〈3〉過去
母は、「あとはそこのが知っているから、適当にやってちょうだい」と言って、手で追い払う仕草を見せた。どうやら彼女には、説明する気が無いらしい。
事情は少年本人から聞くしか無さそうだ。
「あなた、名前は」
イオレッタは重い口を開いた。
少年は転んだまま暫し呆然としていたが、生気の無い顔を恐々と動かし、イオレッタを見上げた。
イオレッタは、少年に駆け寄って助け起こしたいという衝動を、何とか抑える。母の前では、少しの親切も見せてはならない。
「……リオ」
そう名乗った少年は、貧弱な体に鞭打つように、よろよろと立ち上がって、小さく頭を下げた。
「口の聞き方を知らないようね!」
たった八つの子供に丸投げしていた母が、リオの言葉に横から口を出す。
リオは目に見えて怯えた。
大きく肩を揺らし、ぶるぶると震えたまま、急にハキハキと大きな声で、少しつかえながら喋り出す。
「り、リオです。き、今日より、イオレッタお嬢様の、騎士を、務めさせて頂きます。み、身のまわりの、護衛や、お世話など、何でも、仰せ付けください」
リオは床に頭が付くくらいに、深く深く腰を曲げ、そのままイオレッタの言葉を待っていた。
イオレッタは、リオの様子に既視感を覚えた。
母の命令に怯える少年はまるで、イオレッタ自身を、客観的に見ているかのようだった。
こんなに頼りなく、今にも折れてしまいそうな子供に、急に騎士になれ、などと……何か、無茶な事情があったに違いないのだ。あの、イオレッタの母の事だから。
八歳の彼に、十六歳の娘の騎士が務まるはずも無い。おそらくこの分では、教育係も用意してはいないだろう。
リオが哀れだった。イオレッタは、自分の分身のようなリオを、何とか守ってやりたいと思った。
「お母様、リオを連れて部屋に戻ります」
「ええそうして。その身窄らしいのを私の視界に入れないでちょうだい。それと言葉が酷いわ。せめて人前ではちゃんと話せるように躾なさい」
リオを人前に出す予定があるらしい。
それ以前に、やはりこれから教育をするつもりらしい事、それも仕える本人任せだという事に、イオレッタは頭が痛くなるようだった。
さっさと行けと顎で示す母を横目に、イオレッタはなるべく平坦な声で「リオ、一緒に来なさい」と少年を導いた。
「ここが私の部屋よ」
自室にリオを招き入れ、扉を閉める。
その音にさえ、彼はまた体を強張らせた。ただでさえ不健康そうな顔を、より一層青くしている。
過剰な怯え方を見て、子供と接した事など無いイオレッタは少し緊張した。しゃがんで、リオと向き合って、視線を合わせる。そして、もう一度彼の名前を呼んだ。
「リオ」
「はい、イオレッタお嬢様」
返事を求められたと思ったのか、リオはまた、『ハキハキ』と喋った。叱責を恐れているのだという事は、先ほどの様子からイオレッタも理解していた。
「さっきはごめんなさい。怖かったでしょう」
イオレッタの労りと謝罪に、リオは目を張った。
彼が驚いて言葉を探しているうちに、話を続ける。
「この部屋で、私と二人きりの時は、絶対にあなたを叱ったりしないわ。ここにはお母様も来ないから、怒鳴られる事も無い。どうか安心して」
戸惑うばかりのリオに、幾年ぶりかの、ぎこちない微笑みを向ける。
「まずはお茶と甘いお菓子でもどうかしら」
イオレッタが自らティーポットを手に取り、お茶の用意を始めると、リオは慌てて代わろうとした。
だがイオレッタが、「いいのよ」と言うと、リオはすんなり手を引っ込めた。
彼は言われるがままに柔らかいソファに座り、部屋の主から歓待を受けた。
リオは警戒を解かなかったが、主人であるイオレッタの言うことには従ったので、彼から事の経緯を聞き出す事が出来た。
「イオレッタ様のお母様に、初めてお会いした時は……何て優しい、素晴らしい方だろうと思いました」
リオの言葉遣いは、母が言うほど酷くは無かった。ある程度の教養を感じさせる語り口は、彼が以前それなりに良い身分に身を置いていたのではないかと感じさせる。
「絶望の淵にいた僕に、うちで面倒を見てあげるから来なさい、と言って下さって……救われるような気持ちになったんです」
そう始まったリオの話は、少しの衝撃と得心、そして憤りを、イオレッタに与えた。
イオレッタは、母の事をよく知らない。
癇癪持ちで、常に甲高い声を上げている母。彼女と中身のあるまともな会話などした記憶がない。
そんな母が、屋敷の外ではどのように過ごしているのか、これまで興味も無かったし、聞く機会も無かった。
イオレッタはその実態を、リオの口から初めて知る事となった。