スパルタとオバケ、時々天使とポンコツ《前編》
「さ〜て!特訓はじめよっか〜!」
パチンと手を鳴らして、にこにこ笑顔で生き生きとした様子の白鷺。それに対してブースにいる俺、そして昨日しっかりと女子三人に絞られ俺の特訓に付き合うことを余儀なくされた茜は、これから始まるであろう地獄のような時間に恐れ慄いていた。
さすがにこういった催し物に疎い俺でも、すぐに脚本をもって演技をさせてもらえないことくらいわかっている。急がなければならないが、初心者なら焦らず基礎は丁寧にやっておいた方がいいと氷室から言われたこともあり、まずはキャスト達が常にやっている基礎訓練(発声、発音、滑舌など)から教えてもらうことになった。
本来であれば俺の承諾が得られたら練習はすぐ始まる予定だったらしい。しかし茜が俺にキャスト代打の件を伝えるのをひたすら先延ばしにしていたせいで、実施する予定だった特訓メニューもつい昨日知ったのだ。
『これ、明日からやるんだよな……?』
基礎練習に関して教えてくれる白鷺、黒木からまとめて渡された基礎の内容が書かれたレジュメは、教科書一冊分の厚みがあった。
『そうだよ〜。あかねるのせいで開始が遅れてるから、出来ないこともあるかもだけど出来る限りやる予定〜。』
『ここに書いてあること全部!?』
『だいじょぶだいじょぶ~。なんとかなるよ~。』
話を聞けば氷室が公演会に出演できないことが確実となってしまったのは本当にここ最近のことだったとか。
茜は俺と同じクラスであり親友でもあるという理由から、もしもの時のために俺に伝えるよう言われていたようだが、ついこの前から繰り返されていた会話(詳しくはep.1を見てください)からいうタイミングを失ってしまったらしかった。
そんな茜にしびれを切らした黒木が何回か俺に直接伝えようとしたらしいが、頼まれた以上どうしても自分から言いたかった茜に何度も阻止されていたらしい。
ちなみにらしい、とか、ようだ、が多いのはそんな言い合いにも読書に夢中だった俺は気が付かなかった、からである。
ともかく「明日の部活までに一通り目だけ通しておいてね」と黒木からも言われ終わった昨日の部活。
帰る道すがらひたすら茜に謝り倒され、疲弊しつつ帰宅し、ひとまず昨日のうちに軽ーく読んでみた。読んでみたものの知らない単語も多く、また量が多すぎて全く頭に入らなかった、というのが正直な感想だ。
「初日は発声の基礎からだね〜。」
白鷺はにこにこ笑顔のまま最初のページを捲る。
「具体的にはどうやるんだ?昨日もらった紙には、なんか色々外郎売り……?とかあめんぼのうた?とか載ってたけど……。」
「それらはまだまだ先だよ〜、大きな声を出すにあたって、適切な呼吸方法を身につけるところから!」
ビシッと指を刺され、その勢いに後ずさる俺。
「はぁ。よろしくお願いします……。」
いつものふわふわおっとり(?)な白鷺の独特な雰囲気が、言葉の端々から消えていっている気がした。
白鷺はまず、人間の呼吸方法には2種類あると言いながらホワイトボードに”胸式呼吸”と“腹式呼吸”と書いた。
「胸式は、日常生活でお馴染みの呼吸だね〜。普段こはくんたちがしている呼吸そのもの!それに対して、より多くの息を吸えて〜、演技や台詞を言うのにも適切な呼吸方法が腹式呼吸かな!」
「は、はぁ……、そう言われてもよくわからないんだけど。」
「簡単にいえば、寝てる時の呼吸だよ〜。ほら、あかねる実践してあげて〜?」
「……ハイ、ヨロコンデ。」
そう白鷺が言うと茜は躊躇なくブースの床に寝転がった。
俺がなんで急に?と怪訝な顔をしている中、茜は「すーはー」と、いつもより大袈裟に息を吸う。
白鷺はそれを見て満足そうにうんうんと頷き、呼吸するたびに動いている部位、下腹部を指差した。
「今見てもらってる通り。寝ている状態だと息を吸ってる時に膨らんで、吐く時にへこんでるんだよね〜。」
「……それっていつも通りじゃないのか?」
「いつも通りじゃないよ〜?試しに今息を吸って、吐いてみなよ〜?」
そう言われて深呼吸してみる。普段の呼吸の仕方を少し意識してみると、確かにさっき受けた説明と真逆で息を吸った時へこんで、吐く時に膨らんでいることに気がついた。
「で、次に寝てると思って〜、吸う時にお腹を膨らまして、吐くときにへこませてみて〜?」
そう言われてやってみたものの、うまく息が吸えない上に、なんだか普段使ったことのない筋肉を使ったのか、お腹が攣りそうになり途中で断念した。
「まだ腹式呼吸ではないね〜、肩も上がっちゃってるし。」
「でも普段と同じ呼吸法のほうが、やりやすいんじゃ……。」
「甘ーい!甘すぎるよこはくん!!!」
ふと思った疑問を口にすると、いつもの白鷺とは思えない勢いで遮られる。
「こはくんってさ、持久走って得意〜?」
「い、いや、全く得意じゃないけど。」
「持久走ってさ〜、後半になるにつれきつくなってくよね〜?息も吸いづらいなぁって思ったことない?」
「まぁ、そんなの持久走なら当たり前のことじゃないのか?」
「あれ、きついから楽したくて胸式呼吸にならざるを得ないんだよ〜?」
何が何だかさっぱりわからない。一体どう言うことが言いたいのか理解ができず追いつけないでいると、白鷺は俺に対していっきに捲し立てた。
「胸式呼吸って本当に楽なんだよ〜、腹筋も使わないでそこそこ人間に必要な分の空気吸えちゃうから。でもさ、そんな甘え、これから自分の声を届けなきゃいけないって時に全力出したとはいえないよねえ〜?だったら楽なんてせずに疲れて当たり前、もっとたくさん息を吸って、長く保てる呼吸法でやったほうが大きくて通る声が出せると思わなーい?」
「今一回やっただけで結構疲れてるってのに、こんな全力でやったら演技なんてできやしな……。」
「キャストは120%の力を常に出す、ベストを尽くしてこそでしょ〜。それに、全力出すのは疲れて当たり前なんだよ〜?」
こちらをみる白鷺の目がガンギマっていて怖い。茜もぬるっと起き上がってはいたものの、すっかり怯えてブースの隅で縮こまっていた。
「もちろん腹式呼吸がちゃーんとできた上で全力で演技もやってもらうからね〜?」
「は、は、はいぃぃぃぃっ!」
白鷺にこんなスパルタな一面があったのかと呆気に取られる俺。
改めて昨日その場のノリで安請け合いしたことを後悔する。生半可な気持ちで引き受けるんじゃなかった。
「気を取り直して〜、疲れるけど実践していこうね〜!」
相変わらずにこにこ笑顔の白鷺。この笑顔の裏があのスパルタだと思うと下手な真似は許されない。
コソコソと茜のそばに寄り耳打ちする。
「なぁ、白鷺っていつもあんな感じなのか……?」
「琥珀、オレが出来るアドバイスはひとつだ。とにかく全力でやれ、気を抜くんじゃねえ……。」
「……は、はぁ。」
そう語る茜は、まるでこれから戦地に赴く兵士かと思うくらい緊張感のある眼差しだった。
こほんとわざとらしく咳払いをする音が聞こえ、慌てて白鷺の方に向き直る。
「さっきは大変さを知ってもらうために無理無理やってもらったけど〜、今度はちゃんと正しい意識をした上でやろう!」
「息を吸う時に膨らませて、吐く時にへこますんだっけ?」
「簡単にいえばそうなんだけど、一旦これをみて〜。」
そう言って白鷺がホワイトボードに張り出したのは、理科の授業で見るような、人間の内部構造の図だった。
茜と俺は潔く体育座りをして大人しく白鷺の話に耳を傾ける。
「腹式呼吸と言っても、大まかな呼吸の仕方は胸式呼吸と同じなんだよね〜。お腹が膨らんでるからって、胃に直接空気を入れてるわけじゃないんだよ〜?」
「じゃあ何が違うんだ?」
「さっきこはくんに息をするときに肩が上がってるって話をしたじゃ〜ん?あれは胸式呼吸で、上に肺の可動域を広げてるからなんだよね〜。」
白鷺はいつ取り出したのかやら、先生が授業で使うような伸縮式の指示棒を取り出して、肺とその下の部位を仕切る板のようなものを指し示す。
「腹式呼吸は〜、肺の下にある横隔膜って言う筋肉を下げることによって、肺が下に膨らむ領域を広くしてるんだ〜!肩を上げなくてもたくさん息を入れられるようにね〜。」
「あの……、おうかくまく……?とはなんですか?」
質問していいのかわからなかったため、思わず敬語になる。
「こはくんいい質問〜!さっきも言った通り、骨格筋っていう筋肉の一種なんだけどー、実はこれ、日常で起こりうるある事象と深い関わりがあったりするんだけど、わかる〜?」
俺がわからずキョトンとしていると、茜が勢いよく手を上げる。
「はいはいはい!しゃっくりです!」
「はいが多くてうるさいよ〜。まあでもあかねるの言う通り。しゃっくりはここが痙攣して、その直後に声帯が閉じることで起こる生理現象なの〜。」
茜にナチュラルに棘を刺した後、白鷺は続ける。
「そんな筋肉の膜を無理やり下げて肺の可動域を広げてるわけだから〜、当然それを支えるインナーマッスルも使わざるを得ないわけで、当たり前に疲れちゃうわけなんだよ〜。」
それを聞いて俺はますます疑問に思う。おそるおそる、さっきも聞いたことだがいまいち納得できず、聞かずにはいられなかった。
「あの、さっきも言ったけど、そこまで大変な思いしてまで腹式呼吸にする必要ってあるのか?」
「うーん、そんなに納得いかないの〜?」
「だってラジオドラマって声だけで演技するんだよな?マイクもあるし、そんなに大きな声を出す必要はないように思うんだけど。」
「こはくんってー、探究心がおさえられない性分なの〜?それとも素直にやりたくないだけ?」
言い方はマイルドだが、どこか鋭い言葉にブースの空気がピキっと張り詰める。一瞬で空気が凍りつき、茜は固まって動けず、俺は青ざめていた。
「あ、あ、あの、えっと、その……。」
「何やってんだよ琥珀ー!」
「そんなつもりはなかったんだって!」
俺と茜があたふたする中、しばらく白鷺は考え込んだのち「うーん……。」と口を開く。
「大前提にラジオドラマって演技は声だけかもしれないけど、お芝居をするという括りで言ってしまえば、体の使い方は演劇とか、体を使って演技する時と一緒なんだよ〜。」
「そう、なのか?」
「そうだよ〜。人間ってさ〜、体に力入れすぎると動きづらいじゃん?例えば、演劇だと大きくて通る声だけじゃなくて〜、腕も足も、自由に動かせるような状態でありたいよね〜。普段の状態で大きな声を出そうとするとどうしても喉に負担はかかってしまうし、緊張状態の時って肩に力入ってるしで、とても演技する体の状態に適しているとはいえないと思うの〜。リラックスしてる状態でありたいよね〜。」
まずは声だとか体とかに縛られず演技をするのに適した状態にする、それが大事だと語る白鷺。俺自身も色々とみていただけでは変わらない、まずはキャストをやる上での意識改革が必要だと、それを聞き納得してしまった。
そんなこんなでやっとその重要な腹式呼吸の実践練習をすることに。
「順序的にはまず、すべて吐き切ることから始めようか〜。お腹が膨らまないようにみぞおちあたりを抑えながら、スーって歯と歯の摩擦音を出しつつ、限界まで上手に息を吐ききってね〜、せーの!」
唐突に始まって、慌てて茜と俺は揃って息を吐く。
もうそろそろ限界か、そう思って息を吐くのを止めようとすると「止めるな〜!」と厳しい声が飛んでくる。
「まだ息残ってるでしょ!限界まで吐くって言ったよね〜!?」
(はあ!?!?!?)
俺としての限界はもうとっくに超えているような気がする。それでもなお吐き続けて本当の本当に最後の一息まで絞り出すと、今度は「そこで息を一旦止める!」と鬼のような指示が飛んできた。
止めたは良いものの、正直に言おう。酸素が足りなくて死にそうだ。早く次の指示をくれと白鷺のほうをみるも、人が苦しんでいる様をみておきながら驚くほどの笑顔を浮かべていて恐ろしかった。
そんな地獄のような長い時間(後から聞いたら数秒だったらしい)の後、やっと「はい、お腹の力を緩めて〜。」と白鷺から指示が出され、俺はようやく解放された。その瞬間、何をせずとも自然と空気が体に入り、お腹も勝手に膨らむ。当然のように、普段は使わない筋肉を使ったため、たった一回でものすごく疲れていた。
一旦俺の息が落ち着くと、白鷺は口を開く。
「悩ましいことに腹式呼吸にこれといった練習方法はないんだよね〜、これはあくまでくるみ式の方法だよ〜。息を吐く間膨らまないようにお腹を抑えて、限界まで吐いたら一旦息を止めて、お腹の力を緩める。そうすると吸うことを意識しなくても息が勝手に入ってくるからね〜。」
腹式呼吸ってインナーマッスルを鍛えるためのいい方法でもあるんだ〜、と捕捉する白鷺。
俺が一回でぜーはーしているのに対して、茜は意外と余裕そうだった。これが普段キャストとして常に鍛えている人間との差なのかと少し悔しい気持ちになる。
「体が覚えるまで意識し続けるのが大事だよ〜。慣れれば日常生活を送る中でもできるし、いいダイエットにもなるからおすすめ!さて、もう一度やってみよう〜!」
「あ、あの、白鷺。一旦休憩挟んでも……。」
「さーて、もう一度やってみようね〜!」
「慣れてきたら息の量をコントロールする訓練もしなきゃ〜♪」と俺の言葉など聞こえていないように笑顔を向けてくる白鷺。初心者には少々厳しすぎるのではないかとも思ったが、少しでもキャストたちの力量に追いつくために、俺はやるしかないと思い直すのだった。




