前半:八月といえば戦争のお話(前編)
透き通る青空、桜花びらは心地よき春風に舞い踊る。横浜市中区上大岡町(現港南区上大岡東)、真光寺に近い黒船見物の丘。国民服姿の舞岡市治は初物の春キャベツをひと玉、両腕で抱えながら立つ。右の方には京浜工業地帯と横浜港から小柴沖までの湾内が、左は相摸野と武蔵野の丘陵から丹沢山系や富士山が見渡せる。この丘はその名の通り幕末黒船来航時、黒船艦隊の動きや汽笛の音まで確認できると話題となり、お茶売りが現れるほど野次馬で賑わったという。呑気になれるほど視界良好だから、市治も町の人もお気に入りの場所なのだ。
市治は丘登りに少し疲れ、深呼吸して息を整えると、微かだが、複数のプロペラ音が聞こえた。目で探すと、港方面に大きな飛行機が見える。
ーー港に飛行機? 珍しいですね……。
五機か六機、ランダムに飛んでいた。陸軍大型機の飛行訓練かと思った。街の上を飛ばすなんて危ないかもしれないけど、味方だ。事故など起こさないと信用しよう。
だが、警報のサイレンが聞こえた。
ーーえ? なになに?
警報を鳴らすほど大掛かりな訓練なら、事前にニュースされるばず。そのような大事なこと、聞いてない。家族も近所も客人も警官も、そんな話などしたことがなかった。
市治は状況が理解できず、首を傾げた。
港の向こう、鶴見や川崎の工業地帯から黒煙が複数確認できた。そのうちの一機が堀ノ内(現南区)の上空で、何か小さな棒状のものを複数落とすと、住宅街から火災が発生した。
あの飛行機は、爆撃機だ。
「え、なんでなんで?」
市治はオドオドし、思考が止まる。
だが、これが敵機という認識に、まだ至れていない。
見晴らしの良い丘の上は、狙われやすい。北西からこちらに向かって来る爆撃機が、市治に機銃を向けてきた。
市治は殺気を感じると、思わずキャベツを守るようにしてしゃがみ込んだ。
爆撃機は爆音を立てながら、市治の真上を通り過ぎ、撃たずに通り抜けた。
草色の機体、中央部に星のマーク、後尾翼に六桁の数字、すべてが印象的だった。
桜はなびらも、爆撃機の乱流に飛び散った。
プロペラ音が遠ざかると、市治はキャベツを抱いたまま立ち上がり、土を払う。
ーーほ、星? アメリカさんですか……? でも、なんで?
ここでやっと敵の空襲だと解釈できたら、怖くなって身震いした。なにもかもがはじめての悍ましさだった。爆発と炎のなかにいる街の人たちは無事なのか? 怪我はないのか? もし自分が巻き込まれていたら? 身震いと同時に心配になった。
太平洋のはるかかなたにある大陸の国から、一体どうやってこんな島国の横浜までやって来たのか?
これがどうしても分からない。
あの爆撃機は旋回せず、そのまままっすぐ南東方面へ遠ざかった。市治は危険はなくなったと判断し、ホッと一息ついてから、急いで異人屋敷へ走った。
現実はお盆前の日曜日。朝から強すぎる日差しで蝉すら鳴けない。不快指数もかなり高い。舞岡市治はメンバー三人をレパードに乗せて走る。
先月の話、空架橋は一部思い出した。銭湯で見た夢は戦争に関係していたような……と。八月はいろんな場所で戦争の話題があがる。ならば私たちもやろう。みんなに横浜のマイナーな戦争関連モノを紹介してもらおう。決まったら市治に場所を伝え、車を出してもらう。
それで今日が実行日で、実行している。
車内ラジオはパリ五輪予選で盛り上がり、みんなも話題に乗っていた。
最初は青葉区の奈良。東京都との県境が近い。ここは横浜市内でも屈指の緑豊かな谷戸公園がある。駐車場から車を降りれば、市治以外の三人は夏の流行語「暑い」を連呼する。市治はそれでも日焼け防止用の夏用ポンチョをまとい、言わずに平静を保った。
空架橋は、目的地の園名に唖然とした。
「こ、こどものくに?」
戦争遺跡としてここを選んだ寺家育美が答えた。
「そう。こどもの国」
「鹿、いる?」
「東大寺も多聞城もせんとくんもないからな」
「は、はい……」架橋は育美に先を読まれ、沈黙した。
開演を待つ客は市治たち以外皆親子だった。架橋は、戦争と子供の遊び場に、大きなキャップを感じた。
育美はまったく気にしない。
「ここはね、陸軍東京兵器補給廠の田奈部隊填薬所だったところだよ。しかも園内全部が元基地。広いだろ!」
新治英々子は感心した。
「城好きだから基地なんだね。寺さんらしいわ」
育美は得意げに腕組みする。
「ふふふふふ。馬出しとか桝形虎口とか武者隠しとか何十メートルも積まれた石垣とか幅の広い水堀とか五層七階の大天守とか門や櫓や御殿や縄張りなどなど見所満載だぞ!」
「いったい何処の鎮守府なのよ?」
育美と英々子は笑った。
入園時間、四人は親子連れの入園を待ってから入園料を払い、中に入った。入場ゲート横の事務所で「歴史ガイドブック」を購入する。写真とイラストをメインにこの基地の詳細が紹介されていた。
この基地は昭和十六(一九四一)年に完成。そのための部隊、陸軍田奈部隊も新設され、弾薬の製造、管理、保管、輸送などを行っていた。付近を走る東急こどもの国線も、弾薬輸送のために作られた路線だった。敗戦後は米軍に摂取されてしまうも昭和四十(一九六五)に返却され、こどもの国となって生まれ変わる。この園内は牧場や植物園、遊具、喫茶店、キャンプ場などがあり、子供たちが無邪気にはしゃいでいる。
「わあ、遊び場いっぱい。見所いっぱい!」英々子の瞳が輝く。
「そっちじゃないぞー」育美は柔らかく注意した。
今度は市治が「谷戸は自然界のスモールワールド。ホントに最高です」と、こちらも瞳が輝く。
「そっちでもないぞー」育美は再度つっこむ。
架橋は売店をみて、園内牧場直売の美味そうなソフトクリームに反応しようと思うも、育美に「言うなよ」と、先を読まれた。
四人は、当時の古くさい貯蔵施設や小屋などを見て回る。戦時遺稿は少ないけど園内が広いから、かなり歩いた。子供の笑い声と、汗がいっぱいだった。
育美はやっと、一番みせたい場所にたどり着いた。
「じゃーん!」見て驚けとばかり、両腕でその場所を指した。
そこには大きな碑があり、タイトルに"無名のスカウト戦士の像"とある。石版彫刻には日本の兵隊が負傷した敵兵を救護している。
育美が英々子に指示する。
「えーこちゃん軍曹っ、あの解説文を読みなさい」
「はっ! 隊長どの。この……は、……のごこかの……で」
「だから漢字も読めーって!」
期待通りのボケツッコミに皆、笑った。
英々子は子供の頃、小学校の社会化見学でここに来たことを思い出した。
「そういえばこんなのあったね。美談だよ。怪我をしたアメリカの兵を日本の兵が応急措置して助ける。お互いがボーイスカウトの体験があったので、伝え残したみたい」
架橋は感銘した。
「へえ、す、凄いね。あの戦争話って、痛くて怖くて悲しいのばっかりだから……」
育美は同情した。
「ま、戦争体験談って、重たくてなんぼみたいなものあるからね。だから真剣になれるし、背筋が伸びる」
でも、市治の瞳は座っていた。
「ですがこれ、反則です」
「え、え? なんで?」育美は納得いかない。
市治は答えた。
「ここ、町田市ですよ」
「えー、こどもの国って横浜でしょ?」
育美はタブレッドで確かめ、地図上のGPSによると確かに市域を出ていた。この公園の大半が横浜市だけど、この像がある場所だけが東京都町田市だったのだ。
育美は開き直る。
「え? 町田は横浜でしょ」
英々子はしらけた。
「それをいうなら、町田は神奈川だよ」
「横浜に隔離された町田って、横浜でいいじゃん」
架橋は困惑した。
「え? なに? どっち?」
市治は架橋に教えた。
「些細な県民ネタは聞き流していいです」
育美は「じゃあ、ガチの横浜ならいいんだな」と、別の場所はみんなを導いた。それは入場ゲートのすぐ横にある目立たない石碑である。
その小さな碑は"平和を祈る"と記されている。
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この高台に百合の花が咲く。県内各地から強制的に働きにきた女学生たちにとって、唯一ともいえる憩いの場だった。昼食時はここまで来て食べる子も多い。全員が同じ作業服をまとい、服に染みた火薬の匂いも春の日差しで薄らいでいく。いくつかの仲良しグループがあり、市治たち四人は基地内がよく見える場所で食べていた。
豪農の娘、市治でさえ食事はひもじい。隣に座る架橋もみんなと同じだが、架橋は市治の弁当をみて同情する。
「おむすびひとつと沢庵だけじゃ、すぐお腹すくよねー」
市治はうなずくも、「私はこれで充分です」と微笑む。
基地内に輸送列車が入ってくる。速度を落とす列車の音は、重苦しくもある。育美は言う。
「ようやく火薬が来た。午後から忙しくなりそうだ」
英々子はため息を吐いた。
「お国の命令とはいえ、学校休んでまで人を殺すだけの弾を作らせるなんて、嫌だなぁ……」
架橋だって恐ろしい。
「わ、私の作った弾が、いつか何処かで誰かを死なせるんだ……」
育美は思わず不満を漏らした。
「ホント、兵隊たちは女の子にバクダン作らせて何が楽しい? 女が作らなきゃいけないのはそっちじゃないだろ」
市治も英々子も架橋も驚き、「シッ!」と育美の口を閉ざす。育美は我に返って両手で口を塞いだ。周りの子たちは、聴いてないふりをしてくれた。
英々子は下を向いてつぶやいた。
「仕方ないよ。あちらは有色人種を根絶やしにしたってなんとも思わないもの。怖すぎるよ。大航海以来、ずーっとそういう歴史ばかり作ってるからね。英米から一番遠い日本は最後の草刈り場。だからみんな、よってたかって攻めてくる。これじゃ嫌でも防ぐしかないんだよ……」
震えてる。泣きそうになってる。架橋も釣られて怯え、育美が二人を抱いて励ました。
市治は思う。
ーー私も、家族や小作人のみなさまと一緒に、のんびり畑仕事したかっただけなのですけど……。
なのに、させてくれない。本来なら女の仕事ではないのにやらされている。男たちは兵隊に駆り出されているとはいえ、一体どこまで人材不足なんだ? そのせいか、ご近所でも「オクニノタメ!」などと叫んでピリピリする人が増えてきた。なんだか、毎日が切羽詰まってる感じが否めない。
昭和十三(一九三八)年から用地買収が始まり、昭和十六(一九四一)年に稼働されたこの基地の存在自体も、そんな余裕のなさを物語っている。日本は東の支那事変だけでも難儀している最中なのに、西のアメリカにも喧嘩を打った状況の中で出来ている。本来ならここは自然豊かな谷戸。その恩恵で農作物も豊かに育つ場所だった。きっと、畑を実らせる大人も森を駆けずり回る子供も、笑顔が絶えなかったであろう。
市治はそう思った。
女学生たちの表情が、暗くなっていた。
列車は止まり、兵隊たちが荷下ろしを始める。
市治はおむすびをほおばるため、目線を基地からおむすびへそらし、小さな口に入れてから、目線を基地に戻す。
市治は目を疑った。
そこに基地はない。
見えるのは、カラフルな衣装を着た子供達がはしゃいだり、道に様々な色のチョークで落書きをしたり、美味しそうなお菓子やソフトクリームをほおばる、楽しそうな光景だった。見守る大人たちも賑やかで、ちゃんと親や引率をやっている。
とても心地よかった。甲高い喚き声さえ、安心できる。
むしろ、ずっと見ていたい。
これはまさに、今のこどもの国の姿である。この子供の楽園は昭和四十(一九六五)年の開園以来ずっと、地域の憩いの場として活き活きとしている。閉園した遊園地は無数にあるのに、そんなに際立つアトラクションなどないのに、なんという活気だろう。むしろ、不思議なくらいだ。
市治はこの激しいギャップに胸が熱くなった。
市治だけではない。この場の女学生には皆見えていた。
育美は喜んで言った。
「そうだよ。これだよ!」
生きている実感が最高潮に湧き上がる。みんな飛び跳ねるほどに感動し、嬉し涙さえ湧いた。
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「ちーちゃん大丈夫?」
架橋に心配された。市治は妄想にふけていたようだ。
「大丈夫です。すみません……」
「これからお昼にしようと思うんだけど、あそこのレストランでどうかな?」
架橋は勧めるも、市治には予めの考えがあった。
「それも良いのですが、せっかくです。戦争当時にあったグルメにしましょう」
「お、いいねえ。じゃあここはソフトクリームにしとこ」
四人は園外にでて、市治の車で神奈川区三ツ沢下町にある蕎麦屋まで走った。
架橋は市治に問う。
「おお、蕎麦屋パートスリーね。いつの創業?」
「大正八(一九一九)年ですが、今回のお薦めは、お蕎麦よりも”シチウ” です」
「し、シチュー?」
「いいえ、シチウです」
英々子は喩える。
「シュウマイじゃなくて、シウマイ的な?」
育美は語感が気に入ったようだ。
「ハイカラっぽくて洒落てるじゃない」
四人揃って、ビーフシチウのオムライスを注文した。神々しいデミグラスカラーのシチウはトロットロで、濃いめながらも和ませる美味さがある。肉も野菜も溶けるように柔らかい。最高だ。
英々子お薦めは港南区大久保にある、かながわ平和祈念館だ。小さな展示館ではあるが入館無料となっている。
架橋は文字盤を見て、感心した。
「へえ、”祈る”念館なんだ。洒落てるねー」
下永谷に住む英々子にとって、戦争といえばまずここを連想する。幼い頃から何度か訪れたことがあった。
「洒落てるって……」
「あ、洒落てるじゃ軽いよね。深いって言ったほうがいいかな?」
「うん。そうだね。ここはおチビさんでも、戦史が深くディグれるかいいんだよね」
「ああ、まるでちーちゃんだ」
架橋は市治を見てニコニコした。市治は返事に困る。
「私、そんなに詳しくありませんよ……」
市治にとって横浜戦国史の前後は専門外だが、それを深く追求したくて色々調べてるうち、他の時代へ寄り道することはえてしてある。そこから得た無駄知識は、意外と頭に入ってるものだ。
館内に入る。展示館らしく、大東亜戦争の基礎情報がしっかり抑えられている。パネル、模型、遺品など分かりやすく、見入ってしまう。
架橋が懸念する。
「でもこれ、ニッチ感ないよね」
英々子の返しは上手だった。
「何事も基礎を抑えないと、ニッチは楽しめないんだよ。そらちゃん」
「あ、お、おっしゃる通りで……」
「じゃあ、そらちゃんに基礎問題ね。ここで紹介されている戦争は太平洋戦争ですか? それとも大東亜戦争ですか?」
「え、え、え? どっとも一緒じゃないの……?」
「ちがいまーす」
「ううううん…………、太平洋戦争っ」
「ブッブー。大東亜です」
「な、なんで?」
「太平洋戦争は、十九世紀にチリとペルーとボリビアがやった戦争を指すんですよー」
「えー、なにその引っかけ問題?」
「引っかけじゃないよ。歴史も人間様のコミュニケーションで成り立つ以上、何よりまず名前を間違えたり、こちらの都合で変えたりしちゃダメだって言ってるのよ。ミスリードの原因あるあるだから。戦争当時のみんなが普通に使ってた用語なんだよ。私ら後世の人間にとっては、大東亜の右滑稽なウイルスを取り除けるワクチンくらい、いくらでも打てるのよ。バージョンアップもしてる。大東亜戦争には独特な複合性があるの。太平洋戦争だとそこ見落としがちになるんだよね。イギリスとか中共とかソ連とか。だって、太平洋の国じゃないもの」
「あ、そういえばそうだねー。えーこさん深いねー。さすが元塾講師……」
「ま、こんなの受験にはでないけどね。その辺りのオススメワクチン、最近のやつなら新潮新書の『決定版大東亜戦争』上下巻かな」
「え、あ、はい……」
架橋は苦笑い。買って読めといわんばかりだった。
館内は確かに展示物は結構多い。戦時中の生活品から軍人の遺物、語り部の記録映像もあった。見るだけで二時間いられた。祈念館を出ると、目前の丘にある神奈川県戦没者慰霊塔(港南区最戸)で祈った。
「そういえばこの丘の真下には、戦争終わるまで鉱山があったらしいって。灯りの燃料になる亜炭ってのを採ってたみたい」
市治は問う。
「燃料不足の代替ですか?」
英々子は肯定した。
「うん。でもまあ、不燃物多くて臭かったって」
架橋はいう。
「なんでそっちを選ばなかったの?」
英々子もそう思ってたが、理由は単純だった。
「いい質問ね、そらちゃん。でもこの炭鉱って、そらちゃんの宿題に答えられないんだ。戦争中のお話にはなっても戦争のお話にならないの。つまりこれでは、平和って大事だよねーって結論にたどり着けないんだよ」
「なるほどねー」
架橋は納得と同時に、自分のためにそこまで親身に考えてくれたと思うと、全身が痺れるほど嬉しかった。
育美は時計を見て「もう三時か……」とつぶやく。
時間が大幅に遅れてる。
「次はどっち?」英々子は市治に質問した。
市治は時間を全く気にしてない。
「そらさんです」
架橋は息を呑み、目が泳ぎ、緊張した。
「や、や、やっぱりだよね……」
架橋が選んだ場所は車で五分ほどで着いた。港南区上大岡東、真光寺前の坂道で降りる。架橋はおどおどしながらも、一生懸命解説した。
「こ、ここが、カール・ルイスさんが大好きだった、上大岡から眺める富士山ですっ!」
と、恥ずかしながら両腕で西側をさした。
英々子は「るいす……?」と、耳を疑う。
この丘の上からの見晴らしは素晴らしいけれど、育美はさりげに言った。
「富士山、見えないね……」
「えーっ!」架橋は驚き、確認すると、本当に見えなかった。
市治が原因を答えた。
「湿気ですね。これは妄想補正するしかなです」
英々子はなにより、名前に違和感あった。
「カール・ルイスって、これ?」
と、走るポーズをして問う。育美も同じ思いがあったので、真似した。
架橋はその意味が分からない。
「え? え? なんですか、それ?」
英々子が教えた。
「人類史上初めて、百メートル走で十秒の壁を越えた陸上界のレジェンドよ。オリンピックでも金メダルざっくざっく取りまくったって。ま、今もご存命だけど」
これには架橋の方が驚いた。
「い、いや、そっちは知らないです。私、図書館でこの薄い本を偶然見つけて知ったの」
「薄いって……」英々子は呆れ笑いする。
架橋はセカンドバッグこら、図書館から借りた小冊『港南歴史よもやま話』をとりだし、「こ、これにあったの」という。
市治は架橋の、自主的な予習に驚くも、表情は隠した。
英々子は架橋から小冊を借り、ページを開いた。
「へえ、同姓同名の別人か。いや、スペルが違うわ。どんな発音だろ? ていうか、メリケンさんが戦時中の日本に暮らしてるって、大丈夫なの?」
戦時中に日本に滞在した敵国の民がいた史実があったなんて、知らなかったし、意外だった。そんな人が当時の日常にいたら、ご近所さんから毎日のように意地悪されそうな想像をしがちになる。でも想像しない。したら、自分たちの胸が苦しくなる。
だから市治も育美も英々子も、このアメリカ人が気になってしまった。
ここでいうカール・ルイス(Karl Lewis)とは、明治末期と昭和初期に日本で活躍したアメリカ人の絵葉書商で、実業家としても優れた男だ。慶應四(一八六五)年、ケンタッキー州で産まれる。十三歳で船乗りとなり、明治三十四(一九〇一)年、三十六歳で横浜に住んだ。三十八歳で中区山下町に写真館を開業し、絵葉書商を始める。彼が手作業で作った絵葉書は日本の風景や風俗を題材にし、とくに富士山は好んで描いた。これがイギリスを中心に世界中で流行り、また、日露戦争での葉書需要の爆発で日本でも人気を博した。特に彼の絵葉書は"ルイス・カバー"と呼ばれる。しかし日露戦争終了後、絵葉書市場ではカラー印刷技術の進化と機械の大量生産に押され、多くの職人が廃業。ルイスも大正二(一九一三)年に廃業した。
大正三(一九一四)年、四十九歳、ルイスは大好きな富士山を一望できる上大岡村の、黒船見物の丘のちかくに自宅を建てた。住民からは"異人屋敷"と呼ばれる。廃業後のルイスは、日本初のローラースケート場館長を経て日本フォード社の取締役になると、上大岡近辺の人たちを沢山雇い、町の人気者になる。昭和八(一九三三)年に退職した後、日本で初めて”絵入り封書”を作ると、これがまたブームとなった。
しかし昭和十四(一九三九)年、ルイスは心臓発作に倒れ、十五(一九四〇)年、妻の貞子に先立たれた。十六(一九四一)年十二月八日、対米戦争開始の日、ルイスは特高警察にスパイ容疑で連行されたが、上大岡の住民達が保釈運動を起こした。その甲斐あってルイスは保釈されるも、自宅軟禁されてしまう。この間、ルイスは米国大使館から帰国勧告を受けるも拒否。日本に骨を埋める決心を固めていた。
ルイスは、特高尋問時の心労が病状を悪化し、その影響で昭和十七(一九四二)年五月十九日、七十六歳で静かに息を引き取った。
ルイスは素直に、ありのままの日本が大好きだった。絵葉書の絵柄を見ても良く伝わる。周囲の日本人もそんなルイスの有り様をよく知っている。だから日米両国が史上最悪の関係になっても、暑苦しい愛国思想の枠を越え、友として認められた敵国人だといえよう。