〈2〉過去
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イオレッタには、まだ専属の使用人が付いていなかった。もう十六になろうとしているにも関わらずだ。
末席とはいえ貴族の娘でありながら、側付きの侍女も居なければ、騎士も居ない。
イオレッタが食事や湯浴みで部屋を離れる少しの間に、屋敷付きの使用人たちは、掃除から何から世話の全てを済ませてしまう。
何故ならイオレッタは、人嫌いだから。
彼女は幼い頃から、人を寄せ付けようとしなかった。
イオレッタの機嫌を損ねないように、なるべく彼女に会わないよう、使用人たちは細心の注意を払って仕事をしていた。
そもそもイオレッタが人嫌いだと『思われている』原因は、彼女の母親にある。
まだ言葉も舌足らずな時分から、イオレッタの母は、娘を厳しく叱った。躾というには理不尽な叱責も多かった。
娘が甘えてじゃれつく事を、母は嫌った。周りと親しくする事も良く思わなかった。娘が少しでも懐いた使用人は、皆すぐに解雇させられた。
人に頼る事は悪い事だと、母は何度も娘に言い聞かせた。
味方を誰一人側に置かずに、何でも自分一人でする事が美徳なのだと教えられた。
イオレッタは母が怖かった。
一つ歳を重ねる毎に、怒声が飛ぶことは減っていったが、いつしか母の顔をはっきり認識出来なくなっていった。
幼い頃見上げた、あんなに恐ろしかった母の顔は、何度記憶をさらっても白く塗りつぶされていて見えない。
イオレッタの無意識は、自分の心を守るのに必死だった。
イオレッタは父親を知らない。身分の低い男で、愛人を作って出ていったと聞かされているが、本当のところは分からない。
あの母の事だから、愛想を尽かされたのかもしれないし、夫が居たという事すら嘘かもしれない。
そうやって屋敷で孤立していったイオレッタは、絶対の用事が無ければ、基本は部屋に引きこもって過ごした。
側に誰かがいると、心を傾けてしまう。
自分が好きになったせいで、母と違って優しい侍女が、屋敷から追われてしまうのは、もう嫌だと思った。
だからイオレッタには、専属の使用人が居ない。外に出ないから護衛も要らない。自分の世話は自分で出来る。
友達も居ない。好きな人も居ない。会いたい人など存在しない。
このまま、ひとりぼっちのまま、死んでいくのだ。まだ若いイオレッタはそう思っていた。
リオと出会うまでは。
十六の誕生日の、朝の事だった。
まだ朝食もとっていない時間に、外から馬車の音がした。
それが段々近付いてきて、屋敷の前で止まった事に、イオレッタは気付いていた。
すると幾らもせずに、屋敷の中の随分遠くから、母の金切り声が響いた。
「イオレッタ! イオレッタどこなの!? 呼んだらすぐに来てちょうだい! どうして近くに居ておかないの!」
近くに寄るなと言ったのは母だ。言い付けを忠実に守っていただけなのに、母はすぐに癇癪を起こす。
今日はまだ、この一度しか呼ばれていない。だが母の口振りはさも、何度も何度も呼んだのに来ないイオレッタが悪いと、責めるかのようである。
姿も見えない場所にいるのだから、すぐに来いと言われても無理があった。
思うところは色々あったが、逆らわずに急いで母の元へ向かった。
「イオレッタ!」
息を切らせて着いてみれば、遅いと言わんばかりの、母の怒鳴り声を浴びせられる。
彼女は相当恐ろしい顔をしているに違いない、とイオレッタは思った。
だがイオレッタには、その顔は白く塗りつぶされていて見えないのだ。
母の隣には、ちゃんと顔が見える人間も立っていた。
髪の長さや格好からして少年だと思われる。
淀んだ目をした子供だった。
歳は八だと言うが、背も小さく痩せ細っていて、とても年相応には見えない。
服だけは妙に綺麗なのが、かえって不恰好だった。恐らくこの屋敷に来てから与えられたものなのだろう。
「イオレッタ、まだ見習いだけれど、これをお前の騎士になさい」
イオレッタに押し付けるように、母は少年の背中を強く押した。
よろめいた少年は、そのまま力なく転んでしまう。
「どんくさいねぇ」
母は、面倒だという気持ちを微塵も隠さずに、はあーー、と、長い溜め息を吐いた。
イオレッタの目には、母の表情は窺えないが、彼女は眉間に皺を寄せているような気がした。
目の前の、イオレッタより八つも歳下の子供が、イオレッタの騎士……見習いなのだという。
まるで、そこらの路地から浮浪児をそのまま連れてきたかのようだった。見習いどころか、まともな教育すらされていないように見える。
騎士にしろと言われても、見たところイオレッタにさえ拳で負けそうだ。むしろ彼にこそ世話をする人が必要に思える。
何の冗談ですか、と言いたいのをイオレッタは飲み込んだ。そして一言、「畏まりました」とだけ返した。