前半:郷土史最大の謎(後)
保土ケ谷区川島町。夕焼けが近い。目の前に帷子川が流れ、環状二号線が走る尾根先の緑地に、この小さな神社は鎮座する。市治は神社近くの駐車場に車を止めた。今日は例祭ということもあり、近隣住民が集まって賑やかだ。四人とも知らずに来たので、ラッキーと喜んだ。
英々子が架橋を褒めた。
「そらちゃん、もしかしてくじ運いいほう?」
架橋は顔を真っ赤にした。
「い、い、いいえいいえ。たまたまです……」
と、縮こまる。しかし市治は心から感謝した。
「そらさん、ありがとうございます」
架橋は返事できなかったが、嬉しかった。架橋が顔を上げると、育美と英々子が両手を合わせていた。架橋は小声で、
「お、お願い。それ勘弁……」
と、再び照れた。市治はクスクスと笑った。
四人は露店を散策し、適当な出店で買い食いをし手てから、ご挨拶の参拝をした。
「いかにもその辺の神社だね」と、育美。
「説明板ないねー」架橋。
「麓の(陣ヶ下渓谷)公園の方が有名だもんね」英々子はいう。
育美は川島杉山神社の由緒か歴史を知りたくてタブレット検索したら、そこそこヒットした。中でも一番詳しそうだと感じたページを開いたら、とある戦国武将が絡んでいると驚く。
「舞岡さん、これ見て」
と、思わず市治にページを見せた。
市治は身震いし、妄想が飛び出た。
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天文六(一五三七)年七月十日夕刻、小田原の北条軍一万は、川島の丘に本陣を構えた。
扇谷家には先月のはじめ、神奈川郷のはずれ、神大寺の丘に粗末な城を作られてしまった。今年家督を継いだばかりの若き扇谷家当主、朝定が活気盛んになり、数千の軍勢を率いて河越城から神大寺城に入り、神奈川郷を脅かしているのだ。氏綱は、これを撃退するためにやってきた。
日が暮れる。氏綱の本陣に玉縄城主北条 為昌と小机城主笠原信為が現れた。北条氏綱と氏康の親子は、両者の家臣が起こした神奈川郷の土地問題に関する言い分を聞いた。
氏綱秘蔵の密偵、風間衆の調べによると、上杉衆神大寺築城の直接的契機が、為昌家臣と信為家臣の喧嘩だと結論づけていた。郷の一部寺院が双方の争いに愛想を尽かせ、扇谷朝成の誘い乗ったせいだという。
北条為昌の言い分を簡単にまとめたら、神奈川郷は〝久良岐郡〟だから神奈川代官を送ったという。笠原信為によれば、この郷は〝橘樹郡〟だから鶴見川流域の材木輸送が容易で、現在再建中の鶴岡八幡宮寺へ直接搬入できるという。
鶴岡八幡宮寺は大永六(一五二六)年十一月に安房国里見の軍勢に襲撃され、燃やされている。
氏康は、父氏綱を注目する。
氏綱は決断した。
「古来より神奈川郷の地は、橘樹か久良岐かはっきりしてないようだ。ワシは、これを期に線引させる必要があると思ってる。ならば神奈川は久良岐だ。すべて為昌のものとする。神大寺は無論、六角橋も白幡も子安も為昌が治めろ」
信為は無論、納得できない。
「そ、それでは某の丸損ではありませんか!」
憤るのも無理はない。しかし氏綱にも考えがあった。
「ワシはこのいくさで、敵を完全に鶴見川の流域から追い払うつもりだ。これが叶えば、越前(信為)には、扇谷朝成が治める茅ヶ崎城の領地を全て与える。あそこは橘樹だからな」
「上手くいけば申し分ありませんが、できますか?」
「ああ、できる。この大軍勢、越前のために働くと思え」
氏綱は〝勝って兜の緒を締めろ〟という、あまりにも有名すぎる遺言を残したほど慎重な性格なのに、今回はそれに見合わず、かなりの自信で言ってる。信為は不安になりながらも、氏綱を信用するしかない。
これは、若い氏康も同じだった。
氏康の寝所は麓の豪農の家だ。氏康は寝ながら考える。
ーー父上の自信は、どこから出てるのだろう?
よくわからないまま、寝てしまった。
『そなたには東国を制する定めがある。ワシが後ろから力を貸してやろうぞ』
氏康は飛び起きた。声の主は名乗らなかったが、誰かはよく分かった。
「日本武尊だ!」
氏康は武者震いした。
外はまだ夜明け前だが、氏康は構わず、
「誰かいるか!」と叫んで呼び出す。
現れたのはこの家の娘、市治だった。
「御用ですか?」市治は訊ねる。
「主人はいるか?」
「いましがた、畑に向かいました」
「左様か。ならばそなたに頼みたい。今、ワシは縁起が良い夢を見た。日本武尊がワシを応援してくれる夢じゃ」
「それは、おめでとうございます」
「それでじゃが、ここに祠を建てて欲しいのだ」
「分かりました。近くに石細工の長けた者が住んでいますので、お願いしておきます。ですが……」
「どうした?」
「私たちは実は、忌部の末裔です。もし、お許しを頂けるのなら、我が神、五十猛神にも、殿様を応援させて下さい」
「よいのか?」
「ぜひ」
「分かった。むしろ歓迎だ。我らたとえ多勢でも、結局は時の運だからな。祠は簡単で構わないから、本日中に作ってくれ。ともかく、縁起良き夢が見られたこの場所に、ワシの命は居て欲しいのだ」
「分かりました。若殿様の、ご武運お祈り申し上げます」
市治は氏康に頭を下げ、戸を閉めてから外に出た。
十一日、北条軍は出陣し、神大寺原にいる扇谷上杉軍と激しい戦闘を挑み、撃破した。神大寺要害は無論、敵をここまで導いた善龍寺と笠䅣稲荷神社も焼き捨てた。敗走する上杉朝定は、残る全軍を河越に集結させたため、深大寺城も茅ヶ崎城も小沢城も、全部もぬけのからとした。氏綱の軍勢は、この三つの城も焼き払いながら河越を目指した。
十五日、両軍の決戦は河越に近い三ツ木原で行われ、勝利した。扇谷朝定は河越城を捨てて松山城へ逃げた。氏綱は河越城を城下町ごと焼き尽くし、占領した。
氏康は、想像以上の戦果に驚いた。
「敵を神大寺から追い払うだけのつもりが、河越まで取ってしまった!」
と、南を向いて、両手を合わせた。
ーー日本武尊と五十猛神のお力、ここまでだとは! これは神社にしないと申し訳ないぞ。
と驕らず、気を引き締めた。
しかし氏綱は分かっていた。
「神様のおかげにするのは、慎重さを養うためにも良き心構えだ。しかし今回のみ、要は、若さゆえの焦りだったのだよ。アレの父親、朝興はとても優れた男だ。江戸城奪い取りのためには、神奈川郷を取って江戸を孤立させるのが一番。でも彼は、やりたくとも出来ずに先延ばしにし続けてきたのだよ。ワシのせいでな。それをあの若者は無理に行った。だから、大きなツケとなって払わされたのだよ」
氏綱は有り難がっていた。河越を取ることは鶴岡八幡宮寺一番の収入源、佐々目郷(埼玉県戸田市笹目から美女木辺り)が取れたことにも繋がる。扇谷家が相模に居ずとも相模国守護職を公認できた最後の切り札が、佐々目だ。八幡宮寺は相模国のランドマークとみなされているからだ。佐々目だけで全収入の三分の二も及んでいる。これまで八幡宮寺の土地でありながら、扇谷家が維持管理し、八幡宮寺へ収入を差し渡す形を取られていた。氏綱はこれを開放するため、親子連著の証明文書も出す。佐々目郷を名実共に八幡宮寺に返してやるのだ。跡継ぎの氏康にとっても、これが発給文書デビューとなる。これによって八幡宮寺再建のためにも、北条家が関東の支配者になるためにも、拍車がかかるというものだ。
そして茅ヶ崎城の土地はそのまま、笠原信為に渡された。
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ーー北条氏康さんですか。私も氏康さんと同じ景色の五百年後をみているのでしょうね。たぶん……。それにしてもやっぱり私、研究者には向いてませんわ……。
ただしくは四百八十六年前後だが、市治は、どうしても妄想してしまう。歴史小説なり漫画なら創作力がたくましくて良いのだろうが、歴史語りとしてはよくない。
ここで架橋が質問しにきた。
「ちーちゃん、これ、知ってたの?」
北条と上杉が戦った文字を指してる。市治は正直に答えた。
「いいえ、〝新編〟にはありませんでした……」
「あ、本当だ……」
川島杉山神社のこれを伝える史料が江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』ではなく、昭和五十六(一九八一)年発行の『神奈川県神社誌』とある。神大寺古要害問題、たとえ口伝でも、多くの文献を芋づる式に辿っても、たどり着けなかった情報だった。
仏の顔も三度までという言葉があるように、口伝なり二次史料程度の偶然は三度までなら見逃す。しかし、それ以上あったら嫌でも注目せざるを得ない。うち三つは〝新編〟がネタ元だから一つの史料と見るべき。そんな意見はあるが、違う。あれは現地取材で情報を集めた体裁をとってる以上、個別で換算していいのだ。
誰もが疑念を抱く神大寺古要害神奈川区説は、誰もが疑わない調布市説と違って、これに該当するから厄介だ。その厄介を市治は楽しんでいるのだが……。
「いくら探してもでてこない情報って、意外と、ある日突然でてくるものなのですね。ま、一次(史料)ではありませんけど……」
市治は残念そうに語った。とはいえ、満足している。
架橋は歴史や伝承よりも、祭りを楽しみたい。
架橋は綿菓子を前に出して、言う。
「そんなに嬉しいなら、もっと食べようよ」
やきそばと芋焼酎を買い食いする育美と英々子も、もっと楽しみたい。
市治がひとつ提案する。
「梯子でもしませんか? 実は、ウチのお宮さまでも今日が祭なんです。私、ここでは呑めませんから」
市治は車持ちのうえ、誰よりも背が小さい。三人は察ししてくれたので、四人は車に乗り、舞岡邸を目指した。
(英々子さん、神社ちかくの酒屋でその芋焼酎を購入)
(舞岡さんからいただきました。英々子談)
架橋が篠原のアパートに戻り、スマホ見ながらくつろいでる時、鶴見には、石川県にとても縁が深い總持寺があることを知らされる。架橋は思わず。嘆いた。
「前田公を目の前にしながら、なんというおドジ……!」
いつか必ず訪れると誓った。
おしまい。
☆参考までに
●杉山神社社数
73(新編武蔵風土記稿)
49(現状)
44(宗教法人登録数)
●古記録
①延喜式「都筑郡一座小 杉山名神」(巻九神祇九)
②続日本後記「武蔵国都筑郡杉山名神預之官幣以霊験也」(巻七承和五年二月庚戌ノ条)
③続日本後紀「奉授武蔵国無位杉山名神従五位下」(巻十八喜祥元年五月庚辰の条)
●総鎮守説(論社)のある杉山神社の場所
1、港北区新吉田町
2、都筑区中川
3、都筑区茅ヶ崎中央
4、緑区西八朔町
●杉山神社(都筑区茅ヶ崎中央)御由緒より
勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル 勝麻呂ノ弟義麻呂祭主トシテ奉仕 麻ノ貢ヲ奉リキ仁明天皇承和五年預宮幣ニ嘉祥九年五月授従五位下封田ヲ寄玉フ 遥後元暦二年正月廿一日依御願而従鎌倉殿御奉幣有之タリ鎮座記元一千二百十余年也
●川島杉山神社由緒「神奈川県神社誌」
創立年代詳かでないが、口碑によると天文年中北条氏康が上杉朝定と戦い、この地に陣営の夜、日本武尊御東征を夢み、その加護により勝利必定と、ここに一祠を建て武運長久を祈ったと伝う。果して凱旋し、直に社殿を新築、除地一反歩を附し報恩の意を表した。氏康領民愛撫の念厚く、戦乱久しく庶民の困憊を救うために植林を奨励し、植林の祖神五十猛命を合祀したと伝える。寛永二十年江戸幕府より除地一反歩の寄進があり、元禄十年には三十貫目の寄附を受け社殿を修築した。弘化元年二月炎上の際、古文書記録類を焼失したが、同四年社殿、同二十九年本殿を新築した。現社殿は昭和三十年五月の造営になる。
●新治英々子が口ずさんだ歌
「チャカ・ポコ・チャ」1982年リリース。バラクーダ




