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後半:八月といえば戦争のお話(後編)

 舞岡市治は囁くように、口ずさむ。


「はるかに遠く富士を見て♪」市治の母校の校歌だ。


 寺家育美は、苦笑いしながら優しく注意した。


「やめんしゃい。余計に虚しくなるから……」


 空架橋は、カール・ルイスを選んだ理由を話した。


「故郷に戻らず、好きで敵国に残ったって人がいるなんて、なんか凄いというか、ちょっと頭が上がらない……」


 三人も同じだった。架橋は提案する。


「あ、そうだ。お墓、見に行きませんか?」


 三人は賛成する。すぐ近くの真光寺墓地にあるというが、着くや皆驚いた。小さな寺のわりには墓地があまりにも広大すぎた。東京ドーム何個分はいるだろうか?

 架橋は唖然とした。


「と、特定できると思ったんですけど……」


 書籍はそこまで教えてない。実は、隣接する上大岡墓地のほうが敷地の大半を占めている。別の団体が管理し、その境目の見分けは難しいわけではないが、ここが分かっていないと、全部真光寺が管理してるのかと勘違いする。

 初見の市治は適当な場所から寺の墓地に入り、数歩ほど歩いて立ち止まる。そして、背伸びして見渡した。


「道しるべがあれば良いのですが……」


 そこまでの有名人でもあるまい。

 新治英々子は架橋に言った。


「お寺さんに聞いてみようか?」


 架橋は回答にとまどう。知らない人へ話しかけにいくのは、こわい。

 市治は英々子に反応して振り向き、提案した。


「またの機会にしましょう。お盆前のお寺さんは多忙です。事前連絡なしでは、さすがに驚かれるでしょう」


 と、諦めを促した。育美は賛成した。


「そうだね。私らって所詮は有象無象の観光客だし、()っちいし、時間も押してるし」


 架橋は何度も頷いた。不甲斐なさと安堵感が入り混じるのは心残りだが、ともかくこれで決まった。

 市治は右側にある、目新しい墓石を見て一礼する。

 つぎに架橋達が立つ、道の後ろにある住宅を注視した。


ーーなるほど、ここなら見えますよね。


 と、昭和十七年当時のこの場を想像した。それから、墓地を出た。

 架橋は三人に謝る。


「あ、あの、不勉強でごめんなさぃ……」


 市治はむしろ、微笑みを見せて感謝し、頭を下げた。


「いいえ、大丈夫です。カール・ルイスさん、私も知らなかった方なので、良い勉強をさせて頂きました。有難うございます」


 これは本心だった。





 もう午後五時を回った。最後は市治だ。場所は舞岡邸の近く、神奈川区菅田(すげた)町、池上(いけうえ)小学校下バス停に近い老人ホームである。

 市治は理由を述べる。


「史跡ではなく申し訳ないのですが、これまで戦争体験談を一度も話されなかった方が、初めて話したいとおっしゃってくれたので」


「おお!」三人は今日一番感心した。


 きっと戦争体験談者らしく、悲しくて重たくて苦しい体験をしたのだろうと思った。三人は聞く覚悟をし、背筋を伸ばした。

 それは市治の知り合いの老婆、出戸(いでと)すがという。御年九十歳。腰も曲がり、杖をついていても元気いっぱいで、瞳も老人とは思えぬほど輝き、素敵な笑顔で市治に挨拶した。


「よういらしてくれました。地主さま♪」


「地主制は敗戦後すぐに無くなりましたよ」


 市治はそう返しながら、この部屋の冷蔵庫から冷たい麦茶をだす。何度も見舞いに来てるので手慣れていた。市治はすがの大好きなきな粉餅のお土産も用意していた。

 すがも半ば冗談で言っていた。


「いいのよ。昔ながらのご近所さんも直さないでしょ。で、この子らかい? 地主さまのお友達というお人は」


「はい。よろしくお願いします」


 英々子、育美、架橋も笑顔で、すがに自己紹介をしてから、


「よろしくお願いします!」


 と頭を下げる。すがは急に表情を引き締め、始めた。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 あれは昭和十七(一九四二)年の三月だった。私は七月産まれだから八歳の頃、母と共に当時の地主さまに拾われたの。父がシンガポールの勝ち戦で戦死してね。でも、両親は恋愛結婚だから親戚一同冷たくて、頼れなかった。貯金もすぐになくなって、餓死寸前になったわ。

 家は南区太田杉山神社のすぐ横、二丁目のボロ長屋にあって、母と一緒に羽沢に引越したわ。二年間いた国民学校の友達にも突然の別れで寂しかった。で、舞岡家を間借りして小作人をやったの。私も学校にいかずに、手伝うしかないと思ってたんだけど、地主さまがとても有難いお人だった。


「すがちゃんは転校しなさい。学費は私がだしてあよう。うちにはすがちゃんと同い年の娘がいる。これから三年生になるのに相変わらずの危なっかしい子だから、常に傍にいて守ってほしい。君も幼いとはいえ、大変なのはわかる。でも、君にしかできないお願いなんだ。だから、頼むよ」


 私なんか社会の底辺の子供なのに、大地主様は頭を下げてくれたの。これは全身が震えたわ。だから命がけで奉公すると誓ったの。ここで初めて市子(ちこ)さま……、あ、市治様の祖母と出会ったの。一見そんな危ないお方とは思えなかった。だって、小さくてお綺麗で小さくてお綺麗で小さくてお綺麗だったのよね~!


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 すがは年甲斐もなくデレた。架橋は嬉しくなって、すがに寄り添って同情する。


「要は、ちっこくて小顔で綺麗なんですね!」


「そうなのよ。小さくてお綺麗でねぇ♪」


 市治は、自分に言われてるようで恥ずかしかった。育美と英々子は市治を見て、血は争えないと笑う。

 すがは、続きを語った。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 それで私は池上国民学校に転校した。すぐそこの丘にあった学校だよ。市子さまは何時も笑顔で誰からも好かれたけど、夢中になると他が見えなくなるお方だった。それが地主さまがおっしゃる“危なっかしい”だった。話に夢中になりすぎて溝に落ちたと思ったら、そのままメダカを捕ったり、突然林に入ってつくし狩りしたり。私は唖然としてばかりだった。呆れもした。本当に危なっかしい子だった。でも、それってみんな、他人様を喜ばせたい一心でやってたの。だから可愛いくて仕方がないんだよ。あ、そうだ。とっておきの可愛すぎる伝説があるのよ。ある日の音楽の授業で”ふるさと”を歌い終わったとき、市子さまが真顔で、先生にとんでもない質問をしたのよ。


「うさぎって美味しいのですか?」って。


 友達みんな大笑い。私も笑いが堪えられなくて。唖然どころではなかったわ。市子さまはそれでもあの歌が大好きで、よく歌ったけど、あの呑気さ、今風にいうと何だっけ?


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





「天然!」英々子と育美と架橋は、声を揃えた。

「そうそれ」すがはナイスフォローと指でさす。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 あれは忘れもしない。羽沢にきて半月以上経った四月十八日、土曜日の昼過ぎ。市子さまが学校に教科書を忘れて、私は付き合わされた。教室で市子さまが探し始めた時、起きたのよ!

 初めて見る爆撃機が、鶴見のほうからこっちに向かって飛んでくるの。私は当初、陸軍爆撃機の飛行訓練かと思ったわ。でもね、機首の機関銃がこっち向いてる。まさかと思ったらそのまさか。撃ってきたのよ!

 陸軍だよ。なんで? って信じられなかった。

 国民学校は東の校舎の半分がボロボロ。私たちは瓦礫の下敷きになったけど、怪我なく助かった。でも、市子さまが私をかばって大けがされた……。

 守るべき人に守られた。私は罪悪感に潰されそうで、大泣きした。でも、地主さまは許してくれた。励ましてもくれた。

 私、嬉しいのと申し訳ないのと、複雑で、「ごめんなさい」としか言えなかった……。

 あれがアメリカの飛行機だと知ったのも翌日。地主様が新聞を見せてもらってからった……。

 まったく、あの当時はグアムも硫黄島(いおうじま)も取られてないのに、どうやって来たんだろ? って、みんな不思議がってた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





 ここで市治は、この謎の空襲の解説をした。


「これは、ドリトル先生の部隊が行ったもので、ドリトル空襲と呼ばれてます。日本がはじめてアメリカの空襲を受けたもので、ものすごく簡単にいえば、真珠湾の報復です」


 架橋も育美も頭の中を「?」にする。育美がタブレットで調べてみた。


「ドゥーリトル中佐ってあるけど?」


 市治は赤面しながら訂正した。


「そ、そう、そうです、そちらです。ごめんなさい……」


 三人もすがも思った。血は争えないと。ドリトル(Dolittle)とドゥーリトル(Doolittle)は読み方が同じようにみえてもスペルが微妙に違う。とはいえ全くの別人と解釈されるから、気をつけなければならない。

 市治は返事に詰まったので、そのまま解説を続けた。


「十六機のB25爆撃機が東京、川崎、横浜、名古屋、神戸、新潟等を襲いました。この空爆は歴史に残ってませんが、別の形で残ってます。すがさんの他にも、当時の校長先生が学校の四十周年記念誌に書き残していますし、羽沢でも知り合いのご自宅が焼夷弾を受けて全焼してます。知り合いのお爺さまは十八年四月と仰ってますが、その時期の日本は空襲自体、どこにも受けていないので、十七年のこれでしょう」


 育美がネットで調べた範囲で、説明を加える。


「なにこれ? 爆撃機を空母に乗っけて、大艦隊になってわざわざ日付変更線あたりまで運んで、そこから飛ばしたってあるじゃん」


 これが爆撃機が日本を侵略できた種明かしである。言うのは簡単だが、実際に運んだとなると、恐ろしい。架橋は感心と驚きと冷や汗で言った。


「す、凄いというか、無理ゲーというか……」


 育美もそこは同意だった。


「十六機中ソ連に行った一機を除いてすべてが、目的地だった中国の飛行場に届かず、燃料切れで墜落。大半はパラシュート脱出で助かってるけど、一部は日本軍に捕まったってある。てかこれ、作戦というより冒険じゃね?」


「メリケンさんも無茶しなさる……」と架橋。


 育美は検索でドゥーリトル中佐の情報をみつけ、言う。


「この人、軍に入る前は飛行機でアメリカ横断したりレースで優勝したり、目隠しで飛んだりって何じゃこりゃ。いや、だからかな? 意外と適役じゃん。部下までは知らんけど」


 英々子が育美のタブレットに近づいて確かめた。


「本当だ。この作戦で二階級特進したってある。へえ、准将さまか。すご。で、最終的には予備役大将ね。あ、この人、生まれが加州だって。そらちゃん」


 架橋は驚きと動揺と興奮とが混ざり合い、反応する。


「え? え? ままままさか同郷?」


「そっちじゃねえ」育美は突っ込んだ。


 市治と英々子がクスクス笑った。加賀国とカリフォルニア州、日本での通称が同じだから、会話の状況判断ができてないと勘違いするか、ボケツッコミのネタにされる。

 架橋はふと気づき、身震いした。


「あっ、そ、その空襲の日って、カール・ルイスが死ぬ一ヶ月と"一日"前だよ。もしかしてルイスさんこの空襲、体験したんじゃない? マジでヤバすぎる……」


 一日という、妙に中途半端な印象を抱かせる数字に、市治が反応した。


「一日ですか。なんだか三十三年と"一日"流浪した戦国武将みたいですね」


「だれそれ?」架橋は笑った。


 その答えは、目の前の小さな本棚の中にある漫画『貞慶(さだよし)〜息子たちの戦国〜』の主人公だが、育美と英々子は、好きなその漫画の作者とすがの苗字が同じことに気づいた。もしかしたらと質問したかったが、その前にすがが架橋に「メダリストかい?」問う。

 架橋は「違います」と首を振り、慌てて説明すると、すがは、思い出したかのように別の体験を語った。


「ほう、なるほどね。それは知らなかったわ。でも、私らにとって外人さんといえば、英米の戦争捕虜が五十人ほどかな? 半月ほど舞岡邸で寝泊まりにきたことがあったわ」


「えーっ!」架橋、英々子、育美は驚いた。


 すがはそのときのこと、つまり、昭和二十年四月十五日夜の空襲話をはじめた。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 あの空襲ののち、西区の野毛山に防空隊の連隊本部がつくられ、港北区の小机雲松(うんしょう)院には中隊本部が設置され、岸根(きしね)子安(こやす)、綱島など高台に高射砲や探照灯が作られたわ。防空壕もいろんな場所に掘られた。燃料も油ものや石炭ものが不足して、亜炭が出回るようになった。

 グァム島が取られた十九年あたりから空襲警報がよく鳴るようになって、その度に壕に潜ったけど。殆どが空振りだった。でも、この辺りの人たちにとっては二十年五月二十九日よりも、四月十五日空襲が怖かった。夜の空襲ってこともあって余計に怖かったわ。東京の大田区や川崎、鶴見がやられたやつよ。なにせ二百機も超えるB29が大編隊を組んで襲ったんだからね。

 壕に入ると、私は市子さまと言い合った。


「今度は私が市子さまをお守りします!」


「だめ。すがさん怪我したら痛いでしょ」


「市子さまを守るのが私の役目なんです!」


 これだから地主さま、責任感じてたかも。

 そこで私は市子さまの隙を突いて、押し倒してでも守ろうとした。一瞬、ドキドキした。でも使命だから、恥ずかしくないと言い聞かせた。あの時の、市子さまの身震いは今でも忘れられない。私が倒したからではなかった。あの危険察知の高さは天性だったわ。普段はアレなのに……。


「お父様、変な音がこっちに向かってます」


 市子さまだけが、微かな爆音に震えていたの。地主さまが壕を出て確認すると、炎上中のB29が子安(こやす)のほうからぐるっと旋回して、こっちに向かって落ちてくるのよ。地主さまは私たちに防空壕を出て逃げよう指示したら、B29が機首を少しあげたので、大慌てで私たちを壕の中に戻したの。つまりここには墜落しない。でも、派手にやられてるから、真上を通過したら火の粉や残骸がボロボロ落ちてきた。そっちが危なかったのね。

 そのB29は神大寺の隣り、中丸(なかまる)捜真(そうしん)女学校の校庭に墜落して大爆発したわ。敵の落下傘を確認した人もいたわね。死んだらしいけど。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





「空の要塞って恐れられてた爆撃機も落ちるんだ」英々子は言う。

 市治は頷き、解説した。


「はい。この空襲で防空隊が打ち落としたB29の数は十二。うち四機が横浜市内に落ちてます。中丸のほかには、鶴見区の總持寺(そうじじ)幼稚園辺りと南区太田杉山神社の横、太田一丁目と二丁目の境あたりと、当時は緑区だった青葉区奈良小学校裏の山林です」


 架橋が反応する。


「總持寺って、あの?」


 市治は意味を読み取った。


「はい。あの、大正時代に能登から鶴見にお引越ししてきた、前田利家さんに縁の深いあの總持寺です」


「おお!」架橋は、訪問しなきゃと思った。


 育美も別の視点から反応した。


「奈良って?」


 市治は頷いた。


「はい。墜落処理(あとかたづけ)は、あの基地の部隊が行ってます」


 すがは、重たく言った。


「そうそう。私と母が地主さまに拾ってもらわなければ、この日に死んだわね。本当に舞岡には感謝しても足りませんわ」


 と、市治に向かって両手を合わせた。

 市治は、またまた恥ずかしがった。


「拝まないで下さい。私は助けてませんよ」





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 中丸の隣り、ガーデン坂(三ツ沢下町)に日本鋼管の寮があって、寮の一部が折れた尾翼が刺さって壊れたの。あそこ、一角を捕虜収容所にしてたからね。地主さまの叔父さまが工場長だから、一時期、舞岡家で預かることになった。つまり仮の収容所ね。朝の五時くらいに、トラック何台かで乗せてきた。空は未だ暗かったわ。そりゃ怖かったよ。突然のことだったし。なにせあの人たち、竹槍で刺し殺せと教わった鬼畜英米だよ。舞岡家は、ご家族も小作人たちもみんな憎悪の目で見た。兵隊も警察もピリピリした。でもね、市子さまだけは喜んで近づくのよ。

 もう、天然にも程があると思ったわ。私もあの方をお守りしなければならないから、怖さを振り絞って、市子さまの前に出ようとした。でも、捕虜たちが私と市子さまの頭をなでた。私は思わず逃げたけど、市子さまは初めて見る外国人たちと溶け込んじゃったわ。捕虜も市子さまを、エンゼルと呼んで可愛がっていた。

 市子さまはここでも”ふるさと”を歌ったわ。ただ人間が純粋に好きで、歓迎したくて歌っただけなのにね。でも、市子さまの小さな背中から激しい怒りが錯覚でみえるほど怖かった。無論それは幻想だけど、当時の誰もがそう思えなかった。なぜなら捕虜たちの背後には、朝日に照らされた空襲の業火と黒煙が無数に上がっていたのだから……。

 で、捕虜たちは半月後、仙台(せんだい)の方に行かされたと噂で聞いている。横浜はもう危険だから。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






 話は終わった。少しの間、無言が走る。

 架橋が沈黙を破った。


「あ、あ、ありがとうございます!」


 と、すがに頭を下げた。市治も英々子も育美も頭を下げて感謝した。

 市治はすがに尋ねた。


「どうしてお話する気になれたのですか?」


 すがは夕日に映る丘の上の、新築中の校舎を見て、答えた。


「……池上が菅田小学校と統合して、なくなったからね」


「といいますと?」


「昔の友達からもよく言われた。小学生に話したほうがいいって。まさか母校が無くなるなんて考えたこともなかったわ。九十三年も続いたからね。そりゃショックだったわよ。けど、それでも話せなかった。なぜって私の話、笑えるでしょ?」


 育美と英々子と架橋は、にっこり頷いた。


「地主さまはどう?」すがは問う。


 市治はすこし赤面してしまう。


「なんだか恥ずかしくて嫌です……」


「でしょ。戦争が地獄ってことは身に染みてる。生活は本当に大変だった。身の回りで死んだ人もいる。同じ神奈川区なのに疎開に来た三ツ沢国民学校の話もある。でも、私にとっては、それでもなにより市子さまが全てだったの。こんな……、ほら、今はなんていうの?」


「百合っ!」育美と英々子と架橋が声を揃えた。

 なぜか市治が赤面する。

 すがは、それだと指をさす。


「そう、その話、未来ある子供たちのためになる訳ないじゃないの」


 でも架橋は、話すべきだと思った。


「で、でも、面白いお話をした上でしんみり勉強できる体験談を語ったほうが、頭に残りますから」


「どっちを?」すがは問う。


「も、もちろん戦争ダメのほうです」


「そうなんだ。じゃあ、統合校の生徒さんたちにやってみようかと思って、予行で地主さまとお友達で話してみたけど、やっぱしダメだ……」


 すがは急に、表情が落ち込んだ。

 架橋も育美も英々子も、そんなことないと励ましたかったが、市治はすがを肯定した。


「そうですか。仕方がないと思います」


「私も年をとり過ぎた。長話してると、疲れる……」


 これで話は終わった。

 きなこ餅は既にない。丘の上の池上小学校もだ。この小学校の跡地は今、工事用の白いフェンスに囲まれている。ここで統合校の新校舎を建築する。来年四月、新学期にあわせての完成を予定していた。それまで生徒たちは旧菅田小学校の校舎で学び、完成すればそこに移る。余談だが老人ホーム近くのバス停も、完成を期に停留所名を"菅田の丘小学校下"と改めることとなっている。




 帰りのレパード車内。架橋は残念そうだ。


「おばあちゃん、なんであんな大切なお話、言い伝えないんだろう?」


 運転中の市治が教えた。


「すがさん、話を盛り過ぎてます」


「え?」架橋、英々子、育美、驚いた。


 市治はすがの気持ちを解説する。


「年をとり過ぎたとおっしゃっていましたよね。記憶が曖昧になってしまったことと、話してると歴史の本当ウソに関係なく、楽しくなるものです。ウチに捕虜なんか来ていませんから」


「え、えーっ!」三人また、声を揃えた。


「陸軍さん、捕虜と一般人は可能な限り交流させないよう神経使ってますから。ウチに入れるくらいなら他の施設に入れてます。それ以外は大体、祖母から聞いたお話と重なるので本当のことでしょう」


「で、ても、なんでちーちゃん、間違いを指摘しなかったの?」と架橋。


「あんなに楽しそうにお話するすがさん、見ていて心地よかったからです。お年寄りは寂しくさせないことが一番の孝行です。なのでこういうときは否定せず、最後までしっかり頷いてあげるものなのです」


「じゃあ、盛ってない語り部って、何処で聞けばいいの?」


「どこでって、上大岡で聞きましたよね」


「あ!」


 映像にでていた語り部さんたちは、年はそれなりにいってもみんな髪の毛は黒かった。

 バックミラーから、英々子のピースサインが見えた。

 後日、市治は真光寺に連絡をとった。

 八月最終週の日曜日に市治は三人を呼び、住職の案内の下、カール・ルイスの詳しい話と墓参りを行った。数少ないルイスカバーの本物も見せてもらった。ルイスの描いた富士山は、とても愛嬌があってほっこりさせられた。

 育美と英々子の疑問には、市治が答えた。


「はい。『貞慶』原作者さんは孫娘さんです」と。


 その帰りの寄り道。市治は新横浜駅ビルに入ると、エレベータ前に急遽設置されたポスターにショックした。


"山椒堂書店新横浜店閉店のお知らせ"


 平成二十(二〇〇八)年の駅ビル開業以来十五年、一番贔屓していた書店が来月末、なくなる。

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