4.青天の辟易 #3
「やはり、いささか酔狂に過ぎるのでは?」
困り顔で屋敷の主……司祭と呼ばれる男が言った。先祖代々闇の古代神に仕えている……らしいが、はてさて。最後に会ったのは、一体何年前の事だっただろうか。供物を捧げるわけでもない、数年に一度顔を出すか出さないか程度の男が、何を偉そうに。
「理由は話したはずだ。俺の名が知れる訳にはいかないと」
「ふむ、死神の協力を取り付けるため、とも存じ上げておりますがね。しかし、それでも人間のふりをすれば御身に危険が及ぶ可能性も否定できないのでは?」
「なるほど、つまり俺の力は全て肩書きによるものだと言いたい訳か」
「い、いえ、そういう訳では……」
途端に俯き、口をつぐむ司祭。俺は視線を逸らし、溜息をついた。久々に伸ばした翼と尻尾を戯れに動かす。これから天使を相手取るというのに、飛ぶための羽がこう鈍ってしまっては少し分が悪い。
あいつはそろそろ天使と接触した頃だろうか。肝心の闇の古代神がここにいるとはいえ、あまり長居する訳にもいかない。鎌を持たないあいつなら、そう長いこと善戦は出来ないだろう。で、あれば俺が出なければならない。隠密もここまでだ。
……全く。ここには天使が現れたことの報告をしに来たはずなのに、どうしてこんな、貴賓室なんかに通されてカタチばかりの司祭と話をする羽目になってるんだ。
「それで、結局、例の死神とは接触できたので?」
恐る恐るといった様子で司祭が顔を上げた。愚問にも程がある、あれだけ何度も深々と頷いていた癖に、結局何一つ俺の話を聞いていない。異邦の天使が闇の古代神の情報を得るのを阻止するため、もうそろそろ接触すると言ったはずだろう。俺が欲しいのは意思のない肯定でも中身のない相槌でもない。的確な認知と迅速な行動だ。
「……いいか、司祭。ここ一帯の民衆全員に神殿へは近づくな、と伝えろ。その方面で何が起こっても気にするな、とも」
沈黙を答えの代わりとし、俺はそう告げた。畏まりました、と司祭が神妙に頭を下げる。
「では、すぐに街中放送と、警備兵に道の封鎖を命じましょう。あなた様は安心してごゆっくりとおくつろぎを」
「いや、俺もすぐに出る」
無駄に柔らかい椅子から立ち上がる。この司祭には経緯を説明するつもりだったが、この理解力では……さて、何日かかることやら。最早何の話もする気になれなかった。まあ全てが終わった後でも遅くはないだろう。陳腐に形骸化した信仰というものも、無闇やたらと詮索されないという点においては優秀なものだ。
そんな俺に構うことなく司祭が手を上げて指を鳴らした。即座に部屋の入り口の扉が開き、何百万もしそうなカップに入った紅茶を持った使用人が入って来て俺の前にそれを置く。こうして指が鳴らされるまで一体何分待機していたのだろうとか、どう見ても淹れたてのこの熱々な紅茶は一体どのタイミングで淹れたのだろうとか、そういう疑問は口にしないようにした。俺に限らず客人を万全に迎えるため、きっとかなりの努力を積み重ねてきたのだろう。それに土足で踏み入るのは無作法というものだ。
「お急ぎなのもよろしいですが、しかし古代神様。せっかくお茶を淹れたのですから、せめてそれだけでも……最高級の茶葉ですゆえ……」
過去数十年の記憶の限り、この部屋で累計百五十三回目になる溜息をつく。ほら、この通り。神殿に人を近付けるなという緊急事態だというのに、その主である俺が急いでどこへ行くのか、何をするのか、あるいはその重要性なんて事には興味がない。心配の矛先は、無駄になりそうな高級茶葉という訳だ。
司祭の言葉を無視して窓に歩を進める。最後に一度だけ振り返ったら、意外にも司祭は少し残念そうな顔で俺を見ていた。たかが紅茶の一杯、無駄になったのがそんなに口惜しいか? いや、それとも本当に……
ああ、もう面倒臭い。早足で席に戻り、未だホカホカと湯気を立ち昇らせている紅茶を一気に飲み干す。あまりの熱さで味は良く分からない……勿体ないことをしただろうか。
どことなく嬉しそうな、安堵の表情を浮かべた司祭を一瞥し、俺は再び窓に駆け寄ると今度はその勢いのまま外に飛び出した。貴賓室は五階、折角だからこの高さを利用させてもらおう。上昇の手間が省ける。
神殿へと続く道の入り口は、既に警備兵による封鎖が始まりつつあった。数人の住民と少し揉めているか? まあ、この程度なら些事か。任せておこう。
森の中でうねる曲がりくねった道も、空を飛ぶ身には何の苦でもない。まだ、神殿の辺りまでは良く見えないが……五分もすれば見えてくるはずだ。予想以上に時間を喰ってしまった。間に合うといいんだが。
地上から聞こえていた雑踏の音が消え、次第に静電気の溜まった異様な空気を肌に強く感じるようになってきた。木が焦げる臭いと、前方の空に立ち昇る煙。やはり、穏便には済まなかったらしい。少しだけ、速度を上げる。
ふと、神殿の輪郭がはっきりと見えるようになった辺りで違和感に気付いた。
音がしないのだ。
爆発音も、何かを打つ音も、言葉すらも、その一切が聞こえてこない。俺にカガリのような地獄耳はないけれど、さすがにこの距離で何も聞こえないなんてことがあるものか。穏便には済まなかった、何かが起こっているのなら――
そう、何かが「起こっているのなら」。
最悪の事態が脳裏に浮かぶ。半ば突っ込むようにして神殿前の広場に着地した。焼け焦げた土と芝生の、周囲には誰もいない。件の天使も、あの死神も。カガリの死体が無かったことに安心しかけたが、いや、まだ早い。一呼吸だけおいて、神殿の入り口まで飛ぶ。
扉の無い入り口を抜けると、すぐに大きな空間が広がっている。昔は儀式なんかも執り行っていた、いわゆるメインホールというやつだ。石の天井を支える二列十二本の太い柱と、最奥にぽつりと置かれた大理石かなにかの玉座。俺は三回くらいしかまともに座ったことがない、椅子というよりは置物と言った方がしっくりくる代物だ。
その空間のちょうど中央部分に、見慣れた真紅の肌が転がっていた。
周囲に警戒しつつ駆け寄り、呼吸を確かめる。意識は無いが、外傷も見当たらない。見たところ、ただの気絶のようだった。
疲労……ではないだろう。敗北し、見逃された? あの天使に?
何にしても、九死に一生を得たってところか。命が絶たれていなかったことを確認してようやく安堵し、一瞬だけ緊張の糸が切れたのを自覚する。
……だから、きっとそのせいだ。
神殿奥、名称だけは準備室になっている空き小部屋。
そこから出てきた瞬間を、見る事が出来なかったのは。
「やあ、ようやくお出ましか。待ちくたびれたぞ、神様」
突然の声。反射的に立ち上がり、倒れているカガリの前へ割り込む。目の前の空間の奥、玉座にもたれている一つの人影があった。崩れた天井からの光でシルエットにこそなっているが、翼も角もないその形は人間そのものである。しかし隠しきれていない凄まじいオーラが、それが油断してはならない人外の存在であることを明朗に語っていた。
「……あんたが、死神をやったのか」
確かめるように、質問を返す。言葉が話せるのならコミュニケーションもとれるはずだ。
「そんな物騒な物言いをしないでくれ。彼の安否なら、今しがた君が確認しただろう?」
影がゆっくりと歩み寄ってくる。逆光が薄れ、うっすらと見え始めた両の眼が黄昏色に鈍く光った。
「我らが主に対抗できる貴重な戦力だと聞いたものだから、実力を確かめてみたくてね。実際……うん、私の攻撃を三回も避けられた。さすがの実力者だ」
「何故殺さなかった」
「それはもちろん、私が君達の味方だからさ。……そうだな、君達の呼び名を借りれば「堕天使」。名をルミエルという」
俺の前で、一定のリズムを刻んでいた足音が止まる。無抵抗を表明するかのように、上向きに広げた両の掌が差し出された。一瞬身構えたが、その掌から例の奔流が吹き出す様子はない。
規格外の破壊を生むあの奔流を出していたとは到底思えない、普通の色白な男の手。ただ左手だけが壊死しているかのように黒ずみ、脱力している。
なるほど、真実味方かどうかは置いておいて、今この場で俺やカガリに攻撃を加えるつもりはないらしい。俺は上目遣いにちらりとルミエルの顔を見て了承の意を伝えた。俺よりニ十センチ近く高い所にある顔を見上げれば喉元がさらけ出される。さすがにそこまで気を許す訳にはいかない。
ついでに、視線の高さにある肩に垂れた紺色の髪を眺める。これも、別段特殊な素材という風でもないようだった。
「理解に感謝しよう」掌を差し出したまま、ルミエルが言葉を続ける。「私が本当に天使なのか疑っているのなら、君達にとってお馴染みの姿になってもいいのだがね。私もあれは苦手なんだ。出来れば勘弁してもらいたい」
「あくまで一時的な理解だ。姿を変えられるのは、魔法か?」
「いいや、戦闘用のコスチュームのようなものさ。……おっと、訊きたいことは山ほどあるのだろうがね、説明は後にしよう。それよりも、ほら」
ルミエルの右手が動き、俺の背後を示す。意識を取り戻したらしいカガリが動き出した気配を感じた。
「背後が気になるのなら、私はあの固い椅子にでも座って待っていよう。今はゆっくり再会を喜んでくれ」
そしてその言葉通り、こちらに背を向けて玉座の方に戻っていく。あの奔流ならば玉座からでも十分に俺達を灼けるのだろうが、とはいえここまで殺さない意志というものを見せられれば形だけでも信用するしかないだろう。人質にした訳でもないカガリを殺したところで俺の行動には関係ない、そのうえで脅威を殺さなかった。殺戮に満ちた今までの天使の行動と矛盾するその行為、それこそが確固たる証拠になる。
「うぅ……あ、ぐ……頭、ぐるぐる、する……ちくしょう……」
数分の時間をかけてようやく半身を起こしたカガリの視線が、俺をぼんやりと捉えた。まだ焦点は定まっていない。
「気分はどうだ、死神」
「どうも、こうも……って、あれ……おまえ、何か……ああくそ、まだ……よく、見えねぇ。異端児……だよ、な?」
ああ、そういえば本来の姿に戻ったままだったな。声は同じでも、羽やら角やら尻尾やらが増えて、果ては肌の色まで違う。そりゃぼんやりでも困惑する訳だ。
今から人間の姿に戻ったのではもう遅いだろう。諦めた俺は立ち上がり、カガリに向かってわざとらしく頭を下げて見せる。
「はじめまして、カガリ様。私は闇の古代神、半神半魔の未熟な神にございます。名はブイオ。二千四百年前既にご存命だった貴方様なら、名前くらいはご存じでしょう?」
「……はじめまして? なーに言ってんだ、おまえ、どう見ても異端児じゃねぇか……。もう、見えてきてんだよ。……なんだ、只者じゃないと思ってたけど、そういうことかよ……」
「不満そうだな? 折角あんたが知りたがってた俺の名前も教えてやったのに」
「ああ、ブイオ、な……そりゃ、隠すよな。知ってるもん、俺。ヴァルデだって、見破られる訳だ。あいつ、おまえのこと人間だと思ってたもんな」
カガリの頬が自嘲するように歪む。抱えた頭から、何で気付かなかったかなぁ、と悔しそうな声が聞こえた。
「あんたのせいじゃないぜ。俺が優秀すぎたんだ」
「うるせぇよ。……てかおまえ、口の中怪我とかしたか? そんな声がする、ちょっと見せてみろよ」
突然、腕を引かれる。顔を上げたカガリが驚異の回復力で立ち上がり、俺の顔を覗き込んでいた。
この期に及んでまで人の心配か、この死神は。全く、不良品にも程がある。
あと、人の体幹を無断でバネに使うな。
もちろん心当たりはあった。カガリの頭を押しのけ、一歩距離をとる。ああ、傍から見ればなんて能天気で、馬鹿らしい光景なのだろう。あまりの愉快さに笑いが込み上げてきて仕方がない。
「おい、ちょっと、何で笑うんだよ? 小さな切り傷から化膿することもあるんだからな、神だからって油断しちゃ駄目だって」
なおも近付こうとするおせっかいな死神を牽制しながら、ちらりと玉座の方を見やる。優雅に腰掛けたルミエルが穏やかに微笑んでいるのが見えた。
ああくそ、最悪だ。こんな茶番はさっさと終わらせてしまおう。
俺はカガリに向かって舌を突き出して見せる。無理に流し込まれた高温の紅茶のせいで、きっと真っ赤になっていることだろう。
「ご名答。ご覧の通りの、大火傷だ」