第3章 ー夜の草野球、大下弘との対決ー
第3章 ―夜の草野球、大下弘との対決―
夕暮れが落ち、矢吹の空に群青が広がる頃、飛行場脇の広場には裸電球の灯りが並べられた。
昼間は特攻の名のもとに死を覚悟する青年たちが、今はグラブとバットを手にして、白球を追っている。そこにあるのは、戦争とは無縁の、純粋な野球の光景だった
「航太!」
背後から呼ぶ声に振り返ると、祖父・航一がグラブを片手に立っていた。
「お前、ピッチャーの顔をしてるな」
「えっ……」
「俺はキャッチャーだ。いいか、一度だけバッテリーを組んでみないか」
航太の胸に熱いものが込み上げた。
(キャッチャーだったじいちゃんと……俺がバッテリーを?)
航太は戸惑ったが、胸の奥にあの悔しさが蘇っていた。甲子園に行けなかったあの日、自分の球で仲間の夢を絶たれた痛み。だが、ここで投げられるのなら――。
「……わかりました」
グラブを受け取り、マウンドに立った瞬間、心臓が高鳴った。
その時、一際大きな声が響いた。
「よぉ、相手チームのエースは見慣れない顔だな」
現れたのは、背が高く、体格もがっしりとした青年だった。笑うと人懐っこいが、その眼差しには野球人としての鋭さが宿っていた。
「大下弘だ。よろしく頼むぜ、坊主」
航太は一瞬、耳を疑った。
――大下弘。
のちにプロ野球で「打撃の神様」と呼ばれる伝説の選手。その若き日の姿が、目の前にあった。
航太はマウンドで深呼吸した。
(まさか……大下弘と勝負できるなんて)
兵士たちがどよめき、大下が打席に入る。
航一はマスク越しに航太を見つめ、小さく頷いた。
「航太、まずは全力のストレートだ」
航太は振りかぶり、渾身の直球を放つ。
――カーン!
乾いた快音。打球は外野の頭上を越えていった。
「やっぱり大下さんだ!」と兵士たちの歓声が響く。
航太は悔しさに歯を食いしばった。だが、航一の落ち着いた声が背中を支える。
「焦るな。あいつは本物だ。だが攻略法はある」
二球目。航一は手を低く動かし、シンカーのサインを出した。
「投げられるか?」
「やってみます!」
投げ込んだ球は鋭く沈み、大下のバットが空を切る。空振り。
「おおっ!」
観客代わりの兵士たちが沸いた。
三球目。航一は胸の前で小さく拳を握り、カーブのサインを出す。
航太は唇を噛み、ボールを握り直した。
(じいちゃんのリードを信じるんだ)
投げた瞬間、球はふわりと大きな弧を描いた。
――カキン!
打球は高く舞い上がり、だが外野のグラブにすっぽりと収まった。
「アウト!」
仲間たちが歓声を上げる。航太は思わず拳を握りしめた。
「やった……! 大下弘を討ち取った!」
大下はバットを肩に担ぎ、笑みを浮かべて言った。
「いい球だ。何よりいいキャッチャーを持ったな」
そう言って航太と航一を交互に見た。
「お前らのバッテリー、戦争がなけりゃ甲子園でも名を残せただろうな」
航太の胸に熱いものが込み上げた。
隣でマスクを外した航一も、静かに笑っていた。
「俺たちの球は、まだ負けちゃいない」
戦火の下、たった一夜の草野球。
だが、その瞬間だけは確かに――未来へと繋がる「野球の魂」が輝いていた。