1.死神の命日 #2
「ほら、俺の言う通りだっただろう」
やがて住処に帰った俺を、最近ようやく聞き慣れた声が出迎えた。誇らしげな、少し揶揄を含んだその声に、俺は適当に頷く。彼と出会った頃はいちいち真面目に返答していた時もあったが、無駄なことだと今は理解していた。
それとも、俺が勝手にそう思い込んでいるだけなのだろうか。そうでないといいんだが。
「はいはい。毎度毎度、情報提供ありがとうよ」
「何だその言い方。俺はあんたのこと心配してやってるのに」
「別に頼んでねぇよ、俺は」
ぎし、と椅子が軋む音。鉄製の無骨な机の上に足を乗せ、これまた不安定なパイプ椅子に座って、彼は不機嫌そうにそっぽを向いていた。顔の左側にかかる長い前髪が横顔を隠して、その表情を伺い知ることはできない。
こっちにいる間、この殺風景な部屋で俺と寝食を共にしている変な人間。
俺が気付くより先に俺に気付き、声をかけてきた稀有な人間。
俺を怖がらず、あっさりと素性を受け入れた気味の悪い人間。
名を語らない彼のことを、俺は『異端児』と呼んでいる。
「でも、あんたさ。その調子じゃいつか本当に死ぬぜ。過労死」
何か食べ物でもないかとキッチンへ向かおうとした俺を、彼の声が呼び止めた。心配でもしているのか、珍しいこともあるもんだ、と振り返ってはみたが、彼の表情に真剣さは欠片もなく、口角は上がっている。なるほど、心配ではなく、愉悦。あるいは、嘲弄? 何にせよ、俺より若いくせに、相変わらず生意気な奴だ。
扉の無い部屋の間口で振り返り、俺は左手を肩のところで広げる。
「過労死ねぇ。それができたらどんなに幸せか」
殺風景な部屋を見渡しながら、俺はそれらしく言ってみせた。天井も床も一面打ち放しのコンクリートで構成された、十歩歩けば壁から壁にたどり着いてしまう小さな箱。青灰色のペンキが半分剥げ、赤錆色の斑模様になった鉄製のドアに、鉄格子の嵌まった窓。内装だけ見れば、ここは監獄とそう変わらない。
「おい、それ本気で言ってるのか」
予想外の返答だったのだろう、さっきまでうっすらと笑っていた唇が不満そうに歪む。それを見るのが心地良いとさえ感じてしまうのは、ただ単純に俺が疲れすぎているのだろうと、そう思うことにした。こいつと同族にはなりたくない。誤魔化すように、肩をすくめてみせる。
「こんなに辛いの、おまえみたいな異端児には分かんねぇだろ」
「……死神に言われたくはないな」
彼がこちらに向かって右腕を伸ばした。同時に、喉元にひやり、と冷たい感覚。いつの間に掠め取ったのか、俺の喉元に鋭い刃が向けられていた。意識の外にあったとはいえ、今の今まで、確かに俺が手に持っていたはずなのに。
数百人分の魂を吸って紫色に妖しく光る大鎌。
彼は溜息をつく俺の喉仏をそれでぐりぐりと刺激していたが、やがて飽きたのか、ぽいっ、と俺に投げ返してくる。二、三十キロはあるはずだが、見た限り太くはない腕で、どうやら貧弱ではないらしい。
「危ねぇな。ぶつかると結構痛ぇんだぞ」
変な角度で飛んできた刃を避けながら左手を伸ばして何とか柄を掴み、俺は文句を言った。喉には傷一つついていない。それは彼が手加減したのでもなく、俺の皮膚が異様に硬いのでもなく、ただ単にこの大鎌がそういう性質を持っているが故だ。
魂を狩り取るための大鎌が、物理的に何かを切断することはない。肉体と魂を繋ぐ尾を切断する時、この鎌はそれと同次元に昇華し、その他の物理的有体を総じて透過する。
ちなみに、ぶつかると痛いのは数日前寝ぼけて足の小指の上に落とした時に実証済みだ。
「鈍器としては有能って?はは、いいな、なら俺にくれよ。あんたよりは有効に使ってやる」彼が片頬で笑う。
「何回も言っただろうが。これは武器じゃなくて道具なの」
彼と出会ってから数か月、幾度となく繰り返したやりとりだった。彼に鎌を掠め取られてから俺が「これは道具だ」と宣言するまでが一つのセオリー。今となっては何の意味もないこの会話を、俺はいつも何となく楽しんでいた。
「……ふん。それだけ派手に光らせておいて、切れない刃物なんてな。死神って名乗るくらいなんだから、見た目もそれらしくしたら」
ふと、細長い彼の指が部屋の隅に無造作に置かれた姿見を指し示した。
部屋とは不釣り合いな重厚な装飾が施された大きな鏡。毎朝鏡とにらめっこして身だしなみチェックなんて、俺はそんなキャラじゃない。住み着いた時には既にこの部屋にあったものだ。
ついでに言えば、彼のものでもない。いつ見ても恰好よくキマってる割に、これは意外だった。
自分の姿なんて見ても何も面白くないが、なんとなく言われるがままに俺は姿見の前に立ち、そこに映った自分の姿を眺める。
「……見ようによっては『らしい』とも言えるだろ、これは……」
真っ白な髪。
黄金の瞳。
そしてそれ以上に、決して人間では有り得ない真紅の肌。
改めて、派手な見た目だな、と思う。
死神といえば、ボロボロの黒装束に髑髏が定石なのだろうけれど。
「ほら、見ろよこのクマ。不健康は死神の象徴だろ?」乾かぬまま何年も放置された血だまりみたいに赤黒くなった目の下を触る。
「ああ……今回は何徹だったっけ?」鏡越しに彼と目が合った。
「今日でちょうど五十」俺は振り返って彼を睨む。八つ当たりの自覚症状はあった。
「へぇ。記録更新だな」
ちらりと一瞬だけ、彼の視線に驚嘆が混ざったように感じた。しかし興味があるのか無いのか、それはすぐに嘲る様な光を湛えてそっぽを向く。
まあいつもの事だし今更気にはしないけれど。俺は鏡に向き直った。
それにしても酷い。彼の言葉ではないが、死神らしく今にも死にそうな顔をしている。
いい加減、そろそろ寝ないと限界だろうか。このままでは死なないにしても、一両日中に倒れてしまう予感がする。
そうなれば、彼に面倒をかけることになるだろうし。そうしたら、後々とんでもない料金を請求されそうだし。
明後日の方向を向いたまま愉しそうにくすくすと笑う彼の顔と自分の疲れ果てた顔を見比べて、更に気分が悪くなった。
顔の左半分を覆い隠す、艶のある黒髪。
どこか深い光を湛えた、漆黒の瞳。
なめらかな褐色の肌。
改めて聞くまでもなく、今までの人生で相当得をしてきたことが容易にうかがえるほど整った顔立ち。
神様は不公平だ、なんて。
俺が言ったらあまりにも救いようのないその言葉に、ただ溜息を増やすことしか出来ない。
「……また、行ってくるから。留守、頼んだぜ」
これ以上ここで会話を続けていたら、その内泣いてしまいそうだ。やっとのことで絞り出した言葉に、彼は軽く頷いて答える。彼ならきっと囚人服も看守服も見事に着こなして見せるのだろう、などと想像しながら、一つ深呼吸をして大鎌を担ぎなおすと、俺は逃げる様に住処を後にした。
はてさて。
一体、ノルマまであと何人残っていただろうか。
五人くらいだったらいいのに、と広げた掌を眺めてみる。当然、そこに答えが書いてあるはずはない。