2.拝啓、突然ですが。 #4
「……いよう。何しに来やがった、ディアブロ」
「ご挨拶だな。あんたこそ、名前まで変えて神様とは立派なご身分で」
俺が呼ぶまでもなく、彼は悪魔に悪魔と呼ばれていた。何ということだ。
地元民ですら近付かないような密林の奥に、邪神ヴィグリオ……もとい悪魔チャカは鎮座していた。両側に置かれている二つの石造りの豪奢な燭台は、信奉者によって造られたものだろうか。玉座はないが、常に浮遊しているチャカは気にしていないようだった。
「それで?今回は死神様のお供って訳か?」
チャカの視線がこちらを向く。親父の命令で俺を殺しにでも来たのか、と腕のような炎が伸びてきて俺の首に纏わりついた。温度を調整できるのか、不思議と熱くはない。払いのけようとしたが、掴むことさえできなかった。そりゃそうだ、炎に実体などないのだから。
「……俺がお供なんだよ。こいつの自殺を止めようとしたせいで」俺は抵抗するのを諦め、両手を挙げて見せた。放してくれ、とチャカに目で訴える。
「真に受けるなよ、チャカ」すかさず彼が口を挟んだ。「俺の目的は知っているだろう」
ああ、とチャカは彼に向けて頷いた。炎が俺の首から離れていく。チャカはそのまま俺達に背を向けると、森の奥に向かっていった。数秒の後、一筋の炎が奥からまるで道のように俺達の前に現れる。
「来いよ。そろそろスコールの時間になる」
聞こえてきたチャカの声に導かれるように、彼がためらう様子もなく暗闇の奥へと踏み込んでいく。俺は黙って、その背中を追う他なかった。
「しかし、まだアレを追ってるとはな。とっくに諦めたもんだと思ってたぜ」
炎に導かれた先は、本来薄暗いはずの洞穴だった。そこかしこに黒い塊が埋め込まれ、パチパチという音と共に赤い炎を上げている。ここはおそらく、石炭が豊富に産出される場所なのだろう。先程入ってきた入口の方角から聞こえてくる葉を打ち鳴らす激しい音は、熱帯地方特有の湿った空気の温度を下げ、心地よい風としてここまで運んで来てくれる雨の存在を俺達に知らせてくれていた。
「ったく。ここらは暑くて住みやすいけど、この雨だけは勘弁だ」最奥に留まったチャカが苦々しい表情でそう吐き捨てる。
当たり前のことだが炎は水に弱い。チャカにとってのスコールは、普通の人間にとっての銃弾に相当するはずだ。信者達に頼んであの祭壇もどきに屋根でもつけてもらえばいいだろうに、と俺は心の中で呟く。あれが本当に信者達の手によって造られたものなのか分からない以上、口にすることは控えるべきだろう。
「あーあ、精霊のヤツが羨ましいぜ。水で消えても、どっかに炎があれば復活できんだろ? オレなんか消えたら終わりだっつーのに。まっ……会ったことは、ねーけど」
岩に隙間でもあるのだろうか、そう言ったチャカが向けた目線の先では、岩天井から水が滴って小さな水たまりを作っていた。地面の土に浸み込んでいるらしく、今の大きさから成長する様子はない。
「へえ、聞いたか死神。誕生日プレゼントは水を張ったバケツで決まりだな」彼が俺に目配せする。
挑発するような目つきの彼は、悪魔と呼ばれるのに相応しいほどの何とも言えない禍々しさを身にまとっていた。あるいは洞穴内で乱反射して揺らぐ炎の影がそう見せているのかもしれない。死神である俺が魂を狩り取る姿もこう見えているのだろうか。禍々しい、とそう形容されたことはあるが。
だとすれば、なかなかの迫力だ。俺も捨てたもんじゃないな。
「おいディアブロてめえふざけんなよ」チャカがかなり焦った様子で叫ぶ。その身体中から一気に火の粉が舞い上がった。ちょっと熱い。
「まさか。あんたが気にしてる雨漏りの水受け用さ。それだけじゃない、その不便な身体で生きていくのにも何かと便利だろう?」彼が鼻を鳴らす。絶対嘘だろ、と俺は思った。
「だったら水抜いて持って来いよ……ま、いいや」チャカがすっかり脱線していた話を戻す。炎の勢いが大人しくなった。「んで? 体張ってまで止めようとした誰かがここに来てるって?」
「ああ。結局は逃げられて、ここに来ようとしてたってことが分かっただけだけど」察しがいいな、と彼が肩を竦めた。
例のカミサマ本人ではなく、関係があると思われる者。彼はそう続ける。
トラックの運転手がブレーキも踏まずに突っ込んできたのは、既に洗脳状態にあったため。俺が轢かれる直前にブレーキが踏まれたのは、俺を轢くつもりはなかったということ。すなわち、彼に追われていることを相手は認知し、あの場で彼に発見され轢き殺そうとした、ということになる。
「人を操る……なんて能力、妖怪連中かあんたの兄弟しか使わないだろう。となると、あんたに用があるのかと思ってな」彼がチャカに一歩歩み寄った。警戒するようにチャカの炎が揺らぐ。
気が付くと彼の手にはスマートフォンが握られていた。確か、ほんの数か月前に売り出されていた最新機種だったか。いつ買った、という以前にどうやって買ったのかも不明だった。
……まさか、俺が生活費として持ってきている金で買ったとか言わないよな。いちいち残額を確認していない俺も俺だけど。
そんな俺の心配もよそに、彼はスマートフォンの画面に一枚の画像を映し出した。どうやらカメラで撮影したものらしく、そこにはあのトラックとその運転席が少し歪んで映っていた。光や角度を見るに、慌てて撮影したものなのだろう。ほんの少しだけピントがずれてぼやけているが、運転席の顔を識別するには充分だった。
もう生きてはいない、運転手の顔。そう考えると、顔を背けたくもなるが。
どこにでも居そうな、至って普通の中年男性といったところだろうか。しかし、少なくとも目の焦点が合っていないことは確かだった。黒目がバラバラの方向を向いてしまっている。それも少し不気味だったが、俺の視線はすぐにその男性の隣……助手席に吸い寄せられた。
見覚えのある、顔だった。
「へぇ、その表情……知ってるな、死神」
俺の表情筋の動きをいち早く読み取った彼は、スマートフォンの画面をチャカに見せるように手首を返した。自動画面回転機能によって写真は半回転し、チャカもそれを注視する。
「俺の予想通りなら、死神が知っていてあんたが知らないはずはないだろう。……紹介してくれないか?」
しかし、チャカは答えない。隠しておいたテストの答案を目の前に突き出された――そんな、どうしようもない沈黙だった。
「どうしても嫌なら、無理にとは言わないぜ。死神に他己紹介でもしてもらおう」スマートフォンの画面を見せたまま、彼が首だけで俺を見る。
「……俺に振るなよ」俺は辛うじてそれだけ答えた。
知らぬ間に、俺も同じ沈黙を呈してしまっていたようだ。
心当たりはただ一人。トラックの走っていた日本という国に不釣り合いな、金髪、青い目、嘘みたいに柔和な表情。
「……ガオナだ」
ただ一言、チャカがようやく発した言葉には少しの疑問が含まれていた。
「……魔王サタンの十一番目の子供。古代の世に生まれた、天下辣腕の詐欺師……」
投げやりな言葉が、拗ねるように燻ぶった炎から発せられる。けどよ、とチャカは気を奮い立たせるように彼を睨んだ。
「あいつに精神汚染の魔法は使えねえ。人を操るとはいっても口が立つだけなんだ。おっさんの顔まであんなトチ狂ったことにはできねえよ」
「なら、そのガオナの使える魔法は」間髪入れずに彼が訊く。
「確か、透視だったはずだ。物理じゃなくて、物の価値とか情報の……だったよな?」今度は俺が答えた。
チャカが頷いたのを確認して、彼は僅かに首を捻った。どうも因果が結びつかないらしい。そしてそれは、俺も同じだった。
でも、ただ一つ。一つだけ確かなのは、関係者と見込んでガオナを追う、という彼の判断が間違っていなかったということ。
というのも、あらゆる物に関してガオナの選択や決定の意思は、意図的な虚偽でない限り真実となるからだ。数百と並ぶ胡散臭い露店から本物の骨とう品を見つけるのも、数十種類のバスから行きたい目的地へ向かうものを選ぶのも、ガオナにとっては造作もない。彼はそれらの持つ全てを見ることが出来る故である。
つまり、それが意味することは、ガオナは確実に何かを知っているということであって。
……だとすれば。ガオナはそのトラックを利用したということになるのだろうか。トラックの行き先を理解して、運転手が錯乱していて自分が乗り込んでも大丈夫だと判断して。
それとも。本当にガオナが、何らかの方法を使って……?
「……いずれにせよ、手掛かりはそのガオナだけだ」
しばらくの後、彼はそう結論づけた。何とかして今の居場所を見つけ出してくれ……と、その視線はチャカに。
「げっ。オレかよ」チャカが身を引く。
「俺は面識がないからな。この死神だって仕事道具を持ってないだろう」彼の親指が俺を示した。俺は両手を広げて無力をアピールする。
「……へいへい。ったく、今まで半信半疑だったんだけどなぁ。ガオナが絡んでるとなりゃ、どう考えてもガチだもんなぁ……」
ぶつぶつと呟きながら、チャカは洞穴の入り口へと向かっていった。いつの間にか雨の音は止み、代わりに邪神の名を呼ぶ幾つかの声が聞こえている。それらに応えるために出ていったのだろうか。
「ああ、言い忘れてたけど。あんたが情報を提供してくれるまで、ここで寝泊まりさせてもらうからな」
遠ざかっていく背中に向かって彼が声を掛ける。予想していたのか、はたまた諦めたのか、チャカは答えることはおろか、止まって振り返ることすらしなかった。なるほど、泊めてくれないというのはあくまで『好意的に』という訳だったか。
炎が去ったのを見届けてから、彼は俺に向き直った。さっきのやり取りを聞いていたせいか、何故か身体が強張ってしまう。
「……おまえはまだ理解してないと思うけどさ」何かを言いたげな彼より先に、俺が口を開いた。「もし本当にガオナが関係者なら、その「カミサマ」には下手に関わるのを避けるべきだ。あいつの魔法は万物の理解者という別名を持ってるんだよ。「カミサマ」がおまえにとって敵なのか何なのか分からないけど、ガオナが加担するということは、そのまま勝利を意味すると言っても過言じゃない」
俺の言葉を、彼は黙って聞いていた。そして一言、「関係ない」と。
予想はしていた。けれど、実際に聞くと予想以上に動揺する言葉だった。死ぬのを理解して尚敵地へと向かっていく兵士を見ている気分だった。
「なあ異端児、なんで、おまえはそんなに」
鋭い視線が俺の言葉を遮る。後には引けない恐怖のような、守りたいが故の虚勢のような、はたまた行き場を失った怒りのような。今まで見たこともないような幾つもの感情が、その瞳で複雑に絡み合っていた。
「……俺が。俺が止めなければ、誰にも止められない」彼がゆっくりと言葉を紡ぐ。「チャカにもあんたにも、それこそ魔王でさえも。心の底から存在を信じていなければ、それがこの星を完膚無きまでに破壊すると根底から理解していなければ、誰が『宇宙からやってきた偽りの神』なんかに本気で立ち向かえる?」
宇宙からやって来た、だって?
思わず息を呑む。それはまるで、彼にこの星を守る義務があるかのような言葉だった。
「何億年も生きてきたあんたに比べたら、確かに俺は矮小な存在なんだろう。どう考えても無理だというのも分かってる。けど……生半可な気持ちの神や英雄を百人寄せ集めるよりは、俺一人が立ち向かった方がよっぽどマシだ。こんなSFじみた突拍子もない話を、一から理解させるだけの時間はない。残念ながらな」
俺を見詰める瞳の中で、渦巻く感情が混ざり合い、やがて確固たる決意ともとれる一つの強い感情に変わる。いつも不可思議で掴みどころのない存在だった彼と、初めて何かが繋がった気がした。
「……仕方ねぇな」勝手に口が動く。「おまえが本気で本当の話をしてるのは分かった。要は、放っといたら星が破壊されるんだろ? だったら俺も協力してやるよ。いや、するしかないって言った方が正確か」
「人の命を計上して生きる死神が、か? あんたにとっては好都合だろう」彼が予想外だというように目を見開く。
「いや、だって。まあ確かに俺は魂不足でここ四億年くらいずっと死にかけだけどさ、でも俺だって死にたくはねぇもん」
「地獄に逃げ込めば生き延びられるだろう。隔離された世界にまではきっと「カミサマ」だって手は出せない」
「あー、でも人間全員死んじまったらさ。ほら、生きる意味のない不死身は死んでるのとほぼ一緒って言うか……。ま、何にせよ、人間一人にゃ荷が重いだろ。それに……」
――「死神」の協力が、俺を連れてきたおまえの目的なんじゃないのか?
ほんの少し。少しだけ、彼が目を伏せる。感謝……違うな、後ろめたさとでも形容すべきか。
「……最初から、あんたが死神だと名乗った瞬間から、俺は、あんたの協力を騙してでももぎ取るつもりだった。さっきも言った通り簡単に信じてもらえるような話じゃないからな」
さっきとは打って変わって、彼の声から勢いが無くなっている。どうやらようやく素直に白状する気になったようだった。
「おまえから直接、今のを聞けばさすがに信じるさ。あのな、おまえはある意味で分かりやすいんだよ。本気かそうじゃないかだけは一瞬だぜ」
心外だ、と言わんばかりに不愉快そうに歪められた彼の顔を見ながら俺は笑って見せる。正直、こうでもしないと決意……というより殺意に満ちた彼の視線に心臓が焼き殺されてしまいそうだった。
「……頭を冷やしてくる」彼が気まずそうに俺から視線を外した。そのまま早足で出口へ向かう。
「カガリ。本当に悪かった……恩に着る」
すれ違いざまに響く小さな声。
その声と言葉が彼のものであることを理解するのには、少し時間を要した。気が付いた頃には、彼の姿はなく、チャカも帰って来ておらず。
緊張状態にあったからだろうか。欠伸と共に疲れが出てきた俺は、壁際に寝転んで少し眠ることにした。