〈4〉過去
リオの生い立ちと生活は、彼にとって決して幸福なものでは無かった。
どこにでもあるような話だ。
リオは、とある貴族の私生児だった。彼は物心がつく頃までは、平民の母親と共に、市井で隠されて育った。
そしてある日、リオと母親は、貴族である父親のもとへと引きとられた。裕福な暮らしになるかと思えば、全く逆で、リオは毎日酷い折檻を受けるようになった。
腹違いの兄弟たちには虐められた。特に、愛人とその子供を疎んだ本妻には、恨みをぶつけるように虐待された。
張本人の父親といえば、愛人である母への関心はあったが、息子のリオには興味が無かった。むしろ邪魔とさえ思っていた。彼は母だけを側に置きたがり、彼女だけを守った。
幼いリオを守ってくれる人はいなかった。
同じ家に住んではいても、母親は引き離されていて、顔を合わせる事も出来ない。そのため、余計に、リオだけが本妻や兄弟たちの鬱憤の的となった。
辛うじて、リオにも住む部屋が与えられていたのは、母が寵愛されていたからだ。元居た貧しい家から去る時に、リオの母親が、あの子を一人置いていけない、と父にすがったから。まさか、母の知らない所で、リオが虐待されるとは夢にも思わずに。
良い意味でも、悪い意味でも、純粋で無邪気な母親だった。少し想像すれば分かる事を、そこまで考えが及ばない人だった。
悪人では無い。だが、人の心に寄り添える人では無い。
リオを地獄へ連れてきたくせに、一人だけ安全な所に居て、息子の危機に気付きもしない母親なのだ。
リオは母親を恨んではいない。腹立たしく思うほど能天気な彼女を、それでも、リオは愛していた。
生まれた時から笑いかけてくれた、たった一人の家族だった。
だけど、それだけだ。リオがいくら愛したところで、彼の待遇が良くなる事は無かった。
だから、母親が病死してしまった後のリオの処遇など、考えるまでも無かった。
リオは家を追い出されてしまった。
それも、幼いリオにとって、あまりに残酷過ぎる方法で。
母親が死んだ時、父親はリオにこう告げた。「お前はこれからも家族だ」と。
純粋なリオは、やっと家族の一員として認められたのだと思った。
父にとって、愛人が亡くなった事で、何か心境の変化でもあったのだと。もしかしたら、母が今際の際に、何か言い残してくれたのかもしれない、と。
母が繋いでくれた縁だ、ここで生きていくのだと、リオは、父親の「家族」という言葉に、涙ぐみながら頷いたのだ。
その日は幸せな気分だった。
普段はリオだけ置いていかれる貴族の集まりに、一緒に連れて行ってもらえる事になった。家族と同じ馬車にのる事も許してもらえた。
いつも罵倒と暴力を浴びせてくる兄弟たちが、穏やかに話しかけてくれる。本妻は、リオのために服を用意してくれた。少し大きさが合わなかったけれど、今までで一番上等な服だった。
優しくなった本妻や兄弟、家族と言ってくれた父親と一緒に、これからどんな素晴らしい日々になるだろうと、胸を踊らせた。
目的の場所への到着が告げられて、楽しい時間は終わった。
馬車の扉が開いたかと思うと、大きな手で背中をどん、と押されて、リオの体は地面に投げ出された。
手にいくつか切り傷を作って呆然としている彼を、見知らぬ男達が両脇から捕まえる。まるで待ち構えていたみたいに、迅速な動きで、リオを物のように運ぼうとしていた。
子供が拉致されそうな状況だというのに、周りからは何の声も上がらない。本妻たちは、馬車から降りる事すらしなかった。
さっきまで、あんなに和やかに会話していた家族が、馬車の中から他人事のように、リオを見ている。
彼はあまりの恐怖に、訳も分からず、助けて、と叫んだ。
声は確かに出したはずだった。
本当に、つい先ほどまで、家族は笑顔でいてくれたのに。今は道端の石を見るような目を向けてくる。そこには何の感情も感じられない。
馬車の扉が閉まっていく。
リオを置き去りにして。
扉が閉まっていくのに合わせるように、家族はリオから視線を外していった。馬車の中の面々で向き合うにつれて、家族の顔に表情が戻っていく。
これで、やっと元通りね。そう言う本妻の声が聞こえた。その言葉に兄弟たちも笑っていた。
馬車が走り去っていく。
リオは今さらになって、父親によって、馬車から突き落とされたという事実を認識した。
このためだけに、今日ここへ連れてこられたのだという事も。
置いていかれた。
捨てられたのだ。
野良猫のように爪をたて警戒するリオを、父親の「家族」という言葉で油断させて。嘘では無いと、本妻と兄弟の優しい態度で信じ込ませて。
嘆く暇も無く、無情にもリオの体は運ばれていった。