表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

創作百合短編集

愛のいたいけな靴擦れ

作者: 今田椋朗


 なんでもない昼下がりに、人間の肌に心地よい、ちょっぴり冷たいそよ風が、ペダル・ポイントのように終日、辺りを満たしている。

 手指のかじかみで、この年の秋の一ページ目が分かる、そんな日だった。


『かがみよ、かがみ。世界でいちばん美しいのは、だあれ?』


 その秋の爽やかな陽光を受けとめる公営団地の、共用外廊下でも、冷たいそよ風を感じることができた。


 コスモスが、団地の正門と呼べそうな、車道から距離のある奥まった広場の、向かい合う花壇のどちら側でも、日に日に咲く勢いを増していた。


『それは白雪姫です』



 団地二号棟、五階の一室は、その時、ふたりの少女の世界そのものだった。



『許さないわ、家来よ、今すぐ白雪姫の心臓を持ってきなさい』


 ふたりは同じデザインの制服を着て、ひとつの絵本を、肩を寄せ合いながら、開いていた。


『王妃さま、これが白雪姫の心臓です』


 くっ付いている左ひじと右ひじの間には、白いブラウスしか、ない。

 過ごしやすい気温なので、薄手の長袖のブラウスの上に何も羽織らなくてよかった。


『ご苦労さま。さあ、かがみよ、かがみ。世界でいちばん美しいのは、だあれ?』


 四つの白い袖から覗く、ふたりの手首の肌の色合いは少し違っていた。

 それは日本人が日焼けしたか、していないか、それくらいの差でしかなかった。


『それは白雪姫です』


 色の濃い方の少女は、袖のボタンを全て外していた。

 色の薄い方の少女は、袖のボタンを全て留めていた。


『許さないわ、私自ら白雪姫を手にかけます』


 ランドセルを置いてすぐに遊び始めた、そんな状況が手に取るように分かる、床の上の有り様である。

 散らかっているわけではなかった。

 ふすまで仕切られた子ども部屋は、ちゃぶ台と本棚しか、目に付く家具は無かった。

 子ども部屋らしい、ベッドや勉強机が無かったが、置いたなら少々窮屈になっただろう。


 布団は今は押し入れの中、ちゃぶ台が勉強机の代わりなので、それで十分らしい。

 だから本棚だけは、異彩を放っていた。


 ふたりは、ちゃぶ台の上ではなく、お互いの膝の上で、絵本を開いていた。


 ふたりの声。

 ふたりの呼吸音。

 ページをめくる紙の音。

 ブラウスの白い袖の衣擦れ。

 

「白雪姫、りんごはいかが。赤く甘く熟した、りんごはいかが」

 色の濃い方の少女が、りんご売りに扮した王妃を淡々と演じている。

 あまり長くない髪を後ろで一つ結びにしている。

 ポニーテールと呼ぶには足りない長さだ。


「りんご売りさん、ありがとう。では、いただきます」

 色の薄い方の少女は、白雪姫と、三人称の語り手などを、つまり王妃や王子といった白雪姫と直接対峙する役を除く、ほとんど全てを担っていた。

 そしていくらか熱心に、セリフをなぞっていた。


 肩に届くサラサラの髪を揺らしながら、小劇場を展開する彼女は、下の花壇のコスモスにも負けないくらいの、明朗な眩いエネルギーが内から滲み出ているようである。


「うっ、りんごが喉に……ばたん」


 かなり慣れた演技で、床の上に大の字になる、白雪姫のために、王妃はふたりの膝の上から絵本を持ち上げた。

 それから一つ結びの少女は、小人パートを大幅にカットして、王子様を演じ始めた。

 同時に、彼女の切れ長のたれ目は、熱っぽく潤み、ギアが入ったようだ。


「美しい白雪姫、眠り続ける白雪姫。どうか、キスで目覚めてくれないか」


 王子様は絵本を開いたままちゃぶ台に置いて、横たわる白雪姫にそっと近づいていく。

 迷い無く、顔を近づけていく。


 サラサラの髪が乱れかかった姫の白い頬を、躊躇いなく撫で払って唇を露わにする、熱い眼差しの王子様の、一つ結びだけが躊躇いがちに揺れていた。


 鼓動に合わせて揺れる一つ結び。

 ブラウスの白い袖の衣擦れ。

 白い頬に朱が差し始める。

 ふたりの呼吸音。

 

「……ユズ」


 呼ばれて、薄く片目を開けた姫は、一つ結びの少女のいつになく真剣な視線を確認して、またギュッと目蓋を閉じた。

 長い睫毛が自然に、愛らしい曲線を描いていた。


「ん」


 目覚めのキスは淡白に済まされた。


 それから、目覚めて開口一番に、白雪姫は頬を膨らませて怒り出した。


「スイ、途中で名前を呼んじゃダメって、何回も言ってるでしょ」

 はちみつを舌先で溶かしているような、甘い声で、しつけるような口振りで、ユズ姫はスイ王子を咎め立てる。


 ユズのそのサラサラの髪は、わなわなと震える華奢な肩の上で、嬉しそうに弾んでいるように、見えなくもない。


「白雪姫をやってても、ユズはユズなのに」

 スイと呼ばれた、少し浅黒い肌の、一つ結びの少女は、ふてくされて唇を尖らせる。


「口答えしない、次はぜったい呼ばないで、名前。約束だから」

 肩に届くサラサラの髪の毛先を、白い小さな手でくるくる弄ぶのは、ユズの癖だ。

 そして、その高飛車気味な口調は、きっと母親の語彙を真似ているのだろう。


 スイは不承不承ながら頷いて、ちゃぶ台に置いた絵本『白雪姫』を、この部屋唯一の立派な家具である、本棚に差し込んだ。


 その本棚は天井すれすれの背丈があり、文庫本ばかり窮屈に犇めいている。

 ふたりの少女の、頬を寄せ合う笑顔を切り取った写真が一枚飾られている。

 その中のユズはツインテールにしていて、スイはショートカットだから、時間の経過が窺えた。

 絵本は数冊のみで、居心地悪そうに片隅に収まっていた。

 

 そこから、スイは『白雪姫』と入れ替えるように、『シンデレラ』を取り出した。


「ええ、シンデレラは昨日やったじゃない、私、ちがうのがいい。スイはシンデレラばっかりでも、平気なんだろうけど」


 ユズはスイを指図しながら、ランドセルの近くに置いていた水筒をちゃぶ台側に寄せ、水筒蓋の容器にお茶を注ぐ。


 スイは『眠れる森の美女』を取り出した。


 ユズはお茶を飲みながら、横目でタイトルを確認して、

「一昨日やったから、ちがうのがいい」

 そして間を置かず、もう一口お茶を含んで、

「やっぱりそんな気分じゃなくなっちゃった、宿題でもしよ」

 と、取り付く島がない。


 こんな態度では友だちが少なくなりそうなものだが、ユズがこの一面を見せるのは、スイだけだったから、学校ではもう少し丸くなる。

 学級では、引く手あまたな女の子なのだ。



 スイはユズにあれこれいちゃもんを付けられても、そんな態度には慣れっこだったし、ユズがその一面を自分にしか見せないことも知っているから、快くもあった。


 学校での『みんなの前のユズ』と『ワタシの隣のユズ』、どっちもユズだから、好き。


 スイの『好き』の感情は、ハンバーガーが好きだとか、ドッジボールが好きだとか、家族が好きだとか、それらは同じ色をしていた。


 それが、最近になって『ユズが好き』だけ、色合いが変わってきたように、感じる。

 それはまだ靄がかかって、輪郭がぼやけて、焦点が合わない。

 全体像も掴めない。

 だが、色だけは、見えた。

 どんなにガラスが曇っていても、半透明でも、判別つくくらい、鮮やかな変化だったのだ。


 それが、口付けの前に、相手の名前を呼んでみたくなる理由なのかもしれなかった。



 ふと、その閃光のような発想がスイの脳によぎったのは、そういう心理の背景があってのことだった。

 ユズの愛らしい睫毛を触媒にした、つれないユズの態度と、スイの唇にまだ残っているユズの唇の滑らかな熱との、化学反応だった。


「ユズ、ユズってば、きいて?」


 スイは閃きを手放したくなくて、焦りながら、ユズの細い二の腕を掴んで、揺さぶった。

 宿題をしていたユズは、手を止めざるを得ない。

 あどけない怪訝を大きな瞳に含めて、面をスイに向けて、続きを待つ。


「ワタシが、姫役をするから、ユズが王子様をやって」


 それは、ふたりの今までにない、提案だった。


「ふうん?」

 ユズは鉛筆を置いて、両肩の上のサラサラの髪を、両手ともくるくると梳かしながら、相棒の珍しい表情をじっと見据えた。


 切れ長のたれ目が映すのは、好奇心か。

 だとしたら、照らしているのは自分のそれだ。


 ユズはこの時、浮き立ったような心持ちで、次の言葉を待っていた。

 足をいくら踏ん張っても、実感の得られない、不確かさのまま、それを自覚する前に、話に乗ってしまった心地だった。


「やったことなかったでしょ、いつもユズが読み始めるし、いつもお姫様を選ぶし。次は、ワタシがやるの」


 テンション高く、早口になるスイは珍しくて、ユズは思わず唇の周囲の筋肉を弛めた。

 スイの心が今までに溜めてきた、ユズの明るいエネルギーが、今日この日に溢れてユズに還ってきたのだ。

 そうとは知らずに、これだからスイと遊ぶのが一番楽しいと、ユズはその手応えを単純に受け取って、

「そんなに言うなら、やってあげても……」

 と、微笑んだ。



 ちゃぶ台の上に置かれた二冊のうち、『眠れる森の美女』を、スイは本棚に戻した。


「スイがシンデレラかあ、なんだか新鮮」


 ユズは、ちゃぶ台の上で『シンデレラ』を開くスイのすぐ隣に座り直して、読むために出来る限り身体を引っ付けた。

 スイの鼻腔に、ユズの髪の華やかな香りが再び届いた。

 なんだか、この日この時に限って、くすぐったくなったスイは、自分の制服のポケットから予備のヘアゴムを取り出して、ユズの髪を纏めた。



 スイに髪を触られること自体は、ユズは慣れているので、従順だった。

 ただ、うなじや肩周りがすっきりすることが、これから王子様を初めてやるという緊張に繋がった。


 その緊張が、遅れてようやくやって来た戸惑いと合流した。

 ユズは思わず身震いした。


 ……『シンデレラ』のラストシーンって、目覚めのキス?誓いのキス?どんなだっけ?

 どっちみち、王子様はお姫様にキスをしなければ、物語は終わらない。終えられない。


 どうしよう。

 どういうことなのだろう。



 ユズの逡巡している間に、スイは物語を始めた。

「シンデレラは、継母と姉たちに、いじめられていました」


 ユズは慌てながら、スイの後に続いた。

 変な間が生まれないように。

 どうして、変な間が生まれてはならないのか、それも分からずに。

「お城で舞踏会にお呼ばれしたのだけれど、シンデレラ、あなたのドレスはありません。お留守番なさい」

 

 継母や姉たちを、どこか上の空でやっている。

 ユズの脳内は、情報が錯綜しているから、演技にふだんの艶がない。

 別段、スイはそれに気付く素振りなく、淡々とシンデレラを進めていく。

「どうしても、お城でダンスを踊りたいわ。魔法使いさん、ワタシの夢を叶えてください」



 ユズは、走行中に前輪の片方がタイヤごと外れて、制御不能の四輪車と同じ心持ちで、セリフをなぞりながら考えた。

「シンデレラよ、魔法は午前零時になったら解けます。それまでに帰るのですよ」


 そもそも、ごっこ遊び(ロールプレイ)で、これまで何度もスイからキスはされている。

 今更、狼狽えることはおかしい。


 それは分かるのに、この心臓の動きが分からない。

 どきん、どきん。



「魔法使いさん、ありがとう。行ってきます」

 言い終わるなりスイは、すっと立ち上がった。

 絵本から手を離したので、ページがパラパラと後戻りした。


 ユズは無意識に、癖の髪梳かしをしようと肩の上に手を持ってきたが、サラサラの髪はスイのヘアゴムで纏めて後ろ側なので、行き場を見失う。

 その手指の違和感は、なにか不安に近いような気がして、ユズは小さな胸を両手で押さえた。


 どきん、どきん。


「ユズ!」


 呼ばれて、肩がびくっと跳ねた。

 ユズは、スイがどうして立ち上がって自分を見下ろしているのか分からず、動悸も治まらず、呆然と相棒を見上げた。


「ユズ、何ぼーっとして?立って。踊るよ?」

 スイは、心ここにあらずのユズの心を取り戻す鋭い熱を声に乗せて、色素の濃い手を差し出す。


 積極的なシンデレラが、手を差し出す。

 姫役と王子役を交代しても、スイがリードするのは変わらないようだ。


 ユズは相棒の手を取って、立ち上がった。

 スイの肌に触れることなんて、なんでもない日常で、当たり前で、これまで何とも思っていなかったのに、今日は違う。

 今日は違う。なにか変だ。


 心のアンテナが鋭敏になったのか、スイに抱く安心や期待や信頼の温もりが、今は熱い。

 頭は混乱していても、五感は冴え渡っていた。

 ふたりの鼻呼吸と口呼吸のリズムすら、今のユズには数えられるかもしれない。


 相棒の手のひらで跳ね返る自分の脈動が、心の今まで立ち入らなかった隅っこまで思いがけず踏み入って、闇を暴いてしまいそう。

 そのブレーキの利かない内省が、おそろしい喜悦を生んでいて、それがユズの肌を敏感にしていた。


 ユズは気恥ずかしさを、相棒に悟られないように、誤魔化すように手を強く握って、踊り始めた。


 絵本の挿し絵は動かないので、お城で踊るダンスがどんなものか、ふたりには分からない。

 想像で、好きなように、即興的に、ふたりは踊る。

 

 ちゃぶ台の周囲を、ぐるぐる踊る。

 挿し絵では、シンデレラと王子様は手を繋いでいるので、ダンスは手を繋いでいれば何をしてもいいと、ふたりは思っている。


 ユズは、思い切って運動すれば、脳内のモヤモヤも晴れるだろうと、スイと手振りをキビキビ合わせたが、妙な熱は燻り続く一方だ。


 スイがスキャットやハミングで、歌うのはショパンのワルツ五番だが、よく知っているわけではない。

 それっぽい三拍子のメロディーでなんとなく出てくるのが、その曲の有名な一部分だった。


 ユズがいつになく必死な表情で踊るのが面白くて、スイは切れ長のたれ目を柔らかくした。

 その熱を帯びた瞳は、ユズのきめ細かい白い肌の下の、毛細血管まで見通さんばかりの鋭さで、いとおしい王子様を捉え続けた。


 ユズは、シンデレラの視線に耐えられなくなった。

 スイの熱量がふだんと違うと、ユズに伝わりはじめたのだ。


 ユズは、はにかんで目を逸らして、絵本を視界に入れて、思い立った。

「零時の鐘!かーん、かーん」


 鐘が鳴ったら、シンデレラは靴を落として帰らなくてはならない。


「ああ、そうだった。王子様、ワタシは帰ります」

 スイは名残惜しそうに、自分の一つ結びを解いて、ヘアゴムをユズに渡して、踵を返した。

 ガラスの靴の代用の、黒い平凡なヘアゴムが、今のユズには重い。

 ともかく、ユズは一息つくことができた。

 どきん、どきん。



 スイが髪を下ろすのは、魔法が解ける場面に沿っての表現だが、相棒のその姿を見たユズは魔法が掛かったように動けなくなってしまった。


 結んでもポニーテールには足りない長さは、ミディアムボブと呼べるだろうか。

 昔のスイのボーイッシュな短髪時代を思い返して、いつのまにこんなに伸びたのだろうと、ユズはしばらく見とれてしまった。


 スイは、いつもと様子の違うユズの、夢うつつだったり、焦って必死になったり、百面相が楽しい。

 唇を三日月形に歪めて、王子様を一瞥して、

「馬車もドレスも何もかも元戻り。ワタシはもう二度と王子様には会えない」

 くるっと半回転して、制服の裾を翻して、ぺたんと座り込んだ。


 背を向けるスイの黒髪を見て、ユズは衝動に駆られて、洗面所から箱を持ってきた。

 櫛や手入れ用品、髪飾りが入っている箱だ。


 自分がふだん母親にされている手付きを真似て、丁寧にスイの髪を梳かしていく。

 されるがままのスイは、おとなしく俯き加減に、目蓋を閉じて待っている。

 櫛の先からユズの愛情を感じて、嬉しくて楽しくて、スイの口元は自然に綻ぶ。


 ある程度整って、おしまいに、ユズはスイの前髪をヘアピンで留めた。

 それには紺色のリボンが付いているから、小学校の制服のままだとはいえ、少しは姫らしくなった。


「これで、また王子様に会える。ワタシを迎えに来て、愛しの王子様」

 スイは興が乗って、歌うような節回しだ。



 それに対して、ユズはいよいよ困った。

 

 誓い……?何を誓うのか。

 王子様はシンデレラを見つけて、求婚するのだ。

 しあわせを約束する、誓いのキスをしなければ、物語は終わらない。

 ごっこ遊びを終えられない。


 ふと、手のひらを開けると、黒いヘアゴムがあらわれた。

 ずっと握っていた、ガラスの靴の代用品。

 ユズは、それを自分の手首に通した。


 それで思い付いて、ユズは後ろに手を回して、自身のサラサラの髪を纏めるヘアゴムを取った。

 スイの予備の、もう一つのヘアゴム。

 それを、シンデレラの手首に嵌めよう。

 きっと、しっくりくるハズ。


 相棒はまだ目を瞑ったまま、静かに待っている。

 その左手を取って、輪をくぐらせていたら、スイは指を絡めて、ユズの右手は捕らえられてしまった。

 そのままヘアゴムを滑らせたら、ふたりの手首を結ぶことになった。

 めまいしそうなほど強烈な一体感に、ユズの脳は痺れる。

 どきん、どきん。


 ユズは、自分の複雑な感情の中に一種の好奇心があり、それが十年の人生で最上級の烈しい煌めきであることに、さすがに気付いた。

 素人の消火器操作でなんとかなる小火が、いつの間にか石油化学コンビナートの大火災になっていた心地だった。

 

 ……この状態のまま、口付けをしたら、どうなってしまうのだろう?

 私と、スイが、どんなに溶け合うのだろう?

 それが、なにを意味して、ふたりの今後にどう作用するのだろう?


 期待で覆われたスイの閉じた瞳、唇が、鏡となってユズの心を映したから、ユズは自分と話をしなくてはならなくなった。

 向き合わなければならなくなった。


 

 整理しよう。

 

 まず、これまで私とスイは、ごっこ遊びで何度も触れ合った。

 目覚めのキス。

 誓いのキス。


 いつも一緒だから、それが当たり前で、当たり前が失われるのはイヤだから、ケンカをすることはあっても、その都度仲直りしてきた。

 仲直りのキス。


 キスだけではなく、髪や頬や手など、相手に触れることには何の抵抗もない間柄だった。


 それに対して、私はスイと母親以外の人に触られるのはイヤだ。

 例えば、学校で授業の合間の休み時間に、他の友だちに誘われて、強引に腕を引っ張られるとき。(スイに強引にされるのは、楽しかったり嬉しかったりするのに。)


 例えば、他の友だちの女の子に、髪を触られるとき。(褒められたり羨ましがられたり憧れられたりするのは嬉しいが、直接触られたくはないのだ。)

 そんなとき、スイは私の盾になってくれていた。


 スイからのキスを受け入れるのは、日頃の感謝なのかもしれない。

 感謝のキス。



 受け入れる……?

 何か、引っ掛かった。

 私は、スイにだけ、触れることを許している。

 許す……?


 そうだ、私は今まで、自分からスイに触れることは、積極的ではなかった。スイが、積極的だから。

 手を繋ぐこと、髪を梳かすこと、頬や肩を寄せること、ハグをすることなど、それらは私も平常に、スイにしてきた。

 しかし、キスだけは、自分からしたことはこれまで一度もなかった。


 ようやく、疑問にたどり着いた。


 私は、キスだけは、ずっと受け身だった。


 王子様を演じるということは、自らキスをすることに他ならない。


 私は、スイに、初めてのキスをする。


 

 ユズは、ずっとおとなしく待つ相棒の少し浅黒い顔に、白い顔を近付けていく。

 ユズの右手とスイの左手は、お互いの脈動を摺り合わせて、これ以上なくシンクロして、一つの生き物のうねりとなっていた。

 心臓の動きが同じになるということを、同じ心になった、同じ感情を抱いた、ふたりはそう解釈して、体温が高まっていく。

 だから、ふたりは頬が紅潮していく。


 ユズは、自分のゼンマイ仕掛けを回すように、ぐるぐる考える。

 なぜ、スイは私に、こんなにも強い期待や信頼を向けるのだろう?

 スイはふだん、私をどんなふうに見ているのだろう?

 私はスイにキスをするのかしないのか、したいのかしたくないのか、分からなくて、迷って、困って、躊躇って、……それらは変だ。

 過去のなんでもない日常のキスと、今日このときのキスに、どんな違いがあるのだろう?

 スイにキスをされることと、自分からすることについて、心臓の動きに大きな違いがあるのは、なぜ?


 でも、今は確かにスイと同じ速度で、波打っている。

 きっとオクターブでユニゾンしている。

 どきん、どきん。

 その事実が嬉しくて、疑問が薄らいで、ぼやけていく。


 繋がって、同じになっていると確認したい。

 ユズはスイの顔を凝視した。

 シンデレラの唇は、なんの疑問もなく、かたく結ばれていた。

 やっぱり、期待や信頼で結ばれていて、不安や含羞がない。

 それはユズとは違っていた。


 疑問で濁っている自分は、曇り無い信頼を寄せるスイと同じじゃ、ない……?

 不安が不安を生んでしまう。

 でも、右手が同じだと言っている。


 澄み渡る夕日に撫でられるユズの右手の細い指は、スイの左手甲の少し浅黒い肌の上で、鮮烈に白い。

 すすき穂の銀色の輝きに似ている。

 日が落ちるにつれ、それは黄金色に近付いていく。


 同じか、同じじゃないか。

 揺れ動くのが、ユズにはくすぐったい。

 あと二センチまで近付いても、はにかみを堪えきれなくて、また離れてしまう。

 背中があたたかい。

 お日さまが、落ちる前にユズの背を押したのかもしれない。

 お日さまを全部吸って、スイに渡そう。

 なんとなく、それを動機にして、ユズは再び近付いていく。



 スイは、焦れったいユズの呼吸音が面白くて、集中して待ち続けられた。

 ユズの鼻息で風力発電するように、スイはぐるぐる考える。

 『ユズが好き』『ユズを誰よりも楽しませたり喜ばせられる自分が好き』『ユズを愛する自分が自分』『ユズは今、ぜったいにワタシのことだけを考えているのが分かるから、嬉しい』『ワタシも、ユズのことだけを考え続ける』『お互いに出来る限り近付き続けるのが、しあわせ』……。

 


 ガチャンと、扉の開く音がした。

 ふたりの世界が破られる音は、ドアノブの金属音だった。



 びくっ!

 唐突な外部の音に、ユズの心臓は口から出るくらい跳ね上がって、驚いて、ユズの覚悟は定まらないまま、霧散してしまった。

 感電したように肩が震えて、サラサラの髪が舞い上がった。

 スイも、思わず目を見開いた。



「ただいま、あら?スイレンちゃん来てるのね」

 玄関に、娘の柚乃のサイズではない靴が並んでいた。

 柚乃と特に仲良しな、六階のスイレンちゃんとは家族ぐるみで、良く付き合いしてもらっている。

 母子家庭なので、一人娘をあたたかく見守ってくれる近隣の存在はありがたい。


 今日は珍しく残業せずに早上がりできたが、ケーキでも買って帰ればよかった。

 スイレンちゃんは甘いものを喜ぶから。たしか、そうだった。

 

 日持ちする焼き菓子くらいならあったハズ。

 とりあえず紅茶を淹れようか。

 

 そこまで考えて、まだ娘たちの物音を聞いていないことに思い当たった。

 まだ「おかえり」を聞いていない。


 ふすまは半分開いていた。

 子ども部屋を覗いた。


 ふたりはちゃんと居た……。

 しかし、ただならぬ濃密な気配が鼻まで届いて、噎せそうになった。

 チョコレート風呂で溺れるような心地で、息が詰まる。


 至近距離。

 ふたりは真剣に見つめ合っていた。

 ぺたんと座るスイレンちゃんに被さるように、両膝をついた柚乃が上半身を倒して、左手で支えている。

 柚乃の右手は、相棒ちゃんの手と絡め合って握り合って、ヘアゴムでふたりは手首まで結んでいた。

 それで、なんとなくおおよその察しはついた。

 思わず生唾を飲み込んだ。


 柚乃がまず振り返ってこちらに顔を向けた。

「あ……おかえりなさい……」

 呆然として、今し方の緊張の糸はぷっつり切れてしまっているようだった。



 それから、スイレンちゃんもゆっくりこちらを向いた。

 三日月形に歪めた唇、烈しくも柔らかい切れ長の瞳、それらは恍惚に溢れんばかりで、十歳の表情と思えなくて、たじろいだ。

 それは見間違いかと思うほど一瞬の表情だった。

 

「こんにちは、おじゃましています」

 と、なにごともなく微笑んだ顔は、すっかり元通りのあどけない少女のそれだったが、少し不気味に後を引いた。

 ふたりの睦み合いを邪魔した罪悪感なのかもしれなかった。



 クッキーを食べるときも、紅茶を飲むときも、娘たちは手を離さなくて、なんだか癒やされた。

 はにかみ屋の柚乃が積極的なのは珍しい。

 それは成長と呼べるかもしれない。

 

 おやつで充電完了した娘たちは、そのまま下の公園に繰り出した。

 団地敷地内には大小ふたつの公園があり、目が届く距離で、門限を緩めている。

 ギリギリまで一緒に遊びたい、日が暮れかかっていてもお構いなしの瑞々しさにあてられて、心が洗われる。

 



 三十分くらいで、柚乃は帰ってきた。

 白い右手首に、ヘアゴムの痕が赤黒く残っていた。


「お母さん、王子様ってなあに?」

 もの憂げな光を瞳に溜めた娘の、髪を梳かしながら、無垢な質問に答えた。

 

「スイレンちゃんじゃないの?」


 柚乃は俯いて、細い指でしきりに唇を揉んだ。

 長い睫毛が、ふるふる揺れて、そこだけ別の生き物みたいに見えた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ