「もう少しなんだけどなぁ、本当にわからないの?」となぜか疑惑の目線で見てくる黒木。普通に怖い。
その空気に茜のほうが居た堪れなくなったらしい。
「黒木様!説明をお願いします!」
「なんでそのセリフを遠山くんがいうのよ。まあいいわ、時間もないし。」
黒木はため息をついた後、ホワイトボードに縦書きで「あいうえお」と書いた。
「日本語には5つ母音があるでしょう。いくつか変則的な発音はあれど、基本的にはその母音と様々な子音を組み合わせることで五十音は成り立ってるし、それをいくつも並べることで単語はできてるし言葉はできてる。」
「な、なるほど……。」
「だからまずは、母音の発音からよ。」
「……かしこまりました。」
黒木の一切の反論を許さない姿勢は確かに恐ろしい。白鷺のスパルタ感とはまた違う、一挙手一投足ずっと見られているような感覚で寒気がした。もしやこれが茜の言ってたオバケなのか?と考えに至る。
「じゃあ、遠山くん。お手本見せてあげて。」
「承知しました!」
黒木に指名された茜はスタスタと黒木の隣に立つ。おそらく茜も白鷺や黒木にみっちり仕込まれているからこそ従順なのだろうなと思った。
黒木は再びホワイトボードにマーカーを走らせる。
【あ】→えの口からさらに開く。舌が盛り上がらないように注意。
【い】→顎は軽く開く。口を横に引き、口角を引き締める。舌は後方部分が上顎につく。
【う】→おの口から少し閉じる、舌の高さはいとさほど変わらない。
【え】→いの口からもう少し縦に開ける。舌の真ん中部分が盛り上がる。
【お】→軽く顎を開けて、唇を軽く前に突き出す。舌が少し凹む。
「まずは基本となる母音の口の形をチェックしなくちゃね。」
「口の形?そんなの意識しなくてもいつも出来てるんじゃ……。」
「いつも通りが必ず出来ているとは限らないわ。じゃ、遠山くん。お手本。」
そう言って黒木が声をかけると、はい!と潔い返事をして茜はゆっくり「いーー、えーー、あーー、おーー、うーー。」と発声し始める。一つ発するごとに黒木に口の中を覗き込まれており、まるで歯医者さんみたいだと思ってしまった。
はい、オッケーよ。と言われて茜はようやく緊張が解けたようだった。黒木が座っている俺の方に向き直る。
「あんな感じで一通りチェックするわね。あんまり心配はないから大丈夫だとは思うのだけど。」
「分かったよ。けどなんで“い”からスタートするんだ?」
「口の形が近いものを繋げたほうがわかりやすいっていうだけだから、特に深い意味はないわ。ちなみに、今私が書いたのは、母音の発声の時の口の形。意識しすぎるとかえって変な形になっちゃうかもだから、あくまで頭の隅に置いておいて。」
そう言われてホッとする。黒木が書いている間にも、これを全部意識しなければいけないのかと思っていたので、少し肩の荷が降りた。
「はい、じゃあ藤倉くん立って。せーのっ。」
「いーーーーーー。」
「はい、おしまい。さほど心配はなさそうね。」
「は、はひ……、ありゃあとうごじゃいましゅ。」
かれこれ、い、え、あ、お、うを言い続けた結果。若干顎と頬が痛いし、ものすごく喉が乾燥した。疲れでまともに口が動かない。
やっと黒木からの許しが出て、口を閉じる。
「喉が乾燥するといけないから、こまめに水分とってね。口の形がわかったところで、次に行きましょ。」
「へ、つ、次?」
俺がまだあるの?という顔をすると黒木は目を細めてこう言った。
「何言ってるの?まだまだやることはたくさんあるわよ?」
少しでも手を抜いたら許さないから、ちゃんとみてるからね。そう付け加えられて背筋が凍る。なるほど、いつでもみられているという感覚と、目線がひと睨みすると空気が冷えるのは確かにオバケの感覚に近い。いや、バケモンか?そう考えていると、再び黒木の鋭い視線が刺さる。
「藤倉くん。今失礼なこと考えなかった?」
「いえ、なんでもありません。」
かなりの疲れで絶望状態の俺に同情したのか、茜から「ドンマイ」と言いたげな様子で肩に手をポンと置かれた。




