後半:武田信玄横浜侵略伝説(後編)
3、何故か字面通りが認められない一次史料、武田信玄編
昼食は桜ヶ丘、保土ケ谷公園の脇にあるファミリーレストラン"ハラヘリータイガー保土ケ谷本店"で、ハンバーグステーキなどを堪能した。舞岡市治が「武田信玄さん繋がりです」と真顔で冗談を言っている。当然のことだが"甲斐の虎"と異名されてる武田信玄と、アメリカ生まれで"タイガー"を名に持つこのファミレスとは何の繋がりもない。
でも美味しいから、みんな笑って許してくれた。
市治は想定だが、言ってみた。
「あ、そういえば武田信玄さん、保土ケ谷駅前まで来てない可能性もあります」
空架橋が残念がる。
「え、なんで?」
「いわな坂で戦った武田軍が"先鋒"とあるからです。信玄さん本隊の安全を図るには保土ケ谷駅まで行かず、途中の三ツ沢公園交差点で曲がって和田へ来て、橋を渡り、この丘を越えて法泉へ向かったのかな? という想像もできるわけです。でも、想像なら何でもありになって良くないのですけど……」
架橋の表情は曇る。
「じ、しゃあ、私の隊はどうなるの?」
「意義はあります。吉良衆がどれだけの戦力かを確かめるためにも、あと、信玄さん本隊が後ろを襲われないための堤防になるためにも。ならば先鋒が敵と戦う理由は、あまりないのです。詳細情報が掴めれば即撤退で構わないと思います」
架橋はホッとした。
「そっか。物見ができれば、私みたいなビビりさんでもいいのね!」
「はい。信玄さん、人使いは上手ですもの。要は、保土ケ谷駅では敵軍との距離が近いのです。ならば少しでも離れて安全な距離を保ちたいでしょう。武田軍にとって、このいくさの目的地はあくまでも小田原です。それまで損害は可能な限り受けたくないのです。そういうことです」
「へえ、ちーちゃん、頭いいね」
「歴史学者の皆様に叱られる事ばかり言ってますけど……」
市治は謙遜した。
市治のレパードで保土ケ谷区の境木から脇道に入れば、戸塚区にはいる。これはそのまま、旧武蔵国から旧相模国に入ると同じ意味となる。脇道は旧東海道で、品濃坂を通る。この道は軍記物『関八州古戦録』によると、武田軍が小田原へ行く際に使用したのではないかと考えられる。
いや、正確には使用した記述はない。でも、永禄三(一五六〇)年長尾景虎(のちの上杉謙信)の小田原攻めでは、この坂道が通路として記述されている。信玄の侵攻ルートも横浜市域はほぼ同じルートで記している。だから、品濃坂は利用されたという読解である。
戸塚区下倉田町の永勝寺。三方を緑の丘に囲まれた長閑な寺院である。
寺の山門を見るや、瓦の至る場所に武田家の家紋、武田菱の彫刻がある。数えきれないほどだった。本殿にも、屋根上の紋章が武田菱だった。綱島の諏訪神社でさえ家紋は諏訪由来の梶の葉だ。ここまで武田菱をアピールされると、ここも、横浜にいながら山梨にいるかのような錯覚を抱かせる。
市治はいつ来ても、こう思う。
「信玄さんを祀る武田神社でさえ、ここまで武田菱アピールはしていません」
武田リスペクトぶりは、むしろ好感がもてる。
このお寺、『新編相模国風土記稿』を下に独自の解釈も加えると、元々は長延寺と名乗り、天台宗だった。だが、いつの頃か浄土真宗に改めた。しかし戦国時代までにこの寺は廃れてしまう。その理由を示す記録も伝承もないけど、小田原の北条氏が浄土真宗を嫌っていたことも、影響のひとつだったようだ。しかしこの廃れた寺を、武田信玄が蘇らせたといいう。その時期は明確ではないが、恐らく、武田、今川、北条の三国が同盟を組んだ天文年間末の頃(一五五二年以後)であろう。
しかし『戸塚区郷土史』や『新編相模国風土記稿』によると、この武田信玄横浜侵略の際に北条氏から圧迫を受け、堂宇が没却された。住持は甲斐へ逃げるものの、のちに戻り、再興する。ここで寺名を”永勝寺”と改めたという。ただし『甲斐国誌』では、甲府移転は天文期となっている。ただ、どちらが史実に近いかといえば、当時の住持の活動から『甲斐国誌』のほうが優勢という。
次は栄区上郷町の光明寺を見る。永勝寺よりこぢんまりしている感がある。この寺は『新編相模国風土記稿』からまとめると、創建は不明だが、聖徳太子か小野妹子の側近かが堂宇を建てたのが始まりだという寺伝を持つ。こちらも天台宗から浄土真宗に改めている。戦国時代、武田信玄のこの北条攻めの時に武田信玄と通じた。当時の住持が国府津の真楽寺を陣にするために協力したというのだ。これが北条氏康に気づかてしまい、弾圧された。住持は寺ごと江戸の赤坂に逃れるも、北条氏が天正十八(一五九〇)年に滅び、徳川家康が関東を治めたので、住持は現地に戻り、再建したという。
「赤坂ってモロに北条領内じゃん」寺家育美が違和感をだす。
たとえ史実から遠い話とはいえ、もし北条氏の弾圧を受けたのなら永勝寺のように、敵国の甲府に移転したほうがリアリティはあると思った。
それは市治も同じ思いだった。
「光明寺さんの赤坂移転は、むしろ大船の成福寺さんか北条領内の伊豆に移転した時と同じ、天文期ではないかという考え方もあります」
「なんで?」
「共に浄土真宗のお寺さんだからです。一向宗ではあれど北条家に歯向ってはいない。だから領内に移転させて、末寺さんや信者さんへの繋がりを弱くさせたのかもしれません」
「ああ、北条家は五代みんな一向宗、ちょー嫌いだもんね……」
「はい。天文期のこの圧力と、信玄さんの侵略が混同してそんな伝承がうまれた憶測もあるほどです。それに、町田市の正山寺さんも浄土真宗で、武田軍に協力したので、北条軍に武力鎮圧された寺伝を持っています」
「町田にもあるんかい?」
「はい。嘘であれ本当であれ、信玄がここに来ないと生まれない話かもしれないということです」
レパードで次の目的地に走らせる舞岡市治だが、戸塚区俣野公園の駐車場で車を止めた。
市治はいう。
「次の目的地はこの〝俣野〟ですけど、実は、信玄さんゆかりの俣野が特定できないのです」
と、空架橋、新治英々子と寺谷育美にカーナビの地図を見せた。俣野は広い。境川の東西にまたがってる。その東が横浜市で、西が藤沢市となる。
寺家育美は「どゆこと?」と問う。
市治は愛用の極薄ノートパソコンをだし、保存した寄進状のファイルを見せて説明した。
「元亀二(一五七二)年七月十六日付で、信玄さんがだした寺領寄進状には、清浄光寺(遊行寺)さんに対して、藤沢二百貫と、俣野の内の百貫分の合計三百貫、寄進してあげるとあります」
英々子は感心して市治に質問した。
「寄進って、つまり、領有してるってことだよね?」
「そう思いたいのですが、実は、そうもいかないらしいのです」
「え? いやいや、所有してなきゃあげる系の言葉は成立しないよね」
「空手形説もありますし……。一次史料でありながら、私もここは不勉強で、まだお手上げなのです……」
架橋「やっぱし、ぶっとび系の飛地感?」
育美「かもねー。知らんけど」
英々子は疑問をいう。
「遊行寺(清浄光寺)ってここから近いでしょ。北条氏政に虐められなかったのかな?」
市治が教えた。
「それなら既に伊勢宗瑞さんがやりました。永正十(一五一三)年、玉縄を攻めた時にお寺さんも焼き討ちしました。信玄さんの横浜侵攻から六十年以上も前です」
育美「なるほど。お寺を再興するには、まず土地か?」
市治「清浄光寺さんが宗瑞さんに壊されてから、駿河や甲斐や若狭を転々とし、戻ってこれたのは慶長十二(一六〇七)です」
育美「慶長十二は一六〇七年だから一五一三を引くと……、九十四年か。なっが!」
英々子「で、行くの? 市外は反則のような気がする」
市治は屁理屈で答えた。
「図書館棟はこの辺りのシンボルです。それは藤沢の北部地域も含まれます。ならば藤沢も、一部は横浜です」
育美「町田は神奈川よりも謎めいた県民性だな」と苦笑いした。
長話になってるので、市治は会話を打ち切る。
「さあ、行きましょう」
とドアを開ける。お目当ては道路を挟んだ向こう側、横浜薬科大学だ。市治は大学に事前連絡をいれていたので、先に受付へいく。
架橋は苦笑いした。
「いやぁ、卒業してたった二ヶ月で大学訪問とはねー」
横浜薬科大学でも異彩を放つ図書館棟は、元々この地にあった横浜ドリームランド宿泊施設、ホテルエンパイアの再利用だ。五重塔か望楼型天守閣か、そんなイメージを抱かせるが異彩とは、七七.七メートルの縁起よき高さと、設計コンセプトに〝安土桃山時代と現代の融合〟があったからだ。ホテルは昭和四十(一九六五)年に開業し、平成七(一九九五)年に閉店する。ドリームランドは昭和三十九(一九六四)年の開園で、平成十六(二〇〇四)年に閉園した。この二年後の平成十八(二〇〇六)年に大学は開校している。この棟は、ここに遊園地があった頃の数少ない遺産である。と同時に、戸塚区南西部と藤沢市北部のシンボルとしても慕われている。
四人はエレベーターで最上階、二十一階に着いた。休息中や読書中の学生が数名いた。四人の目に、ここから全方位の景色が飛び込んできた。まるで空を飛んでる鳥のような気持ちよさだった。神奈川県の平野の全部が眺められるといってもいい。無論、富士山もよく見える。
「おおおお!」架橋、育美、英々子は驚き、興奮し、瞳を輝かせ、展望窓の真ん前まで走った。
三人の後ろで市治は得意げに言った。
「信玄さんゆかりの俣野が特定できないのなら、俣野すべて見せましょうってことです」
英々子は時計回りに、育美は反時計回りに全方角を眺めて歩いた。
架橋は振り向いて、市治に感謝し、誘った。
「ちーちゃんすごいよ。見て見て!」
市治は最上階に着いて以来、ずっとエレベータードアの真ん前に立ったままだった。見守るような優しい表情はしても、ぎこちなさがあった。
「は、はい……」
「あれ? 見ないの? 真下なんかスリルあって楽しいよ」
市治は両の目を両の手で閉じ、冷や汗をだした。
架橋は理解せざるを得なかった。
「……あ、高いところ苦手なんだ……」
でも、市治の挙動不審もなんとなく可愛いかった。
英々子「まんまる緑地がある!」
育美「あ、あれ、深谷通信施設の跡地だね」
ふたりは会話が弾んでいた。
架橋の近くの壁際に、ピアノが置かれてあった。
「へえ、こんなところで弾けたらロマンチックねー」
弾けない架橋は少し残念だった。
市治は少し違和感を覚え、ピアノの間近まで来た。
「前に来たときはありませんでしたが、学生さんのリクエストでしょうか?」
「弾けるの?」架橋は問う。
「たしなみ程度でしかありませんが」
「へえ、聞きたいなー」
市治一曲、奏でもよいと思った。谷山浩子作詞作曲の〝風になれ~みどりのために〟を披露した。
自然讃美に癒される曲だった。
聞くもの皆、全身に瑞々しさを感じた。
演奏が終わると、三人からも学生からも大きな拍手を貰った。市治は立ち上がり、三方向に頭を下げて感謝した。
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市治の目の前には、ホテル時代の展望レストラン〝オーロラ〟がある。しかも、景色が微妙に動いていた。このフロア自体が一時間に一回転する電気仕掛けが、実際にあったのだ。窓側の一席に武田信玄が座って食べていた。甲府駅前の武田信玄銅像みたいな強面だが、声はまんま英々子だった。
「感動したよ。市治ちゃん、ここに座って」
強面なのに柔和な声。違和感しかない。
「は、はい」市治は通路側の隣りに座った。
英々子信玄は、日本酒にほろ酔いしながら語る。
「私もここ二、三年、ストレスが酷くて胃がキリキリしてたのよ。でもね、キミの歌で治まったわ。きっとお休み前が効果的そうだよね」
「はあ、それは、有難うございます……」
市治は意外な妄想に付き合わされて戸惑うも、冷静を保たせる。育美と架橋はこのウェイトレスだ。水を提供したと思いきや、座り込んだ。まるで友人のように。市治はコスプレするなと突っ込みたかったが、やめた。
ここで育美が、英々子信玄に突っ込んだ。
「信玄さん、その顔って畠山義続さんでしょ?」
信玄は顔をひきつらせ、弁明した。
「い、いや、この顔じゃないとイメージが……」
「いやダメでしょ。最新の研究に乗っ取らないと、色んな方面から叱られるよ」
「弟が書いた肖像画じゃあ、ゆるキャラみたいだし……」
「その優しそうな顔が信玄でしょ……」
「ていうかあれ、吉良氏朝の養父にクリソツじゃない」
「養父? ああ、吉良頼康のあの肖像画は〝伝〟付きだから」
次に架橋が手を上げて、マニアックじゃない簡単な質問をする。
「はーい、はーい、信玄さん。お嫁さんと娘さんたちのお名前は何ですか?」
信玄は悩みながら答えた。
「ふむ、良き質問じゃ………………。知らないわ!」
「えーっ、自分のことでしょ?」
しかし信玄は、あの強面で自信満々と反論した。
「歴史学者が知らないことを、この私が知るわけないでしょ!」
育美と架橋が腹を抱えて笑う。市治も必死にこらえ、笑顔を隠すようにうずくまる。
架橋は笑いながら、次の質問をする。
「じゃ、じゃあ、寺ちゃんが言ってた肖像画を描いた弟さんの名前はなんですか?」
英々子信玄は教えた。ストリートファイターのリュウの口まねで叫び、拳を上げながら。
「ショーヨー拳ッ!」
育美は爆笑した。英々子はモノマネしてもゆったりしてる。架橋はリュウなど知らないが、勢いで笑った。市治も知らない。でも、つられて笑いそうでまた顔を隠した。
弟の名は、武田”逍遙軒”信綱という。
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妄想を満喫したら、大学を離れた。空がすこし暗くなっていた。藤沢市の防犯チャイムが〝夕焼け小焼け〟を鳴らしはじめる。
英々子が感心した。
「へえ、田舎はともかく、横浜で始めて聞いたわ」
市治は何故か残念がった。
「羽沢より田舎が市内にあったなんて……」
「おいおい」育美は突っ込んだ。
架橋はいう。
「津幡のチャイムは〝家路〟だよ」
「なにそれ?」育美が問う。
「あれだよ。ドヴォルザーグ交響曲第九番〝新世界より〟第二楽章の、〝遠き山に日は落ちて〟のメロディね」
「ああ、分かった。大河ドラマ武田信玄のオープニング曲の〝林〟のパートね」
「なにそれ?」架橋が問うも、皆、笑った。
英々子、育美、架橋は、チャイムのメロディに乗って口ずさむ。
「カラスと一緒に帰りましょー♪」
市治は、わざと驚いて見せた。
「え、もう帰るのですか? まだ二カ所も残っていますよ、次の次は、城跡ですけど」
育美が目の色を変えた。
「何っ、お城っ? 早く、早く行こうよ!」
市治はここでやっと、本題に戻した。
「俣野が武田領認定されないのは、情報不足すぎて仕方がないです。ここを支配したと家伝に残す武田家臣の御子孫さまは今、藤沢に住んでいらっしゃるというのに……」
育美は、市治の気持ちも理解はできた。
「証言はあるのに証拠がない。仮にあっても拒まれる。確かにモヤモヤするわよね」
「どうすうれば良いのでしょうか?」
「新史料が発掘されない限り、無理じゃね?」
「……、かもしれませんね」
旅の醍醐味は時間とお金の無駄遣いにあり。その前者をさらしてしまった。残る関連場所の紹介は早足にならざるを得なかった。
市治たちは車に乗り市外の藤沢市に入り、西富の清浄光寺に着く。見どころは沢山あるのに、時間の関係上、ご挨拶程度の投げ銭だけで終えた。
その次は車でわずか数分、藤が丘の御幣山の城跡だが、この地は大型マンションが建ち並ぶためか痕跡がない。育美はそれでも興奮し、どんな城か妄想できた。
「これ、場所的に玉縄城の支城ね。その一つを奪って玉縄城の機能を削いだのかもね。てかやっぱし伝承とはいえ、信玄の腹黒さがしっかり伝わるよ!」
武田信玄の藤沢と俣野の支配伝説は、御幣山城の伝承と直結してる。当時の城主大谷公嘉は、武田軍に攻め落とされて降伏したため、三年ほどらしいが藤沢と俣野は、武田領となったというのだ。
辺り一面、星空になってる。遅くはなったが市治は目的を達した。真顔とはいえ、心地が良かった。
「とりあえず終わりました。今日はお付き合いくださり、有難うございます。お礼にお夕飯、ごちそうします」
都心や川崎に伝わる数カ所は巡ってない。横浜市内では寺尾城跡も行ってない。これも仕方が無い。次、機会があればにしよう。
市治は皆を、藤沢駅の中心街から少し離れた場所にある、信州蕎麦の名店へ案内した。
帰りの車内。架橋も育美も英々子も、最高に美味しい蕎麦を食べさせてくれた市治に感謝した。
ここでもほろ酔い状態な育美は、北条氏政に対する考え方が一変したようだ。
「私、なんか、氏政見直した」
英々子も同じだった。
「ああ、分かる。三増峠合戦は横浜をよく見ないと、深みが伝わらないって実感した」
運転する市治も、別視点で同感した。
「『甲陽軍鑑』のお話ですが、三増の合戦で信玄さんが、合戦では何の手柄にもならない小荷駄の無事をなにより一番重視した理由が、ここにあったのかもしれませんね。他に小荷駄守備を重視したいくさ、知りませんもの」
架橋は問う。
「え? どうしたの? なんで?」
英々子は語った。
「ほら、氏政って、父親も祖父もその前も偉大すぎて、私ら後世の人たちからなにかと比べられらてるの。で、ダメ当主って評価されてる。エピソードもあって、一皿のご飯を食べるのに味噌汁を二回かけたのよね。それを氏康が、そんなの一度かければ程度が分かるはずなのに分からないとは情けない、って嘆いたアレ」
育美が続ける。
「でもさ、故郷があれだけ好き放題にやられまくって、手出しできない小田原を舐められまくったら、私ならマジギレする。氏政はキレてくれた。で、仕返しを強行して三増峠で戦ってくれた。ボロカスに負けたけどね。逆に氏康はそれでもクールになれてるからレジェンドなんだし、私も五秒前までは氏康支持だったけと、今、そのクールさが嫌になった。追撃拒否がたとえ理屈でも、気持ちが収まらないもの。そんな態度じゃ、武田に寝返るかもしれない」
「だよね。私ら、その辺の凡人だもん。私がもし当時の北条家臣だったら、どちらに同情するかといえば氏政だよ。盗まれたものは取り返さないと、納得できないもの。良くも悪くもこの人、一所懸命を信条とするサムライらしいのよ。男には、負けると分かっていても戦わなければならぬ時があるのよ。そんな背中を見せられたら、誰だって武者震いするわ」
育美と英々子は、氏政はむしろリスペクトすべきだと学んだ。
架橋はよく理解できてないものの、だからこそ、氏政は無能だという偏見は最初から持ってない。学び始めから最新情報を基礎知識として落とし込める強みに、架橋は気づいていない。
市治は、予想外の成果に満足していた。
ーーそんなサムライの信条を踏み躙った上に手玉に取り、相手を窮地に落とし込んでから一瞬の隙をわざと見せて誘い出し、粉微塵にする。これが信玄さんの必勝法が誰の必勝法よりも恐怖である所以だと、私は思うのです……。