1.死神の命日 #3
時々、胸がずきりと痛むことがある。何億年と生きても未だに慣れない、鮮烈な痛み。人間の言う良心というやつなのだろうか。でも、俺みたいな人の命を奪うために生まれてきた、そういう生き物が殺して良心を痛めたら、それは欠陥というやつなんじゃないのだろうか。
罪があるから殺す、とか。死ぬ運命だから殺す、とか。
要は、それは後付けの理由な訳で。俺は与えられたノルマをクリアするために、クリアできなかったら自分が酷い目に合うから殺している訳で。殺さなくても別に俺が死ぬわけじゃなし、知り合いが――例えば、あの異端児が死ぬわけでもなし。
俺が殺さなくても、人はいつか寿命を迎えて、あるいは何か病気とかで命を落としていく。そんな魂をゴミ拾いみたいに集めていけばそれでもいいんじゃないかって、そう考えることもある。もちろん、それじゃノルマには全然届かない訳だけど。
もし自分が死神でなかったのなら。殺されなければ死ぬこともできない、そんな存在でなかったのなら。
とうに自ら命を絶っていただろう、痛みの理由を問う思考は、いつもこのどこかずれた結論に結びついて終わるのだ。
外に出ると辺りはもう既に薄暗く、日は落ちかけていた。
「ちくしょう。少しくらい、休んでいきたかったのにな……」
勢いで飛び出したものの、行く当てなど無かった。住処のある日本というこの国で、人が大勢死ぬような事件などそうそうあるものじゃない。かといって、戦争真っ只中の外国まで移動するには精神力が足りない。もちろんこんな見た目だし身の丈以上もある大鎌を持っているものだから、大手を振ってそこらをぶらつく訳にもいかず。とりあえず人気の無い山にでも行こうと、俺は近くにそびえる丘のような山に足を延ばした。
夕食の良い香りが漂い始めた住宅街を忍び足で抜け、山裾の木々の間へ滑り込む。普段から行き慣れていて誰もいない、と分かってはいるが、一応木々の間を縫うように移動していつもの場所へと向かった。
そこは、俺が持て余した時間をつぶす為だけに居座る、有り体に言ってしまえば仕事をサボる場所だった。頂上近くの、少し開けた草地。実を言えば、住処とは違うもう一つの居場所、地獄へと繋がる入口でもある。とはいえ、とにかく便利に尽きる俺の大鎌には精神力に依存する瞬間移動能力が備わっているから、俺が普段ここを入口として活用することはない。また、他の誰かが出入りしているところを見たこともなかった。
「ま、三時間もいりゃ誤魔化せるだろ……」
呟いて、座り込む。それとも、勘の鋭い彼ならば何時間いたところで感づいてしまうのだろうか。
あいつなら、まぁ、魂の匂いがしない、とか言いそうだけど。
鼻から吸い込んだ空気に満ちる土と草いきれの香りが、麻薬のように脳内を駆け巡る。一時的とはいえ疲労を忘れる心地よさに、俺は無心で数回深呼吸を繰り返した。
十数メートル先の茂みから俺のよく知る足音と何かを引っこ抜くような音がして、俺はいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げる。珍しいことに目を丸くしていると、その足音はどんどん俺に近づいて来て、そしてその主と共に姿を現した。
「あれっ、何こんなとこでサボってんの? そんな暇あるんだ、カガリさん」
『死神』ではなく本当の名で俺を呼ぶその姿は、案の定ここにいるはずのない友人のものだった。肩に担いでいる大木はさっき引っこ抜いたものだろう。角は隠しているようだが、そんなものを軽々と担いでいる時点で人間でないことは一目瞭然だ。そのあたり、どこか抜けているのが憎めない。
「久しぶりだな、眞鳴」
「最近帰ってこないから、ついに過労死したかと思ってたのに」
「そりゃ悪かったな。まだ殺されちゃいねぇよ」
「魔王様も心配してたぜ」
「嘘おっしゃい」
「へへっ、さすがに分かるか」
いつもの調子で言葉を交わし、そして眞鳴は俺の隣に座る。乱雑に放り出された大木が、鈍い音と共に地面を揺らした。安息の地を侵略された数匹のバッタが、逃げ場を求めてせわしなく四方八方に飛び去っていく。
この規格外サイズの大木について、眞鳴曰く閻魔様の命令なんだそうだ。なんでも、最近炭火焼きにはまったらしい。そういった閻魔様の気まぐれにいちいち付き合わされ、無理難題を押し付けられるのがその秘書である眞鳴の務めだった。
「溶岩まみれの地獄とはいえ、そのサイズを炭にすんのはキツいだろ」
「おれもそう言ったよ? 言ったけどさぁ」
知ってるだろ、聞きやしない。そう溜息をつく眞鳴の表情は俺と同じように疲れ果てていた。
駄目だ、この話題は互いの健康にとって非常に良くない。何とか話題を変えようと俺が試行錯誤していると、思い出したように眞鳴が声をかけてきた。俺の方に身を乗り出して、いかにも興味津々といった感じで目を輝かせている。
「そういえばカガリさんさぁ、最近始めたんだろ? えーっと……そう、同棲!」
「そーの言い方は良くないなぁ?」俺は鎌を持ち上げるとそっと刃を眞鳴の首にそえる。眞鳴は両手をあげて降伏のサインを示した。
恋人まがいの同棲呼ばわりは気に食わないが、眞鳴が言っているのはきっとあの異端児のことだろう。まさか知っているとは思わなかったが、別に隠してる訳でもないしな。あいつにもあいつなりの目的があるんだろうし、俺が出かけている間にあいつも住処を出て、それを眞鳴が偶然見つけでもしたのか。
「……で、あいつがどうかしたか?」鎌を下ろす。眞鳴も手を下ろし、異常がないことを確かめるように首を撫でた。
「いや、別に? でもさ、まさかアンタが人間と一緒に住むなんて思わないじゃん? しかもあんな超イケメンと」
そんな状況初めて見たからすごく気になって、と眞鳴はお返しとばかりに俺の手首を掴む。そもそも怪力が特徴の鬼という種族、本人はそんなつもりじゃないだろうが、血が止まるどころか骨がへし折れてしまいそうだった。
「いや、でも大変だぜ?」俺は平気なふりをし、まるで気にしていないような声を出すように務める。「留守番にはなるけど家事だってしてるんだか――」
瞬間。
脳内に鋭いブレーキ音が鳴り響いた。嫌な悪寒が俺の背筋を走り抜け、全身が硬直する。
鼓膜を直接鷲掴みにされるようなこの手の音には心当たりがあった。途中で止まってしまった俺の言葉に、眞鳴が首をかしげて不思議そうにしている。
ほら、眞鳴には聞こえていない。だから、間違いない。
鬼の『怪力』と同じく俺にも特徴がある。
死神の持つ特徴は『地獄耳』。その名の通り聞こうと思えばどこの声でも音でも聞き取れる能力。一般的な解釈の通りだ。
ただ、時々意識せずとも何かが聞こえてくる時がある。それは人の話し声だったり爆発音だったり銃声だったり……音の種類に共通項はない。
共通点は二つ、一つは『その音は今ではなくとても近い未来に鳴る音である』こと。
そしてもう一つは、『その音は自分と深く決定的な関わりがある』こと。
簡単に一言で言ってしまえば、そんな音が聞こえた時には現場に急行するべきなのだ。
後先考えず。なりふり構わず。無我夢中で。
だから、今回も、俺は――
「ちょっ、カガリさん? どこ行く……ておい! 鎌! 忘れてるってぇ!」
眞鳴の声が遠ざかっていく。この類の音で分かるのは方向だけで位置じゃないから大鎌は使えない。ただの重りだ、置いていく方がいい。後で拾いに帰って来よう。
山を下り、つい数十分前に通った住宅街を逆方向に走り抜け、やがて交通量の多い国道に行き当たった。片道四車線にもなるアスファルトの運河を、制限速度などおよそ突破しているだろう車が駆け抜けていく。
この道だ、けどこれ以上は分からない。しきりに目を、耳を働かせる。人影は無い。事故が起こりそうな様子も今のところ無い。
――ふと、視界の端で何かが動いた。考えるより先に視線が動く。黒い影。住宅街の野良猫だろうか、山から下りてきた猿だろうか、動きが速くて大きさも形も正確には視認できない。でも十分だ、場所が分かればそれでいい。俺はじりじりと影に近づいた。何が起こっても驚かないよう、影に注目したまま全身で身構える。
影は俺の居るのと反対側の歩道を無意味に漂っているように見えた。俺の緊張も途切れぬまま、数秒とも数分ともとれる時間が経過する。
そして、いい加減俺の集中力も途切れるかどうか、あの音はまさか嘘だったのかと不安になってきた時だった。
突然、影が何かのタイミングを計ったようにするりと車道に滑り込んだ。スイスイと危なげなく車を避けて道を渡っていく。一車線、二車線、三車線と通り越し、四車線目の真ん中に差し掛かって――
ぴたり、と。その動きを止めた。
影の輪郭が急速にはっきりしていく。それよりも速く、とてつもないスピードの十トントラックが一切速度を落とすことなく影に向かって突っ込んでいく。
いや普通止まるだろ、少なくとも速度は落とすだろ、せめてブレーキくらい踏めよ。
脳が状況から判断を下す前に、脊髄反射によって俺の右足が地面を蹴った。こうなりゃやることは一つだ。何で影は止まったのかとか、明らかにあのトラックは異常だとか、そんなのはどうでもいい。俺なら、あのトラックにもろに轢かれても死にはしないだろう。たぶん……!
体当たりするように影に突っ込み、自分の身体を盾にして目を固く閉じる。避けている時間はない。お互い生きてりゃ上等だ。
耳を劈くブレーキ音が、俺の直感の正しさを証明する。
今更ブレーキか。一瞬だけ目を開くと、俺の視線が影のそれとかち合った。
「――――――あ」
俺が影の正体を認識すると同時に。
「カガリさぁぁぁぁぁん!」
眞鳴の絶叫が聞こえて。
とんでもなく強い力で吹っ飛ばされて。
俺の意識も吹っ飛んだ。