額縁に飾った短編小説
「山田さんですか?」
最初に聞いた彼の声は微かに震えていた。その声にはどこか根源的な不安が内蔵されていて、それを私の無意識は察知したと思う。
「ああ、良かった。電車が遅れてしまって。申し訳ありません…」
彼ーー佐藤早人はやたらと謝った。私は佐藤と会う事になっていた。彼はどうやら、私を恐ろしい人間とみなしていたらしい。実際に会うのは始めてだったし、それまでのやり取りはすべてインターネット上のものだったので、そう思うのも無理なかったかもしれない。
「それでは二十分ほど遅れますので、申し訳ありません。必ず向かいますので。少しだけお待ち下さい」
仕事でもないのにやたら丁寧に言って、電話は切れた。私はこれから会おうという青年が、生真面目な人物だというのを理解した。
私は電車に乗っていた。電話を切り(周囲の人の目を伺いながら)、窓外の風景に目を走らせた。電車は鉄橋を渡っていた。鉄橋の下には川が流れていて、川には弱い雨が降っていた。川の周囲には草むらがあったが、黒い雲の下でどんよりとしていた。それらはなんだか陰惨な風景に見えた。
※
佐藤早人は大学三年生だった。二十一歳で若かった。
私が彼と会う事になった理由は大したものではなかった。私はアマチュアの物書きで、インターネット上に評論や小説を投稿していた。彼は私の「ファン」だという事だった。それで、ネットを介してやり取りして、じゃあ会うかという事になった。幸い、お互いにすぐ会える距離に住んでいた。
彼は何かに悩んでいる雰囲気を感じさせた。それはやり取りからそう感じただけで、具体的に何があるわけでもなかった。最も、私の書いたものに反応するという事は、それだけで何かに悩んでいたり、苦しんでいたりする可能性が高いと言えた。私の文章は得てしてそういう性質を持っていた。
彼はどうやら、私を実際以上に巨大な存在だと思いこんでいたようだ。メールでやり取りしても、それを感じた。しかしそれを訂正する気は私にはなかった。だいたい、訂正したところでどうなるだろう? 人は見たいものを世界に見る。見たいものと実際の世界に矛盾があれば、現実が勝手に正していくだろう。私は別にいちいち何かを言う必要を感じなかった。
その頃の私の生活と言えば、無に近かった。ただ世界の中でうろうろと生きている群小の一人に過ぎなかった。その実感が文章に現れ、それが佐藤をして、共感に至らしめたのかもしれない。今になってみると、そんな気もしないでもない。
佐藤とは駅の近くの喫茶店で待ち合わせした。私が先に店に着いた。雨のせいか、客は少なかった。蒸し暑く、アイスコーヒーを注文した。ウエイトレスが、『この世のすべてに疲れ果てた』という表情で注文を取って、キッチンに戻っていった。
私は後ろ姿を見つめながら、彼女はこの動作をこれまでに何千回とやったのだろうな、と考えてみた。これからもシフトの続く限り、アイスコーヒーやホットコーヒーの注文を取り続けなくてはならない。永遠の鎖。だが、今を生きる人間にはこの煉獄をくぐり抜けても天国に到達する事はない。輪廻の次はまた果てしのない輪廻がある。シフトは誰かが埋めなくてはならない。
私は文庫本を開いて読み出した。著者は現代社会に革命を起こす必要を説いていた。私も理屈としては賛成だった。しかし、それだけだった。私は最近、あらゆる重大事を気の抜けたビールのように感じていた。頭の働きも鈍くなってきていた。世界は透明なガラス板の向こうで、なんだかんだと喚いていた。これは大切な問題だ、あなたの人生と関係があるとメディアは騒ぎ立てていたが、私はいつもガラス板のこっち側で、もそもそと飯を食ったり小便をしたりしているだけなのだ。
ぼんやりしていると、入り口のドアが開いて、背の高い青年が顔を出した。緊張した様子、真面目そうな姿から、すぐ佐藤本人だと思った。彼は青い服を着ていくと連絡してきていた。互いに顔を見た事はなかった。実際、彼は青いジャケットを羽織っていた。彼はどう見ても今どきの、垢抜けた、すらりとしたスマートな青年だった。この青年のどこに私の書いたものを読む余地があるのだろうか、と疑問に感じた。
彼は私を探してーーだろう、入ってきてまわりを見渡した。ウエイトレスが近づこうとした時、私の方が先に手を上げた。彼は私を指差して、席までやってきた。
「遅れて申し訳ありません。佐藤です」
佐藤は頭を下げた。
「山田です」
軽く会釈した。彼は向かいに座った。ウエイトレスがやってきた。佐藤は「ホットコーヒーで」と言った。「かしこまりました」とウエイトレスは去った。
「ホットコーヒーって、熱くない?」
私は驚いて思わず尋ねた。「え? そうですか?」 彼の方がかえって驚いているようだった。「そうですかね?」 私は、自分の方が暑がっているだけなのかと思った。すると、机の上には同じ季節にして、アイスコーヒーとホットコーヒーが並ぶ事になる。これだけでもこの世に絶対は存在しないという証左にはなるかもしれない。
「今日は山田さんと会うのが怖かったんです」
テーブルの上にはコーヒーが二つ並んでいた。雨は止み始めていた。私は佐藤の顔を見ていた。愚物でもなければ、才物でもなさそうな、どこにでもいる利口で真面目な青年に見えた。
「どうしてですか?」
私は敬語に戻った。私の方が十以上年上だったが、私には人に教えられる何物もなかった。
「だって、山田さんは怖いし。それに、僕にとっては憧れの人みたいな所があるから…。あなたの書いたものは僕にとって拠り所でした。…いや、過去形というのはおかしいな。すいません。今も、拠り所です。だから、連絡が来て、実際に会うのが怖かった。会うのを一週間延ばしてもらいましたよね?」
「そうだったね」
確かに佐藤は、一週間待ってくれるように言ってきた。
「怖かったんですよ。心の準備が必要でした。それで今日、電車が遅れて…怖かったです。てっきり怒鳴られると…」
「怒鳴るなんてそんな…」
私はアイスコーヒーを飲んだ。彼はホットコーヒーに手をつけていなかった。
「…でも、意外でしたね」
彼は私の顔を見た。
「何が?」
「山田さんがこんな風貌だったなんて。僕はもっと怖い人を想像していました。大きくて、怖い顔をしていて。もっと野太い声だと思っていました。全ての事にあらかじめ答えを出し切っているような。そんな気がしていた。だから、今目の前にしているのが山田さんだというのが、あの山田さんだというのが不思議です」
「まあ…文章の上での表情と、実際の私には差異があるからね。…小林秀雄って知ってる?」
「ええ、知ってます」
「小林秀雄も独断的に色々な事を言ったから、色々な批判を浴びたんだけど、本人は色々な要素があったんだと思うよ。女性的な要素だって沢山あっただろうし、みんなが思っているよりも柔軟な人だったと思う。だけど、それを切り取る断面図…つまり世間に押し出していく文筆家としての彼はね、男性的で独断的だった。それだけの事だったと思うよ。実際の小林秀雄はそんなに怖い人じゃなかったと思う。まあ…想像だけどさ」
「小林秀雄が好きなんですか?」
「好きだね」
「そうですか」
佐藤は小林秀雄にはさほど興味はないようだった。それで話が変わった。
話は自然、佐藤の人生に及んだ。彼は都内のW大学の三年生だと言った。文学部らしい。
「W大学って事は名門だね。偏差値も高いし」
私は普通の話をした。佐藤は顔を曇らせて「ええ」と言った。その時は顔を曇らせた意味がわからなかった。
「山田さんは大学を出たんですか?」
「出たよ」
私は答えた。過去を思い出した。
「どこの大学に行ったんですか?」
「N大学の芸術学部」
「いい所じゃないですか」
「いい所?」
更に過去を思い出した。私が顔を曇らせる番だった。
「……それで、佐藤さんは、どうなの? 彼女とか、友達はいるの?」
私は普通の話を振った。どうしてだろう。外で、面倒な芸術だの哲学だのの話は恥ずかしいと思ったのだろうか。それとも相手を見て話すに足りないと感じたのか。
「彼女はいます。友達もまあ…いますね」
「そうなんだ。彼女はどんな人?」
「優しくていい子です」
ごく普通の会話が繰り広げられた。私はどうしてこんな子が私の書いたものを読むのだろう?と不思議で仕方なかった。何不自由なく幸福になれそうな青年ではないか。
「山田さんの書いたもので…芸術とか文学とかいうのが、人生の外側にあると主張したものがあったじゃないですか。人生以上のものとして芸術があるっていう。あれに僕は感激したんですよ。そういうエッセイがあったなあ。僕は、文学部に入ったけれど、でも今ひとつ、文学部というものに馴染めなかったんです。研究とかやっていると、これが『文学なのかなあ』という感じがあった。それで、山田さんのエッセイを読んで、インスピレーションを得たんです」
「そうなんだ」
私は自分の書いたものを思い出していた。確かにそんな風なものはあった気がする。それは私の言いそうな事、普段から言っている事でもある。だけど具体的にどの文章か、思い出せなかった。
「そんなのあったっけ?」
「ありましたよ。間違いなく、ありました。僕はそれを最初に読んだんです。『人生だけで足りないから芸術が存在する』 そう断言していたましたよね。それに僕は感激して…」
「それは…フェルナンド・ペソアの言葉だろうね。多分、それを引用したんだ」
「そうかもしれませんけど、でも、僕はそれを山田さんの意見として読んだんです。あれは山田さんの意見でしょう?」
「……まあね」
「そうでしょう。そうでしょう」
佐藤は嬉しそうに二度頷いた。私は彼の顔をじっと見ていた。私はこの青年が、私に何を見出そうとしているのか、計ろうとしていた。
「さっき、山田さんがうちの大学を褒めたじゃないですか?」
雑談をして、多少打ち解けた後、佐藤はそう言った。彼がW大だったのを思い出した。
「うん」
「僕、それを聞いて残念に思ったんですよ。山田さんみたいな、高尚な人に、そんな俗な考え方をして欲しくないって…。つまりですね、偏差値がどうとか、くだらないじゃないですか。そんな馬鹿みたいな事、山田さんは絶対言わないと思っていた」
「私だって日常生活を生きているから、その…」
「いや、山田さんはそんな事は言わない人ですよ。言わない。きっと、そうですよ。うん」
佐藤は一人で頷いた。私は青年の顔を見ていた。
「…でも、私だって、日常生活を生きているから、そういう次元で考えざるを得ない場合だってあるんだよ。私だって、魂だけで生きているわけじゃない。精神だけじゃ生きられないからね。ある程度は世俗に馴染めないと、生きていけないよ」
「生きていけなくてもいいじゃないですか?」
「君は私のような事を言うね?」
私はグラスの底に残っていた氷の小さな塊を口に放り込んだ。彼は相変わらず、コーヒーに手をつけていなかった。
「私だって、私の読者に…私の読者って十人くらいしかいないけど、みんなに、自棄を勧めているわけじゃないんだよ。それは私一人だけで十分だと思っている…。それも欺瞞かもしれないけどね。ハハ。でも君は若くて、W大学で、彼女がいて、友達がいて、幸せになれる条件を持っている。君はね、今はわからないかもしれないけど、すぐに私なんか忘れてしまうよ。忘れる。でも、それでいいんだ。正しい事なんだ。それで…今この時は、一時の気の迷いだったと思うようになるよ。そうなった方がいいんだ。そうなる事を、私も望んでいる」
「そんな話。山田さんの本心とは思えないですね。そんな…ポップソングみたいな、『あなたに幸福になって欲しい』って。それこそ、欺瞞ですよ。嘘ですよ」
「…そうかもね」
「それにですね、山田さんは僕の大学とか、友達とか、彼女とかについて話したけれど、そんなのは普段の山田さんが一番馬鹿にしているものじゃないですか? そんなものでは本当の幸せになれない。…いや、幸せなんかよりも遥かに価値のあるものがこの世にはある。人々がそれを目指さなくても『我々』はそれを目指すべきだってアジテーションしてたじゃないんですか? あれはどうなったんです? それが山田さんの思想だったじゃないですか? 世の中の…くだらない連中は放っておいて、先に行けという…。そのメッセージを僕は聞いたのに。確かに聞いた…。僕は…山田さんの言っている事が信じられませんね。それはある意味で、山田さん以上に、山田さんが書いた物を信じているという事かもしれません」
私は黙り込んだ。全て、佐藤の言う通りだった。彼の言う事は全く正しかった。しかし…
「山田さん、幸福の条件なんてどうだっていいじゃないですか? 山田さん。僕はあなたに死ねって言われたら、死ぬつもりですよ。でもそれはあなたに全面的に服従するって事じゃありません。あくまでもあなたの思想に敬服しているという事です。山田さんがよく引用しているのがあるじゃないですか。なんでしたっけ? 朝、本当の事を聞いたら夕方…」
「『朝に道を聞かば夕べに死ぬとも可なり』」
「そう。それです。その精神ですよ。僕はそれを信じているんです。山田さんはそういう求道者だと思っていました。だから山田さんに言って欲しくないんですよ」
「何を?」
「幸福の条件について。偏差値だの、有名大学だの、彼女だの、友達だの。そんなものはどうだっていい。そうじゃないですか? それよりももっと凄いものがある。偉大なものがある。その事をあなたは教えてくれたんですよね? …だから、山田さんにはそういう事について言って欲しくないんです」
私は黙り込んだ。私は自分の論で、論破されたような気がした。しかし同時に、私が彼に取った態度に間違いがあるとも思えなかった。
私達は店を出た。二人共、最初に顔を合わせた時より遥かに楽な気になっていた。私達は駅までゆっくりと歩いた。佐藤は軽口を叩いた。
「それしても、ほんとに思わなかったんです。山田さんがこんな人だなんて…。僕はもっと怖い人を想像していた。怖い人を。最初、あなたを見た時、てっきり別人だと思った。そんなはずはないって。こんな普通の人のはずないって。こんなわけないって思った」
佐藤は酔っているかのようだった。アルコールは口にしていないはずだが。
「そう。私は読者に君のような人がいるとは思わなかった…。だけど、私は止り木のようなものなんだ。たまに鳥が来て止まっていく。飛び立つ鳥は、自分がどこに止まっていたかなんて覚えていない。…でも、それでいいんだよ」
「また、その話ですか? いいんですよ、そんな謙遜しなくても。『隠れているものはいずれ明るみに出る』 そう書いてたでしょう? 山田さんだって、いずれ明るみに出ますよ。そうなりますよ」
「君はそう言うけど…」
私達は角を曲がった。佐藤は愉快そうだった。奇妙なまでに愉快そうだった。
「それで、山田さんはこの後、どうしようと思っているんですか?」
彼がそう聞いた時、てっきりこの後どこに行くか聞いているのだと思った。
「いや、普通に帰るけど」
「そうじゃなくて、これから先の展開です。どうするつもりですか? 小説ですか? 哲学ですか? 批評ですか? どういう方向に進むつもりですか? ファンだから、気になるんですよ。何になりたいのか。この先、山田さんがどうするのか。……そうだ、ドストエフスキーみたいな大小説書いてくださいよ。是非、やって欲しいな。山田さんならできるでしょ!?」
「無茶な事言うなよ。才能が違うよ。無理だよ…」
「いや、できますよ。山田さんなら、できます。やれるはずですけどね。僕は期待しているけどなあ…」
「無理だよ。色々な事が積み重ねって、難しいよ。難しいのは私だけじゃない。みんな難しいんだ。難しい時代なんだよ」
「難しい時代なのはわかってます。でも…そうじゃないじゃないですか?」
「何が?」
「いや、だからそうじゃないって言う…そういうものが、あなたの中にはあるでしょう?」
佐藤は私の目を見てきた。私は目を反らした。
「君は勘違いしているよ。私は君が思うようなものじゃないさ。…君は若いんだから、私なんかさっさと越えていけばいいんだよ。越えていくのは簡単だしね…。そうだろう? 君は若いんだから。可能性の塊だよ。私なんか、もう駄目だよ。私ももう若くない。展開なんてないよ。ただニヒリストとして死んでいくんだ…」
「それは本心ですか?」
「ある程度はね。ふと、後ろに虚無を感じる事がある。世界はグルグル回っているけど、ついていけないんだ。どこか暗い所で首を括っている…そういうイメージが浮かぶ事もあるよ。凄惨な事件も、もう他人事ではなくなってるのさ」
佐藤はフッと暗い顔をした。それは、私が見ているイメージは、彼の方がより明瞭に見ている、とでもいった風だった。
「それは寂しいですね」
佐藤はしんみりした調子で言った。
「あの山田さんがそんな事を言うなんて、寂しいですね」
彼は寂しそうに言った。私は彼の暗さが気になった。私自身よりも、彼の方を心配に感じた。
私達は駅で別れた。佐藤は酔ったような、明るい調子だった。その姿が、今も忘れられない。
「じゃあ、僕こっちなんで」
彼は私とは違う路線を示した。私は立ち止まって、手を振った。駅構内の人々は、みんな忙しそうにどこかへ向かっていた。
「じゃあね。また」
「…山田さん、ドストエフスキーみたいな小説書いてくださいよ。大小説を書いてください。今の日本に足りないのは思想です。文化です。文化だけがぽっかりと欠落している。文明は十分だ。文明はもう腹一杯だ。だけど、文化が、一匙の文化が必要なんですよ。この国には。この社会には。山田さんならそれができます。期待してますよ!」
私は苦笑した。
「…うん。まあ、頑張るよ」
「ほんとに頑張ってくださいよ! 僕も頑張りますから!」
佐藤はひらりと振り返って、階段を降りていった。私は彼を見送ってから、自分の乗るホームに向かった。
後から考えてみると、彼の「頑張る」の内容を聞いといた方が良かったかな、と思った。もっとも聞いた所で、何かが変わったわけでもなかったのだろうが。
※
私が佐藤と会ったのはその一度きりだった。その時には、まだ何回かは顔を合わせるだろうという予感があったのだが、そうはならなかった。
佐藤とはその後、何度かインターネット上でやり取りをした。一度会った為に、以前よりも親密さが増していた。彼は今どの本を読んでいるとか、山田さんはどういう哲学者がお勧めですか?と聞いてきたりした。それから、新しく何かを始めたような事を言っていたが、それが何か、私は尋ねなかった。
私の方はと言えば、柄にもなく、仕事の方が忙しくなっていた。私は世界に対して、異端者として存在しているが、それでも日々生きていかねばならない。その為の労働というのを持っていたが、上司から労働時間を増すように要請された。アクシデントだと言う。それで私は日々を労働に溶かす事になった。私の肉体や精神は、私が呪っている世界の有様の構築に一役買う事になった。
その内に、佐藤との連絡も途絶えた。彼とインターネット上でやり取りする機会は減っていき、とうとうゼロになった。と言っても、私はそれほど気にしていなかった。彼のアカウントそのものは残っていたし、縁が切れたとも思っていなかった。またその内に会うだろうと思っていた。
彼と会って、四ヶ月が経った。私は疲労していた。仕事に忙殺され、哲学だの芸術だのは置き去りになっていた。生活の要請が理想に勝っていた。難しい本を時々めくってみたが、そこには過去の亡霊が、あるいは自分には絶対にやってこない未来の栄光があるばかりで、置き去りにされたような気持ちだった。私は、本を閉じた。
そんなさなかだった。一本の電話がかかってきた。それは全く唐突だった。
電話番号は知らないものだった。私は電話を取れる状況にいた。スマートフォンを見て一瞬悩んだが、電話に出た。
「…山田さんの携帯でしょうか?」
中年の女性の声がした。(誰だろう?)と思った。
「はい。そうです」
「ああ、そうですか。私、佐藤の母親です。山田さんが覚えていらっしゃるかわかりませんが、佐藤の母親です。あの、以前にお会いしたと息子からは聞いております…」
私は佐藤を思い出した。同時に、母から電話がかかってくるとは、何か普通ではない事が起こったのだと思った。
「ええ。覚えています。佐藤君ですよね。大学生の…W大学の…」
「そうです。そうです。息子はW大学でした。この度は山田さんの貴重な時間を奪って申し訳ないと思っています。私も電話を掛けるかどうか迷ったのですが、主人とも相談しまして、それが一番いいと思ったんでございます。私は手紙の方がいいかと思ったのですが、主人はそれに反対でして…」
「それで、佐藤君がどうかなさったんですか?」
「いえ。それが息子が…その…息子は…山田さんを敬愛しておりまして、生前にも山田さんの話を何度もしておりました。『あの人は立派になる方だ。これから世に出る人だ』 そうよく言っていました。お会いした時の印象も話していました。今、こうして電話しているのはその縁でございまして…忙しい山田さんを煩わせるのは気が引けたのですが、息子のたっての希望ですから…申し訳ないとは思っておりますが…」
「ちょっと待ってください。今『生前』と言いましたよね。『生前』というのはどういう事です?」
「息子は先月亡くなりました」
私は絶句した。電話の向こうではまだ老婆が話していた。
「今回はその件をお伝えしようと思いまして。…これは世間には秘密にしていただきたいのですが、息子は自殺しました。部屋で首を吊っていて、大家さんが見つけくれたんです。大家さんはもう七十近い方なんですが、大変親切にしてくれきまして…。葬儀も済ませたのですが、世間的には、急病で亡くなったという事にしております。だから、申し訳ありませんが、山田さんにはくれぐれも自殺の件は内密にしていただきたいのです。もちろん、山田さんには山田さんの事情がおありでしょう。ですが、こちらも切羽詰っておりまして、もうどうすればいいかわからずオロオロしているばかりで…」
「わかりました。秘密にします。…それより、どうして佐藤君は自殺なんかしたんですか? 何か遺書でもあったんですか? 私に電話を掛けたのはどういう理由ですか?」
「いえ、それが息子は遺書を残しておりません。どうしてそんな事をしたのか、私達も全然わからなくて、私達も急の事に驚いて、打ちのめされているばかりでして…。主人も塞ぎ込むようになって、私も、片耳が聞こえなくなって病院に参りました。先生が言うにはなんでも『突発性難聴』というもので、精神的なものが原因だそうで…」
「遺書はない。だとすると、自殺の原因はわからないのですか?」
「ええ。わかりません。ただ、息子は山田さん宛に原稿を残していきました」
「原稿?」
「ええ。私にはよくわかりませんが、山田さんに渡して欲しいとメモが貼ってありました。この度電話したのは原稿があったからです」
「その原稿は読みました?」
「…ええ。ですが、私達にはよくわかりませんでした。何が何やら。どうやら小説のようですが…」
私は原稿の話を詳しく聞いた。佐藤の母によると、それは三十枚ほどの短編小説だそうだ。佐藤はアパートの一室で首を吊って死んでいた。残されたのはその短編小説のみで、遺書はない。小説は綺麗に綴じられ、清書されたものらしい。最初にメモがついていて、私に渡して欲しいと書いてある。私は電話越しに、その文面を読み上げもらうようお願いした。
「この原稿は山田さんへ渡してください。お願いします。
山田さんへ:この小説は拙いものですが、生きた証として山田さんに取っておいてもらいたいです。無理なお願いを言ってすいません。僕なりに、この作品は努力の結晶です。駄作なのはわかっていますが、山田さんに持っておいて欲しいのです。申し訳ありません」
私は小説の内容も尋ねた。佐藤の母は要領を得ない返答だったが、どうやら少年時の思い出らしい。それ以上はわからなかった。
「山田さんに原稿を郵送したいと思うのですが、どうしましょう?」
そう尋ねられて、私は少し考えて「いえ、お宅に直接伺います。大切な事ですから」と答えた。佐藤の母はくどくどとお礼を言い(何の礼かわからなかったが)、住所を教えた。私は大切な原稿を渡すのに抵抗はないのかと言うと「それはもうわかっている方が持っている方ががいいですから…」との事だった。私は原稿を預かるのを了承したが、その前にコピーを取って保管をしておくのを勧めておいた。
「もしかしたら、その内容が何かの意味を持つ日も来るかもしれませんから…」
「それはもうそうですね。おっしゃるとおりです」
意味が通ったかわからなかったが、とにかくコピーは取るらしい。私は相談して、訪問の日付を決めた。佐藤の実家は存外に近かった。
※
夜、私は色々な事を考えた。ベッドに寝転がりながら色々考えた。
私がつい考えてしまったのは「私の思想が彼を殺したのではないか?」という事だった。私の思想の内に、自殺をほのめかすものはなかった。自殺推奨というものではなかった。しかし、現世において俗を否定して、霊性を志向する傾向があった。彼がその思考に導かれて、肉体を否定する為に自死したならば……。
もちろん、そんな考えは夜が生む誇大妄想に過ぎなかった。私は考えすぎていた。ただ、私の思想だの、書いたものが、彼の自殺に影響がなかったとは言い切れない。しかし、仮に影響があったとしても、そこで自己反省するのは間違っていると私は考えていた。何故そう考えていたかは長い話になるだろうから語り切れないが…人は結局は自分の人生を自分で決定しなければいけないという事だ。ホラー映画を見て、その通りに人を殺す狂人はいるかもしれない。だがほとんどの人間はそんな事はしない。何故か。作品の内容を自分で咀嚼するからだ。咀嚼なしにそのまま吐き出す自動人形に、思想も糞もない。
ふと佐藤の眼差しが思い出された。会話の一つ一つが思い出された。あの時、自殺の可能性を語ったのは彼ではなく、私の方だった。それが彼の口からではなく、私の口から漏れたというのは、一種の運命の重みとして私に感じられた。(やはり私が殺したのか?) 夜は重く、私を押し潰すようだった。そうして、愚かな私はそうした夜の中に、佐藤もまたいた事についぞ気づかなかった。
朝がやって来て、心底ほっとした。私はげっそりとしていた。それでも仕事に行く為に起き上がって、顔を洗った。鏡を見て、自殺すべきは私だったのではないかと真面目に考えてみた。
※
私は佐藤の実家で、原稿を受け取った。その時の事は簡潔に話そう。
佐藤の実家は小ぶりの一軒家だった。二十年前であれば「普通の家」と形容されたかもしれないが、経済が悪化した今においては「お金のある家」という感じだった。日本式の一軒家だった。
応対したのは電話で話した母だった。見た目は声ほどに年取っていなかった。年は五十だという。ごたごたとした儀礼の言葉の中、居間に通された。床の間があって、一幅絵が掛けてある。今時こんな家があるかと私は驚いた。
お茶が出され、「わざわざご足労を掛けまして」云々という言葉。相手の気の済むまで言わせておいた。やがて挨拶も尽きて、母親は奥に引っ込んで、原稿を持ってきた。原稿はクリアファイルに入っていた。
「これです」
そう言って、原稿を渡された。
「失礼します」
私はファイルから原稿を取り出した。
確かに一枚目には、私に当てた文章が入っていた。「山田さんへ…」云々。自筆だった。原稿をめくって中を見てみた。
母親が緊張した面持ちでこちらを見ているのを感じていた。私は母親の態度から、私を誤解しているのが見て取れた。母親は私をどこぞの偉い文学先生と誤解しているらしかった。(あれだけ賢い息子が師事しているのだから、それは大層な先生に違いない) そんな雰囲気を感じた。誤解を解くのが面倒だったし、解けるとも思っていなかったので、それには触れなかった。
私は原稿を読んだ。黙ってじっと読んでいった。タイトルは「草むらの基地」となっていた。彼にとってはおそらく大切な思い出だったに違いない、少年時の秘密基地設営の話が書かれていた。親友と一緒に、裏山に秘密基地を作ったエピソード。それが淡々と書かれていた。結論のようなものはなかった。彼にとっての大切な思いを吐き出したいという願望で書かれているようだった。
文章は何度も推敲したのが見て取れた。一字一句こだわっているのが感じられた。日本の、土俗的なものを描くのが得意だったある作家の影響が感じられた。彼にとっては渾身の作品だったろう、と私は考えた。だが、それだけだった。彼自身書いていたようにそれは「駄作」だった。彼にとって大切なものをそのままアウトプットする事は、それがその通りに他人に大切と感じられるわけではない。多くの作家志望はそこで間違いを犯す。自分にとっては大切に書き上げたから、他人も同様に考えてくれるだろうと思ってしまうのだ。
原稿を読むと私は顔を上げた。母親は私を見た。「どうですか?」と聞いた。私は母親は何を聞きたがっているのだろうか、と考えつつ口を開いた。
「そうですね。…佐藤君は、これを私に託して…どうしようと思ったんでしょうか?」
「どうしよう…というのは?」
「いえ、その、これをどこかの出版社に送ってくれとか、そういう事があったのかなと。そういう事はありましたか? 私はどの出版社とも何の関係もないんですが…」
「そういう話は伺っていません。ただ山田さんに渡してくれと。メモに書いてある以上の事は私達にはわからないのです」
「そうですか」
私はもう一度、原稿を見た。さて、これをどうして扱ったものか。素人が書いた駄作原稿(もうそう決めつけていた)。冷静に見ればただの反故だ。だが、佐藤にとっては、大切なものに違いない。
私は一瞬、佐藤を思い出した。利発な青年だった。賢い人間だった。しかし作品はその賢さを少しも反映していない。…芸術とか芸においては、こうした事は往々にしてある。むしろ、常態だと言っていいかもしれない。
「わかりました。この原稿は大切に私の元で保管しておきます」
「…ありがとうございます」
母親は深々と頭を下げた。私は彼女が、佐藤が原稿を私に預けた意味がわかっているとは思えなかった。ただ、そこでは何か儀礼的かつ重要な事が行われているという漠とした意識が彼女にあったのだろう。母親の深々とした礼を私はそのようなものとして受け取った。
私は原稿を受け取り、鞄に入れた。母親はもう一度、「ありがとうございます」と言った。私はその顔を見て、ふと、彼に友人が、恋人がいたのを思い出した。
「そういえば佐藤君には、友達がいたそうですね。それから、恋人もいたと聞きました」
「ええ、そうです」
「友人や恋人はどんな反応をしていたのでしょうか? よろしければ、お教えいただけるとありがたいのですが。…あ、今、思いついたのですが、友人や恋人に聞けば、佐藤君がああした決断をした理由がわかるのではないですか?」
「彼らには死因は病死と言っております。だからこの件は内密に…」
「ああ、そうでしたね」
私は差し出されたお茶を口に含んだ。そこでふと疑問が生まれた。
「…そうは言っても、それとなく聞き出せるのではないでしょうか? 亡くなる前、彼はどんな風だったのか、尋ねてみるとか?」
「…いえ、佐知子ちゃん…早人の恋人は佐知子ちゃんというんですけど、佐知子ちゃんは、ただただ驚くばっかりで。病気だなんて、一言も自分には言わなかった、早人君は、いつもと同じで元気だったと驚くばかりで…。本当にびっくりしていました」
私は佐藤について再び思い出した。彼は内側に秘めたものを誰にも、恋人にも伝えなかったのだろうか?
「そうですか。では、佐藤君は、本当にただ一人で決行したのですね」
「私共には何もわかりません。息子が何を考えていたか。親は何も知らなかった。ただそれを痛感するばかりで。もうこうなってしまっては、遅いのですけれど。何か悩みがあれば相談でもしてくれれば…。子が親より先に逝く事ほど悲しい事はございません…」
そう言って母親は涙ぐんだ。私は違う事を考えていた。
私は、私が話した佐藤と、家族や恋人と接していた佐藤との違いを考えてみた。彼の言葉が思い出された。「高尚なもの」について彼は語っていた…。彼が死を決意するにあたって、家族や恋人は足枷にはならなかったろう。むしろ、その逆もあり得たかもしれない。
だが、私は面倒な問題を伏せた。ただ同情の表情を作っていた。
「私達は本当に悲しんでおります…」
母親がそう言った時、私の目の前、ふと真面目な表情の佐藤の顔が浮かんだ。それはあるいは、私自身の表情かもしれなかった。鏡に映った私ーー彼ーーの顔。
「本当に悲しんでいますか?」
私は言った。母親は顔を上げ、(?)という表情を見せた。私は失言を恥じた。
「いえ、申し訳ありません。なんでもありません。ただの間違いです。でも人は…いや、いいです。私も、彼が亡くなった事が残念でなりません。彼は前途有望な若者でした。彼は立派な若者でした。そうでしょう? 彼は私の書いたものを読み…いや、私の書いたものなんてどうだっていい。彼は前途有望な若者だった。名門大学に所属する、未来のある若者だった。そう、前途有望だった。前途有望……」
私は放心したように意味不明の言葉を発した。母親は、私の顔を呆然と見ていた。私はもうそれ以上、何も言いたくなかった。
ある魂が閉塞感の故に自死に走ったとして、その原因はどこにあるか? 彼が存在しているのが井戸の底であると教えた誰かのせいなのか? それとも、現実に存在する井戸の底のせいなのか?
私は、これから先、私自身を責めさいなむだろうという予感を得た。私はぞっとした。目の前の老婆などすっかり忘れたようになった。私は立ち上がった。
「今日は申し訳ありませんでした。もう帰らせていただきます。原稿はいただいていきます」
「いえ、こちらこそ、わざわざ来ていただき、本当にありがとうございました。息子も喜んでいる事でしょう」
私はチラリと奥の座敷に目をやった。佐藤早人の仏壇がそこにあった。彼は遺影の中で笑っていた。あるいは彼は、遺影の中でしか笑えない人物だったのかもしれない。
※
一人の人間が死んでも、世界は止まらずに運動していく。地球は回る。自転も公転も止む事はない。
世界は回る。しかし、人間は死んだり生きたりする。一人の人間が死んだ事を人々はあっさり忘れる。「民草」という言葉がこの国にはあった。人は植物のようなものとして捉えられる。自然。それが我々が生み出した答えだ。死は誕生によって償われる。永続する共同体。その一員として生きる事は心地よいだろう。
…私はうんざりした気持ちで、佐藤の実家を後にした。自責の念に駆られて、帰路を辿った。にも関わらず、卑怯にも、自殺する勇気はなかった。
電車に乗って外を見た時、その光景が何か異質な、奇妙なものに見えた。川が見えた。川沿いにゴルフコースが見えた。誰かがゴルフをしていた。一人でゴルフをしていた。彼は何をしているんだろう?…何故あんな所にいるんだろう?…私には何もわからなかった。
私は何も反省していなかったに違いない。観念とか思念はどうでもいい。行動が全てだ。私はおめおめと生き残った。若くして死んだのは、私の弟子ーーでもないが「ファン」だった。
手に残されたのは、拙い短編小説だけだった。清書された綺麗な原稿。中身のない美辞麗句。その中に、彼は魂を込めておくのを忘れた。…仕方あるまい。
部屋でしばらく原稿を眺め、私はあるアイデアを閃いた。私は原稿のはじめ、小説の冒頭一ページだけを額縁に入れて飾っておく事にした。そうする事によって、彼の魂は鎮魂されるだろう…いや、そんな事はないだろうが、少なくとも、私自身の「気晴らし」にはなる。
私はちょうどよい額縁を買って、原稿用紙をそこに収めて、壁に飾った。壁に飾ると、なんだか文豪の書いたものに見えた。私は満足そうに鼻を鳴らした。
…私の部屋にも稀に来客がやってくる。ごく稀だが。私はやってきた人に額縁の中の原稿を指差して、必ず次のように言った。
「あれはある文豪が書いたものなんだよ。とても有名な文豪なんだ。とても値段が貼ったんだよ。オークションで買ったんだけど」
客は「へえー」「凄いんですね」とお愛想で言うが、それ以上の興味は示さない。…いや一人、「近くで見たいんですけど」と言った客がいた。額を取って彼に見せてやると、彼は数秒見つめて「なるほど」と小さく言って、私に返した。私はわざと厳粛な顔を作って、額を元の場所に戻した。
客の一人として、「文豪」とは一体誰かと聞いた者はいなかった。「佐藤早人」という名前も見えていたが。「どんな作家だったんですか?」と聞いた者は一人もいない。ただ、値段を聞いたのは二人いた。
客が去ると、私は一人になる。一人でじっとその原稿を見つめる事がある。彼が何故死んだのか…? それはわかっているようでもあり、わかっていないようでもある。ただ私に言わせれば、今の世で自殺を少しも考えない人間は馬鹿に決まっている。
そんな乱暴な考え方は良くないだろう。しかしそんな事はどうだっていい。「今」の連続、ただ上書きされている世界の裏側で誰かがひっそりと死んでいっても、誰も気に留めはしない。人々は同情するだろう。死をイベントとして取り上げ、みんなで悲しんでいる演技をしたりするかもしれない。しかし、それだけなのだ。永遠の輪廻、持続する共同体と同化していると信じられている人間には、そこから剥離した個人はもはや人間ではない。剥がれ落ちたのは人間ではなく、何か違う存在なのだ。
誰かが溝に落ちる。泥塗れになる。「かわいそう」と人は言う。「誰か助けてやればいいのに」と言う。しかし誰も手を差し伸べたりしない。自分が溝に落ちるのを恐れて、そっと立ち去る。それだけだ。
だが、そう言っている私は彼に何をしてやれたか! 私こそが最悪の偽善者ではないか! …私はそう自分に憤ってみる。しかし、それもまた自己弁護の滑稽な芝居に過ぎない。その事も私はよく知っている。
深夜、薄い明かりの中で、若くして死んだ青年が残していった原稿をぼんやりと眺めてみる。すると、本当にそれが文豪が最後に残した傑作に見えてくる。「やがて彼も聖者の一人に列せられるに違いない…」 突拍子もない考えが浮かんでくる。だが次の瞬間、それは滑稽な妄想だと誰かが教える。私は口を噤む。
私は駄作の原稿を見つめながら、次に世界から消え去るのが自分であるのを痛感する。この悲しみもすぐに肉体から去るだろう。私自身も世界から去るだろう。私はそれを強く感じる。人々は、優しい微笑を浮かべるだろう。多少の挨拶は送ってくれるかもしれない。が、それだけだ。人々は生の中にいる。私は、いや、私達は死の中にいる。
「生きていけなくてもいいじゃないですか?」
彼の言葉が思い出された。それは本来、私が吐き出すべき言葉だったのだ。今になるとそう思える。私は原稿から目を離し、ベッドにドサリと倒れ込む。私は自分自身の死を感じている。消滅を感じている。「今」の連続、持続していく世界の裏側で、消え去るものは可視化されたりしない…。そんな言葉が頭に宿る。脳内の言葉もいずれ止むだろう。
彼ら…佐藤の母や友人や恋人らは、悲しみを胸に秘めて生きられるだろうか? …私は人々を信用していない。彼らは死を忘れ、前向きに生きるのではないだろうか? 前を向いて、夢を持って、前進していくのではないか? …そんな事がありうるか?
私は暗闇の中に光を見出していた。私は人々とは逆に、後ろ向きに生きていた。その方向には真っ暗なトンネルがあって、その先には光があった。出生の光景はこんなものだろう、と私は思う。闇をくぐり抜けた先にある光は『死』という名が付いている。私は死に向かって、前進していた。その先導役を務めるのは、まだ若い、平凡な名前の青年だ。
「山田さん、気をつけてください。ここは段差がありますから」
彼は振り返ってそう言ってくれる。私は「わかった」と言う。私達は先へ進んでいく。トンネルの先の光に先に到達したのは、彼の方だった。彼は光の彼方に消え去った。私も近い内に、そこへ到達するだろう。