第4章 ー静かな夜、重なる影ー
第4章 静かな夜、重なる影
夜の草野球が終わったあとの飛行場は、不思議な静けさに包まれていた。
仲間たちの笑い声も、軍足で踏みしめる土の音も、すべてが消え去り、残されたのは月の光と涼しい夜風だけだった。
航太は、ベンチに腰を下ろしたまま動かない祖父――いや、この時代の若き航一の背中を見つめていた。
背筋を丸め、グラブを抱え込むようにして、ただ一点を見つめている。
しばらくの沈黙のあと、航一の声が低く響いた。
「……なあ、航太。俺はな……行きたくないんだ」
唐突な告白に、航太は思わず息を呑んだ。
「……行きたくないって、特攻に、ですか?」
航一は視線を落としたまま、わずかに頷いた。
「そうだ……。みんなは笑って送り出してくれるさ。『国のために誇りを持て』ってな。でも……俺は……怖いんだよ」
声が震えていた。
航太は返す言葉を見つけられず、ただ耳を澄ますしかなかった。
「空の上で、敵艦に突っ込んで……燃え尽きて……跡形もなく消える。そんな未来を思うと、体が震える。……俺は臆病者なのかもしれん」
航太は唇をかみしめた。臆病なんかじゃない、と叫びたかった。けれど、声にならない。
航一は、さらに言葉を重ねる。
「スズを置いて逝きたくない……。まだ、生まれてもいない子どもがいるんだ。俺はそいつを抱きたい。抱きしめて、『父さんだ』って言いたいんだ」
拳を握り、地面に小石を投げつける。乾いた音が夜の闇に響いた。
「それにな……もっと野球を続けたいんだ。キャッチャーとして、仲間の球を受けたい。今日、お前と組んで……楽しかったんだよ。大下さんを抑えたあの瞬間、あんなに心が震えたのは久しぶりだった……」
航一の肩が小刻みに震えているのが分かった。
航太はそっと立ち上がり、グラブを嵌め直した。
「……航一さん。キャッチボールしませんか」
航一は驚いたように顔を上げた。その瞳は、涙と決意が入り混じっていた。
「……こんな夜にか?」
「はい。俺、受けますから。……最後の相棒にしてください」
その言葉に、航一は目を細めて笑った。
「……ああ。頼む」
二人は、飛行場の中央に立ち、距離をとった。
航一が球を握り、ゆっくりと振りかぶる。
――ズバン!
航太のミットに、重くて熱い球が突き刺さった。
それは単なる白球ではなく、航一の心そのものだった。
「俺は死にたくない!」
二球目。
「本当は……もっと生きたいんだ!」
三球目。
「スズと……子どもと……一緒に笑っていたい!」
声と一緒に、球が闇を切り裂いて飛んでくる。
航太は必死に受け止め、ミットの奥で握りしめる。
「俺だって……夢を見たいんだ! 野球で仲間と笑って……その先の人生を歩みたいんだ!」
息が切れても、航一は投げ続ける。
そのたびに、心の奥に押し込めてきた恐怖や未練が溢れ出し、白球に宿って飛んでくる。
航太は涙をこらえ、強くミットを構えた。
「……航一さん、俺、全部受け止めます!」
航太の胸に熱いものがこみ上げた。
思わず、声がこぼれる。
「……じいちゃ――」
その言葉を途中で飲み込み、慌てて唇を噛んだ。
航一の目が鋭く光る。
「今……何て言いかけた?」
航太は黙った。
しかし、目の奥に涙が滲んでいる。
「お前……まさか……」
航一は息を呑み、しばらく航太を見つめたあと、低い声で問いかけた。
「未来から来たのか?」
航太は震える声で答えた。
「……はい。僕は、未来から来ました。僕の名前は、杉浦航太。おじいちゃんとスズおばあちゃんの……孫です」
航一の手からボールがこぼれ落ちた。
しばらく沈黙が続き、やがて彼は笑った。
笑みの中に、驚きと、哀しみと、そしてほんの少しの安堵が混ざっていた。
「……やっぱり、そうか。どこかで感じてたんだ。お前を見たときから……何か、運命みたいなものを」
航一はボールを拾い、もう一度航太に投げ返した。
それを受け止めながら、航太は声を張り上げた。
「おじいちゃん! 行かないでよ! 特攻なんて……死んでほしくない!」
航一の瞳に影が差す。
しばらく口を閉ざしたまま、キャッチボールを続ける。
何度も何度も、強く投げ返しては、受け止める。
やがて、航一は低くつぶやいた。
「……死にたくない。俺だって、本当は死にたくなんかない。スズを残して、腹の中の子を残して、行きたくなんかないんだ」
その声は震えていた。
航太は涙をこぼしながら叫ぶ。
「だったら逃げてよ! 生きてよ! おばあちゃんも、僕のお父さんも、待ってるんだ!」
航一は首を振った。
「できないんだ……。俺たちは“命令”で生きてる。背けば……仲間も、家族も危険にさらされる。それが、この時代の現実なんだ」
航太は歯を食いしばり、地面を拳で叩いた。
「そんなのおかしいよ……野球やってるときのおじいちゃんの顔、すごく輝いてたのに……! ボールを捕るたびに、仲間と笑ってたじゃないか!」
航一の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……俺は、野球が好きだ。どれだけ苦しい訓練のあとでも、草野球をやってるときだけは、生きてるって思えた。
……ああ、戦争さえなければ。もっと……ボールを追いかけていたかった」
沈黙が二人を包む。
空には一機の赤とんぼ――練習機が、月光を浴びて飛んでいった。
その姿が、明日の特攻を暗示しているように見えた。
航一は深く息を吸い、航太を見据えた。
「航太……俺は行く。でもな、お前が未来に生きてる。それだけで……少し救われる気がする」
「でも――」
「聞いてくれ。俺は死ぬのが怖い。スズや子供を残すのが怖い。……だが、お前が未来にいてくれるなら、俺の命は途切れない。
だから……生きてくれ。俺の分まで、野球を続けてくれ」
航太は涙でぐしゃぐしゃになりながら、叫んだ。
「……わかったよ、おじいちゃん! 俺、絶対に野球を続ける! 負けても逃げない! 未来でずっと、繋いでいくから!」
二人の間に最後の一球が投げられた。
大きな音を立てて、航一のミットに収まる。
それは、未来と過去を繋ぐ、たった一度きりのキャッチボールだった。




