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前半:神大寺と深大寺を比べてみる(接触編)

「父上っ、父上っ!」


 息子は、床に伏せる父が心配で仕方がなかった。医師からは、生い先はもうないと言われてる。

 父が、ようやく反応した。


「……ああ、我が息子よ。ワシの城、江戸を、江戸の城を奪った、あの憎っくき"南方の凶徒"めから必ず取り戻すのだ……」


「はい、父上。必ずや!」


「ワシの葬儀など要らん。そのような暇があるなら戦え。お前が江戸の城に入城してこそ、我が供養となる……」


 厳格すぎた父はこれを遺言にして、息を引き取った。享年、数えで五十。天文六(一五三七)年四月二十七日のことであった。

 真面目すぎる息子は元服したとはいえ、未だ十三。父の叶わなかった夢、江戸城奪還を叶えるため、人生の全てを捧げると誓う。だが、南方の凶徒は極悪かつ狡猾だ。息子は、具体的にどうやれば奴に勝てるのかが分からない。

 父が南方の凶徒に江戸城を奪われた翌年、大永五(一五二五)年に息子は河越の城で生まれた。故に息子は、江戸の城も町も見たことがない。それでも父は、毎日そのためだけに人生の全てを費やしてきた。息子は父の、そんな重苦しい背中ばかり見続けていた。最初は怖かったが、成長するにつれて、父の力になりたいと武芸に励み、学問に励んだ。

 思い悩む息子の後ろに、叔父がいる。叔父は息子の背中を見て、その思いを読み取り、作戦を申し出てくれた。


「若様、某に良き策があります」


「まことですか、叔父上。申して下され!」


「江戸城奪還の要は、囲い込みによる孤立です。あの長尾景春が大乱を起こしたとき、太田道灌殿の江戸と守護館があった糟屋(神奈川県伊勢原市)を分断させるため、豊島泰経や矢野兵庫を味方につけて江戸を孤立させました。我らも敵地に味方を募り、敵地に城を築いて、それをやるのです。これで江戸は、必ず包囲できましょう!」


「なるほど、分かりました。早速準備に入ってくだされ!」


 息子は叔父の策に、全てを賭けた。

 

挿絵(By みてみん)


 梅雨入り宣言がなされた日曜日、朝から降ったりやんだり、雲行きがはっきりしない。

 舞岡市治は調べ物のため、開館時間にあわせて東京都調布(ちょうふ)市、調布駅に近い中央図書館にきた。駐車場からの距離なら、レインポンチョをまとうまでもない。


ーー今回こそ見つかれば良いのですが……。

 期待半分、諦め半分でいる。




 市治は一体、何を見つけたいのか?

 天文六年五月か六月、相模守護職扇谷家の上杉朝定(ともさだ)武州(ぶしゅう)(武蔵国)にあったとされる”古要害”を城にしようとした。古要害とは、かつて城か砦か陣地として利用された場所を指す。これが調布市の深大寺(じんだいじ)で正しければ、周辺にはほぼ必ず、関連伝承が残ってるはずだ。

 市治は、その伝承を探しに来たのだ。

 全国数多くの古戦場には、歴史の裏に伝承がある。市治はこのセオリーに乗っている。

 なにせ翌七月には、北条氏綱が河越(かわごえ)城(埼玉県川越市)を奪い取るいくさをしているので、その課程でこの古要害は自落か落城か? どちらにしろ氏綱の河越遠征の原因は、ここにあった。

 市治は自動車免許を取ったときから、数ヶ月から半年に一度は調布に訪れ、探し回っている。図書館から寺社や古老の取材まで、それらしい情報を掴んでは実際に尋ね、見聞きし、幻滅した。故に、お目当ての情報には一度も出会っていない。

 この様子を伝える史料の全てが二次史料で、その数は多いが、見るべきは以下の四つでよい。


『河越記』古要害地名は”深大寺”と記述。

『小田原記』”神大寺”

『北条五代記』”深大寺”

『鎌倉九代後記』”神太寺”


 記述の仕方には”神”と”深”二つのパターンがある。”大”と”太”は字面も意味も似てるので、注目する必要は無い。江戸時代の昔からその場所は、調布の深大寺説が有力で、今は誰の疑いもない歴史の常識となっている。

 ちなみに『新編武蔵風土記稿』でも、多摩郡深大寺村内の”古城址”で紹介されている。だが、武田信玄横浜侵略伝説のように(それが史実であれ誤認であれ)、この史料最大の特徴である”現地取材”に従ってない。深大寺村古城址の基礎情報は『小田原記』の引用である。また、この城には難波田(なんばだ)弾正(だんじょう)が住んでいた記述もある。これは『江戸名所図会』を参考にしているものの、図会では古城址ではない別の場所で紹介してる。編纂ミスの可能性が高い。




ーー本当に深大寺で良いのでしょうか?


 市治は"常識"とやらを疑ってる。中央図書館の資料検索をしても、郷土コーナーの棚も書庫も全部探しても、発掘調査報告書が一冊増えた以外の変化がないことだけが確認できた。その報告書を眺めても、再利用された痕跡は未だ報告されてない。過去に見つかった古い堀の跡はあれど、それが二次史料たちの記述が本当と裏付ける決定打になっていない。もし決定打ならば、鬼の首を取ったかのように意気揚々と記されるはずだが、ないのだ。


ーー礎石や柱穴のパターンが違う遺構があればよいのですが……。


 広い城内、発掘場所はほんの一握りでしかない。今後の発掘で発見される可能性は、ある。

 この深大寺城址、国指定重要文化財になるほど価値の高い遺跡だ。高い土塁と深い堀と広い郭。本格的に普請された印象がある。たった三ヶ月すら利用できなかった古要害に、大それた工事ができるのか? いや、元々あったものを再利用したとの考えもあるが、それなら逆に、一度放棄された理由が解せない。深大寺は古代から栄えた有名な要所なのだから、手放さずに使い続けろと言いたい。

 だから市治は、この疑念が捨てきれない。


ーー調布(ここ)では、江戸城にとってなんの脅威にもならないと思うのですよ……。


 調布ではないが、近辺には面白い言い伝えがある。三鷹(みたか)市の牟礼(むれ)砦跡と世田谷(せたがや)区の烏山(からすやま)砦跡は、深大寺城再興の脅威に対抗するために築かれたといわれるのだ。これも調布説を裏付けるものとされている。両者の間には小競り合いがあったとさえいう言い伝えもある。

 しかしそれでも市治は、納得できない。


ーー砦ふたつという防衛線を張った以上、それだけで対策は万全です。氏綱さんも出陣する必要はないでしょう。そもそも寿命二ヶ月足らずしかない〝古要害〟です。その間に砦を二つも完成させるって、少し眉唾です。この伝承がもし本当なら、氏綱さんが江戸城を取った大永四(一五二四)年から数年内でないと成り立たないと思います……。


 と考えている。両砦とも言い伝えのソースは『高橋家系図記録』だ。これは元和(げんな)二(一六一六)年に書かれはじめ、代々の人々が加筆している上、虫食いにあい、明治初期にすべて書き直した経緯を持っている。由緒には、北条常陸(ひたち)綱種(つなたね)の子孫が牟礼の地に土着したとある。が、綱種という歴史認定されていないオリキャラを根元にしながら加筆だらけになった史料を、どこまで信じたら良いのか?

 そう思うと、市治は失笑するしかない。


ーー古要害が神大寺にあると思ってる私さえ、同じような事をしてるのです。他人様のことなど疑う筋合いなどありませんわね……。



 後ろから嫌な気配がする。市治が振り向くと見覚えのあるオヤジが、弟子とも思える男達を何名も従えて立っていた。市治はそれでも席から立ちあがり、丁寧に一礼した。

 しかしそれでも、オヤジは元から声が大きいので、嫌みたっぷりにいう。


「おいおい、まだ諦めずに探してるのか? 深大寺城がここじゃない証拠を」


 市治はただ黙ってる。オヤジは続ける。


「まったく、ポッ出の郷土史家風情がワシらが必死に研究して築き上げた歴史を荒らしてくれるのは、迷惑なんだよ。古要害が神大寺だと? 貴様、地図も見たことないのか? 河越からじゃ神大寺はあまりにも遠すぎるだろ。深大寺が限界なんだよ。多摩川越えない方が現実的判断だ。北条為昌(ためまさ)の書状にもあるだろ! ったく、チビガキのくせにくだらん軍記物ばかり頼ったインチキ本まで出しやがって、バカか? 皆もよく聞け。文献ひとつまともに読めない歴史荒しに、歴史を語る資格はねえ。お前のくだらんトンデモ本など、ワシの歴史批評をよっく参考にして抹殺しておけよ!」


 取り巻き連中はイエスマンになるどころか、逆に怯えている。市治はとっくに分かっているが、オヤジだけが感づいていない。


「おいお前ら、返事はどうした?」


 と振り返り、取り巻きに怒鳴ると、オヤジと取り巻きは、背後に集まる図書館職員と警備に睨みつけられていた。

 警備がオヤジに注意した。


「静かにしてもらえませんか」


 オヤジはカチンときた。


「なんだと貴様? 下っ端バイトのくせに誰様にもの言ってると思ってるのだ? 歴史学会会長で、数多くのテレビ番組に出演して、大学で名誉教授を務めている雇小路(やとのこうじ)整親(ただちか)様と知っての狼藉か?」


「周りの迷惑になるので静かにして下さい」


「貴様は同じことしか言えないのか!」


 おさまるどころか逆ギレする。ここで警官三名が現れ、オヤジと取り巻きは館外に追い出された。これはどうやら職員ではなく、利用客が通報したらしい。

 市治は最後まで、無言と冷静を貫いた。


ーー尊敬はしているのですが……。


 これ以上は絶対に思わない。他人様を悪くいうと物悲しくなる。市治なりの礼儀である。




 一時間経ち、市治はなんの成果もなく図書館をでた。成果がないのも成果になるのだが。


調布(ここ)には今後、調べ物で来ることはないかもしれませんね」


 このとき、スマホのバイブが震える。市治が確認すると、空架橋からのメールだった。


”神大寺3回目”


 と、添え付けの写真が、天文六年神大寺古要害推定値の住宅街だった。自撮りだが。その推定値こそ、太田道灌が小机城の戦いで着陣した場所なのだ。だから古要害となれる。しかし市治のイラスト本でも、通説は調布にあると注意書きはされてある。タイトルでさえ『横浜に伝わる戦国時代のイラスト集』なのだ。大事なことなので繰り返すけど、タイトルには『伝わる』とちゃんとつけてある。

 なのに、架橋は疑いもなく横浜市神奈川区の神大寺を信じてるのか?

 聞きたいが、躊躇した。

 またメールがきた。


”絶景かな絶景かな!”


挿絵(By みてみん)


 その推定値から北側を写した風景。どこかのアパートに登って撮影したのか? 丘の向こうの新横浜プリンスホテルが写ってる、広範囲に見渡せるから、要害に適している。

 市治に笑みが出た。


「楽しんで頂ければ、感謝です」


 気持ちが爽やかになる。

 またきた。


”シウマイ”


ーーえ、もう買ったのですか?


 と驚くと、新たな添え付けメールがくる。


挿絵(By みてみん)


”神大寺ビール”


 と、昼食つきで送られた。

 市治は理解する。


「ああ、まとめて送っているのですね」


 神大寺のシウマイと地ビール、マイナー中のマイナーなのに、よく調べて見つけたものだ。地ビールの正しい名前は"神大寺()ビール"。ごく最近から期間限定で売られているものだが、あのシウマイは明治三十二(一八九九)年に製造販売されている。あまりに有名な崎陽軒(きようけん)のシウマイ(昭和三(一九二八)年)よりも歴史がある。


「伝承よりも食い気ですか? らしいです」


 と苦笑い。でも、それでいい。伝承でウェルビーイングをしてくれてることがよく分かる。

 ビールと言えばこの調布にも、地ビールなら深大寺ビールがあり、名物といえば有名すぎる深大寺そばがある。そばは江戸時代に生まれたというが、具体的にいつかが不明だ。初見史料は『続江戸砂子』だから、出版された享保(きょうほう)二(一七三五)年までには確実に存在している。

 市治は、帰るときに、お土産に買おうと決めた。




 昼、図書館から車で深大寺まで来た。雨は少し強い。傘とレインポンチョが市治を守る。名物そば発祥の地ともあり、寺の周りには蕎麦の名店が目白押しだ。選ぶだけでも大いに悩み、無駄に歩いてしまう。決めた店は弁財池の前にあった。ここで深大寺そばを堪能する前に、架橋に妖怪茶屋と蕎麦の写真を送った。

 食べようとすると、返事がすぐにきた。


”おそば、好きなの?”と問われた。


 そういえば前回も蕎麦だった。好きと言われれば好きだけど、普通だ。市治イコール蕎麦マニアみたいな印象を抱かせたくない。


 とりあえず”人並みですよ”と返信した。


 緑と湧き水の多い深大寺は、心が和む。だからか? 創建の天平(てんぴょう)五(七三三)年からずっと名刹であり続けるのか、とさえ感じた。

 寺院だけで一時間は散策できる。市治の場合、せせらぎの音にボーッと和んだり、建築物の歴史の古さにボーッと和んだり、和みの心地よさで一日中見惚れられる。

 ここでスマホが震える。二件連続だ。


”笠のぎ神社。漢字でてこない(涙)”

”浄龍寺。幸ヶ谷公園から見えたやつ”


挿絵(By みてみん)


「ああ、やっぱり天文六年ですね」


 笠のぎ神社は、正しくは笠()稲荷神社と書く。

 横浜に伝わる神大寺城伝説では、扇谷家の上杉朝定と北条氏綱は”神大寺原”と呼ばれる場所で合戦している。上杉軍の負けで終わるが、両寺社はこの戦いの犠牲にあって消失したといわれている。ただし、”天文六年”ではなく”天文の頃”や"戦国の頃"と記されてる。もし伝承を信じるならば天文六年以外の候補はない。どちらも『新編武蔵風土記稿』に携わった役人か学者が、現場まで足を伸ばして調べて残してくれた地元情報であって、他史料の引用ではない。

 比較する。こういう伝承は調布の深大寺や周辺には一切なく、横浜の神大寺と周辺にばかりに残っている。


「伝承が一つ二つなら、見逃しても良いのですが……」


 三つもあれば真偽を調べる価値はでる。伝承を伝承のままにして寝かすのか? 歴史に昇華して公にするのか?

 三時を過ぎた。雨は小康状態にはいる。市治は戦国史ファンの性で、どうしても深大寺城跡に足を運んでしまう。天文六年の件では疑えど、史跡としては本当に素晴らしくて、好きだ。寺家育美がいれば興奮する姿が目に映る。土塁も空堀も良いが、市治にとっての一番は、芝生の緑が濃くて目の保養によいことかな。

 市治は飼い犬の秋田犬〝池月〟と散歩すて和む姿を想像した。犬がはしゃいでくれそうなら心地よい。歴史ファンにそんなことを打ち明けたら叱られそうだ。

 スマホが震える。今度はなに? と思いながら開くと、


”上杉朝定が欲しがった江戸城です!”


 と、"!"をつけるほど強くでた。


挿絵(By みてみん)


「え?」


 市治は目を疑う。あそこから東京駅に着くには、すこしタイミングが早いのではと疑った。添え付け写真をみたら、小さな神社が写っていた。市治は疑いが解け、返信した。


「そこ、佐江戸(さえど)ですよね」


 写真の真相は都筑(つづき)区佐江戸にある杉山神社で、戦国時代は城だった。規模は小さく、遺構は全く残ってないが、麓を走る中原街道と、小机城の死角となる鶴見川西側の監視を補うための支城と思われる。

 返信が来た。


”さあ、江戸かな?”


 駄洒落まで言い出してきた。本当に楽しんでるな。しかし、そんな性格には見えなかった。市治の前では安心しきっているのか? しかし、そういう友達は何人もいた。これには皆洩れなく、背が小さいからだと言う。身長は気にしてるが、それで自分の周りのみんなが慕ってくれているから、まあいいや。

 ともかく返事を送ろう。


挿絵(By みてみん)


「あ」市治はふと、きらめいた。


「その近くに古民家風の人気蕎麦屋さんがありますよ」


 送信するも、すぐ返ってくる。二回だ。


”やっぱりおそば大好きなんだ”

”お昼たべたし、おそばはちょっと……”


「あ、そうでした……」


 市治はハッとした。


「和スイーツもありますよ」


 これには架橋が食いついた。


”行く行く!”


 喜んでくれた。よかった。

 ここで雨は止み、日がでてきた。

 市治は家に帰ろうと思った。駐車場まで歩き、乗り、エンジンとナビをつけると、ナビの地図が興味深い場所を示した。


「あら、すぐ近くにスーパー銭湯があるのですね」


 スマホで検索してみたら、古民家風の外観と、黒湯自慢の温泉だとあった。市治にとって黒湯は最高の癒しだ。市治は考える間もなく車を動かし、スーパー銭湯まで走らせた。

 入口に入れば甲冑がお出迎え。レプリカだが雰囲気があって気に入った。

 入浴する。黒湯はやっぱり最高に気持ちがいい。横浜にも黒湯温泉は結構あるが、ここもいい。気に入った。また訪れたくなった。

 温泉からあがり、休憩室でくつろぐ。

 架橋にも教えようとスマホをだすと、架橋からきていた。


”甲冑だよ!”


 市治は今更ながら思い出した。あの蕎麦屋にもレプリカ甲冑が飾られていることを。 

 そういえば黒湯だ。深大寺にあるのなら神大寺にはあるのか? 答えはない。だが、笠䅣稲荷神社からそう遠くない大口商店街の入り口付近に、その銭湯はある。

 市治は架橋に教えようとしたが、手が止まった。


「あ、そらさん今、佐江戸にいるんだ……」


 佐江戸ではアクセスが悪い。ならば別の黒湯温泉施設を教えるしかない。佐江戸のバス停からなら、市営バス28系統に乗れば一直線だ。新開橋(しんかいばし)で降りれば、目の前にそれはある。

 市治はスマホ画面を、メールから電話に切り替えた。





 六月、安房国守護職の里見義堯が南方の凶徒と呼ばれる北条氏綱を裏切り、上総国守護職、真里谷家の武田信応と武田信隆の内乱に介入した。北条氏綱はこの前年、背後を支配する今川義元とも対立してしまった。氏綱はただでさえ敵が多いのだが、ここでピークを迎えたのだ。

 息子はこれをチャンスとし、叔父が調略を実行した。

 叔父の成果は、わずか半月ほどで出た。


「若様……、いや御館様。敵側寺社のいくつかが味方になってくれました。これなら寺社背後の丘に城を築けます」


 息子は喜んだ。


「おお、さすが叔父上だ!」


「里見といえば東国最強の水軍持ちです。南方の凶徒めに歯向かったのなら、海賊行為を再会させるはずです。海の湊でも河川の湊でも、敵の湊なら関係ありません。これを防いでもらうためには我等につくしかありません。そう説得したら乗ってくれました。築城にはそれがしの河越衆を送りました」


「よし、里見殿が奴から離れてくれたのならば、あの凶徒めを助ける大名など一人もいない。奴は容易には動けないはずだ。叔父上、築城を急いでくれ」


「ははっ!」


 息子は叔父に築城を任せた。

 息子は家督相続をしてすぐ、事態の好転に鼓動が高鳴る。


ーーみていて下さい、父上。江戸城の回復、意外と早まるかもしれませんぞ!


 七月に入ると、北条氏綱は一万の大軍勢を率いて小田原を出陣した。目指すは駿河でも甲斐でも上総でもない、築城中の場所だった。息子は焦った。


「わ、我らも出陣だ。古要害まで行くぞ!」


 息子は三千の兵を従えて河越を出た。同時に、周辺の味方大名たちにも応援依頼の使者をだした。


 結果は散々だった。激突したが負け、河越城へ逃げるも敵が追いかけてきた。息子は、仕方がないので城の守備を空にして、全軍率いて河越近くの三木原で戦った。味方は奮闘するも、背後から現れた敵別働隊の江戸衆に河越城を乗っ取られてしまった。城下町は破壊と放火された。

 味方は総崩れ。敵に壊滅させられた。

 息子は泣く泣く松山城(埼玉県比企郡吉見町)まで逃げた。

 叔父は殿軍を務めるも、敵に捕えられ、処刑された。

 最悪だ。江戸城を取るつもりが、河越城を取られた。これでは亡き父に顔負けができない。


「何故だ? 何故こうなるのだ?」


 息子は理解できなかった。

 包囲網勢力とは、えてして連携が悪いものだ。


上杉憲政「一守護の分際で上役たるワシの断りもなく勝手にいくさすんな」


里見義堯「陸に軍勢出す時は水軍動かせないけど……」


武田信隆「助けならこっちが欲しいくらいだ」


今川義元「東国になど興味ないでおじゃる」


武田信虎「え、もう河越取られちゃったの?」

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