前半:散策、小机城合戦(後編)
(↑舞岡邸イメージ(天王森泉館))
舞岡邸はこの地域一番の豪邸であり、古民家だ。邸宅は明治末の和洋折衷の木造二階建て。倉も三つあり、佐々木源氏の”隅立て四つ目結”の家紋が印象的だった。玄関に入ると靴がやたら多い。
そこに家政婦の綿打みほ、さわの母娘が挨拶までしてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那さま」
「お客人です。私の部屋に連れて行きますので」
「承知いたしました」
寺家育美、新治英々子、空架橋、不思議で仕方がない。
だが市治にとっては当たり前の風景という。
「小作人や女中さんを雇った頃から、ウチはずっとこんなかんじらしいです」
と教えてくれた。三人は返す言葉もなく、ただただ感心するばかりだ。
長い廊下を歩く。各部屋で客人たちが好き放題くつろいでいた。将棋に夢中な老人達、裁縫に夢中な主婦達、秋田犬や茶トラの猫とたわむれる子供達。皆、笑顔で穏やかで、見知らぬ三人に挨拶してくれる。まるで公民館か憩いの場みたいだ。
屋敷の一番奥に市治の部屋がある。八畳二間、一間は洋室でまるまる車庫にしてる。もう一間の和室が実質上の部屋で、まず、絵画用の高価なペンタブレッドに高性能デスクトップが目立つ。それと風景だ。硯松から舞岡邸へ向かう途中に通った森、この小さな谷の全てが庭になってる。新緑の森と湧水、縁側に小さな人工池、水源地には稲荷の祠。野鳥もさえずる。
三人は、本物の金持ちに圧倒されるばかりだった。
みほが粗茶を持ってきて、下がる。
架橋は息を呑んで落ち着かせてから、目を輝かせた。
「凄い凄い凄い! 家が大きいとか家政婦雇ってるとかって、舞岡さん財閥令嬢なの?」
「いいえ。野良を生業としていますけど」
市治は押し入れから出版社の段ボール箱を出し、著書を一冊出し、架橋に渡した。架橋が定価の金額を市治に渡すと、市治は三つ指ついて頭を下げてから、部屋を一端離れて、神棚に移し置き、両手を合わせて感謝した。
市治は部屋に戻って、三人は自己紹介をはじめた。市治もやった。
育美はここでも、
「拘束時間外はタメ口オーケー」
を市治に求めたが、
「は、はぁ……」と浮かない。
「どうしたの?」
「タメ口とやらで喋ったことがありませんので……」
「え、マジ?」
「そういう方、何名かいらしたのですが、私の方が噛んだり呂律が回らなくなったり混乱しますので、申し訳ございません……」
育美はそこまで言われたら、認めるしかない。
「仲良くしてくれるのなら、どっちでもいっか」
市治は感謝して、頭を下げた。
ここで再びみほが「お昼です、旦那様」と呼ばれた。
「ありがとうございます。お客様の分は?」
「勿論ご用意してます。というより、さわは基本、作りすぎますから」
昼食を客人たちと一緒に済ませると、三人は史跡巡りの続きをはじめようと決める。ここで綿打みほは、市治に提案してきた。
「旦那様もお付き合いしたらどうですか?」
「え、いや、まだそこまでの関係では……」
「じゃあ、今、なりましょうね。あの三人さんは歴史めぐり、やってるのでしょ」
女中さんの目が、市治から三人にいく。
架橋は「は、はい」と肯定した。
女中は架橋に、市治を差し出した。
「ウチの旦那様、しゃら詳しいですよ。ガイド雇いなや。お代はとりませんから」
「え、いいの?」
「はい。この子、お友達多いのに自分から作ろうとしないから、なってあげて下さい」
「なるなる!」
架橋は喜んだ。ハグしたくなったが、さすがに抑えた。
みほは言う。
「お外に出るなら髪を結いなさいな」
と、市治の実母のようにカントリーガールのサビを鼻歌しながら、市治の髪をいつもの三つ編みにした。
「田舎娘の出来上がり」
市治は苦笑い。
「世界中の三つ編みさんに叱られますよ」
とはいえ、馴れてる。三人は笑っていいのか悩んだ。
市治はみほからポンチョと車のドアキーを受け取る。しかし、鍵が合わない。
「あれ?」
市治は首をかしげると、みほが突っ込んだ。
「旦那様、なんでクリッパーなの? 畑に行く気ですか? 荷台にお客を乗せて羽沢を出たら捕まりますよ」
「あ……」市治は隣の車は向かった。
英々子も育美も、これ突っ込んでいいのかと苦笑い。
ーーそらちゃん以上の天然かも……。
架橋は心のなかで、市治可愛いの連発だった。
市治は愛車、F31レパード前期型アルティマ(ゴールドツートン)のドアを開け、三人を乗せてから出発した。
「何処に行けば良いですか?」市治は問う。
「神大寺エリア」英々子が答えた。
市治は、羽沢より北は制覇したと推測。
「小机の古戦場は大きく分けて二つのエリア、小机と神大寺がありますね。小机の方は制覇したので?」
英々子は答えた。
「小机城は最後のデザートにしてるわ」
「なるほど。では、矢之根や住吉神社は?」
「え、なにそれ? 知らないわ……」
英々子は首を横にふった。育美も同じく知らないから架橋は余計に知らない。市治は解説した。
「矢之根は、矢野軍が太田軍と矢合わせした場所です。城跡のすぐ北、バス停があるのですぐ分かります。住吉神社は、矢野兵庫が深く崇敬していたお社様です」
英々子は市治の深さに感心する。
「え、本当? 私、子供の頃から道灌好きで色んな本を読んだけど、そんな情報、何処にもなかった」
「小机の住吉神社は、大阪の住吉大社から分神を頂いてます。海路平安の神を奉るので、神奈川湊を治める矢野さんには、お似合いの神様でしょうね」
「わ、すごい。矢野兵庫の人柄、初めて脳内に設定されたわ」
「まだ歴史には成り切ってないお話ですけどね」
という間に神大寺古要害の跡地に着いた。
しかしどこをどう見ても、丘の上にあるごく普通の住宅地である。谷を挟んですぐ東には神大寺団地、西には神奈川大学と捜真女学校と、大きな建物の間になる。
車を降り、市治が解説する。
「ここが神大寺古要害と伝わる場所です」
舌状の丘、妄想すれば、陣取りにとても良さそうだ。
「太田道灌は、二月からずっと亀の子山で対峙していましたが、四月に鶴見川を渡り、ここに陣を構えました。その翌日、羽沢のあそこで詩を詠んでから、城を落としてます」
英々子は言う。
「そういえば太田道灌って城攻めの天才って聞いたけど、二ヶ月は長い方? 短い方?」
「長いと思います。太田道灌が小机城に着いたのは二月八日です。で、落城は四月の十一日。費やした時間はおよそ二ヶ月です。この戦いより前の、豊島氏を滅亡させた江古田の戦いは、城攻めを含めて八日で決着させてます」
と、市治は答えると、育美は感心する。
「へえ、矢野兵庫って、結構やるじゃん!」
英々子は道灌を擁護した。
「でも、江古田から小机と、合間を挟まずに合戦を連発させてるでしょ。小机城で長い時間を取ったのも、兵たちに無理をさせたくなかったのかもだよ」
育美もそこは納得した。
「でもさ、道灌が神大寺にきたとたん、お城は一日でパーじゃん。てことは、城の南側の備えがザルってこと、道灌は見抜いたのかな?」
市治は推測で言うしかなかった。
「神大寺は神奈川湊と小机の中間です。よく分かりませんが、神大寺にはアキレス腱になる何かがあったのかもしれません」
架橋がここで質問した。
「神奈川湊って、横浜港のこと?」
市治は答えた。
「いいえ、簡単に言うなら、私と空さんが初めて出会った幸ヶ谷公園のすぐ東、滝野川河口辺りです」
「へえ。でも、太田ドカンって、ここまでどうやって来たの?」
市治の前に、英々子が当たり前のように教える。
「そりゃ、渡河でしょ。私らもそうだったように、鶴見川を越えないと来れないじゃん」
それはそうだが市治はニヤリとする。架橋の質問はくだらないどころか、何気に良い所を突いている。
「では、その渡河場へ行きますか?」
これに一番食いついたのが英々子だ。
「え? 場所分かるの? 行く行く!」
育美も架橋も賛同した。これも本で見たことがない。だから興味を抱いた。
市治は三人を車に乗せ、案内する。行程中、合戦ゆかりの地を車で通過しながら説明した。
順番に、神大寺団地に近い九つ塚推定地と道灌森。丘を降りた赤田谷戸。幹線道路から細道に入った処刑原である。どれも硯松のような石碑や跡地はない。歴史や伝承を知らなければ、普通の住宅街や畑だった。
新横浜駅のペデストリアンデッキ。そこで一番の特徴をもつ交差点の円形回廊に立つ。幹線道路北西側の向こうには最初の訪問地、亀の子山陣跡の丘が見えた。
ここで市治は、この地の秘密を教えた。
「ここが小机城合戦最大の激戦地、旧名、橘樹郡篠原村字”勝負田”です!」
勝負田、勝負。そして、どんな書籍にもない激レア情報。衝撃と妄想が一気に広がった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
四月十日、太田道灌率いる大軍勢が鶴見川と、並行して流れる鳥山川の渡河を強行した。鳥山川と鶴見川の合流点は、今は新横浜だが昭和三十年代までは綱島に近い太尾だった。
太田軍の渡河作戦は無謀といえる。
小机城主矢野兵庫扮する英々子も、見抜いていた。
「太田ドッカンめ、二ヶ月もこの私に足止めされたせいで、万策尽きたわね。よし寺ちゃん、そらちゃん、道灌めをやーっつけておしまい!」
「あらほらさっさー!」
兵庫は、育美と架橋に二千の全軍を率いさせて小机城を出陣させた。太田軍が渡河した先には、あの篠原城がある。城主金子出雲守は矢野兵庫の味方豪族である。その金子衆も矢野衆の出陣に合わせ、兵三百で篠原城を出陣した。
軍を率いる育美は、してやったりだった。
「この挟み撃ち作戦が今週のハイライトだよ。これでドッカン負け決定ね!」
前田利家愛用のあの甲冑をつけた架橋は、提案する。
「ねえいくやん、私の部隊にドラゴンとドワーフとダークエルフとか入れてええか?」
「ダメ! 妄想もなるべく史実に合わせるの」
「吸血鬼やハンターも?」
「……、先ずはあんたの金ピカ甲冑を地味に変えなさい」
「ったく、しゃーねぇなぁ」妄想なので一瞬で変わった。
などと話しながら早駆けしていると、城から出てきた味方の金子衆が、太田軍と戦うどころか合流してしまった。まるで吸収されたかのようだった。
「あれ……?」育美は状況の一変を悟る。
太田軍は半分に割れ、その別働隊が金子衆とともに、育美と架橋の矢野衆へ向けて突撃をはじめたのだ。
育美は青ざめた。
「待て待て待て。出雲、裏切ったんか! まずいな。敵は多勢、ここは平地。私らに不利じゃんか……」
等々、色々考えてるうちに両軍が激突してしまった。真正面から激しい合戦が始まる。
育美は命令する。
「ま、まずいぞ。引け、引けーっ!」
撤退命令が遅かった。衝突時点で味方はやられ、撤退すれば尚更やられる。
育美も架橋も捕まってしまい、矢野衆二千人は総崩れとなった。二人のように敵に捕われた者、河川敷の砂になったり裸にされた者、散り散りになった者がほとんどだ。
小机城に戻った兵は、百人を下回った。
矢野兵庫は激しく動揺した。
「ひぇぇぇぇ。万策尽きたーっ!」と頭を抱える。
この失敗により、太田軍本隊を渡河を許し、そのまま悠々と進軍されて神大寺の丘にを陣取られ、直後に神奈川湊を奪われてしまった。
「ど、ど、どうしよう……」
兵庫は焦りと冷や汗が止まらないまま、翌日、硯松であの一句を詠われたのち、小机城は電光石火の如く、あっという間に落とされてしまった。
ここで矢野兵庫は戦死したのか? 自害したのか? 処刑されたのか? 逃げ延びたのか? 歴史はなにも教えてくれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「す、すげえ……」育美は度肝を抜かれる。
「私たちの職場が古戦場……!」英々子はドキドキした。
架橋も、路上販売の現場が古戦場かと思うも、平日昼間の購買はまるでいくさのような忙しさだから、実感は架橋のほうがあるかもしれない。
一人冷静な市治は、追加情報を教えた。
「あの、ノブニカと松能研は勝負田の隣りで、現地ではありません。むしろ駅構内が勝負田です……」
「がーん!」育美も英々子も、残念だった。
市治はみんなの期待を更に落としてしまう。
「あ、勝負田には他にも、田んぼを賭け事の資金に使った説や、菖蒲の花が咲く場所だった説等々、合わせて六つの異説があります」
英々子は嘆く。
「う、う、薄味にされてしまった……」
架橋はクスクス笑った。
「もう、ちーちゃん、爆上がりからの爆下げはだめだよ。歴史知らない私でさえ、こんな都会が実は古戦場だったって知ったら驚くもんよ」
とはいえ市治の正直さは感じ取ってる。
市治はまず、こう思う。
ーーここでは"ちーちゃん"なんですね。
あだ名は色々言われている。勝負田の説が複数あれば教えておかないと、大きな誤解を起こすだろう。だから伝えなければ、伝えるものとして失格である。
とはいえ市治は、架橋の言うこともそうだと思った。
「申し訳ございません。では、お詫びと言ってはなんですが、この町で戦国時代っぽいグルメをひとつ、おごりましょう」
それを聞いた英々子と育美が、声を揃えて、
「信玄鶏っ!」
と喜んだ。このシンヨコで戦国"っぽい"ものは、これしかない。しかし架橋は、このブランド鷄を知らない。
アリーナ通りの日本食堂、オオワダ商店で焼鳥を食す。間食とはいえ夕刻に近い。育美のみ、日本酒を一献注文していた。
英々子はしみじみ言う。
「ここが激戦の場であってほしいな」
市治は否定しない。
「確定はできませんが可能性はあります。亀の子から神大寺へ行くには、他に道はありませんから」
育美は酒が回って、おおいに満足した。
「またやろう。こういうニッチな史跡巡り」
市治は喩える。
「教科書や歴史本が教えないと銘打つものでさえ教えてくれない的な、日帰り旅行ですか?」
「そうそれ。てかその上の上をいくキャッチフレーズ、最高じゃん! で、何かオススメない?」
英々子は苦笑いする。
「伝承メインだから、歴史にとっては明後日の明後日じゃないかな?」
架橋はおかしかった。
「みんな歴史で遊びすぎだよ」
市治は考えてから、焼鳥を指していう。
「武田信玄はどうでしょう?」
英々子も育美も、ビッグメジャーは拒みたい。
しかし架橋の解釈は、歴史よりも食とドラマだった。
「信玄て、ほうとうとお餅と今年の大河ドラマのローマ人だよね。でもそれ、山梨に行くってこと? 私、お金ないよ……」
市治はドラマに疎いが、考えを提案した。
「いいえ、横浜市内だけでまかなえますよ。つまり、武田信玄の横浜侵略地巡りです」
育美は衝撃が走った。
「なにそれ? そんなことあったの? すげーー!」
英々子も知らなかったので、ワクワクした。
「ホントにあるなら知りたいな。いつ行く?」
「給料日後の休日とか」架橋がノリで言う。
市治は今月ならいつでも良かった。クールな表情でまとめた。
「分かりました。私が諸々をまとめて伝えますので、今日はあがりましょう。もう日が暮れましたので、夜になると、おかしな吸血鬼が出るらしいですから……」
「でないよ」英々子と育美は突っ込んだが、古風な人柄でもギャグは今風に言える子なんだと感心した。
次が決まった。共通の趣味人が揃うと話が弾むから心地よい。だが皆、何かを忘れていた。きっと家に帰るまでは誰も気づかないだろう。
小机城の戦いで、一番行かなければならない史跡を。