4.青天の辟易 #2
「間に合った……みたいだな?」
「さぁ、どうだろうな。案外人間にでも化けて、既にここらを嗅ぎまわってるかもしれない」
『そういやアニキ、キル=クェロッタはブラックダイヤの名産地らしいぜ! 何か買ってきてくれよな!』
キル=クェロッタ。街に異常はないように見受けられた。少なくとも通りには人々が行きかい、中には笑顔で談笑していたり忙しそうに仕事をしていたりする人もいる。無論、彼の言う通り天使が紛れ込んでいて気付かないだけなのかもしれないが。
「そこんとこ、能天気アドバイザーは何て言ってるんだよ」
「お土産にブラックダイヤがほしいとさ」
「はぁ? 何考えてるんだ、全く」
ともあれ、マキナがそんな呑気な事を言っているなら間に合ったと考えていいのだろう。監視はしっかりしてくれている……と、信じたい。
とにかく、天使の監視はもうマキナに任せることにして。俺達は俺達にできることをしなければいけない。
ひとまず古代神の安否を確かめよう、という俺の意見に彼は首を縦に振った。そしてそのまま、ずんずんと遠くに見える大きな屋敷の方へと歩いていく。
「おまえ、行く当てがあるのかよ」
「仮にもこの街の守護神みたいなもんなんだろう? だったら街で一番偉い奴のところに行くのが道理だ」
『あれ、おまえさん達屋敷の方に行くのか? そろそろ天使が街の外縁部に接触する頃だけど』
急停止した。
何でもないような調子でとんでもないこと言いやがる。
「突然どうしたんだ。新しい情報か?」
数歩遅れて、彼が振り返る。事態を察したのか、怪訝な表情が俺の表情を見て徐々に強張っていった。
「天使がそろそろ街に接触する、らしい」
「ああくそ、マキナあいつ、いきなりか。……分かった、じゃあ、あんたは急いでそこに向かってくれ」
「あんたはって……おまえはどうすんだよ。別行動か?」
「いくら非常時だからって、許可なく暴れまわったら俺達も同罪だ。とにかく街の長に説明してくる」
そう言い残し、彼は俺の返事を待たずに雑踏の中へ駆け込んでいった。
残された俺は慌てて周りを見渡す。
外縁部。外縁部。一体どこだ。入口があそこで、あの屋敷が街の中心だと仮定すれば、その奥か、右か、左か。
『アニキ、別行動か? 別行動だな? 案内は必要か?』
マキナの声が響く。俺は人込みに埋もれないよう、大通りの真ん中に走り出て出来る限り腕を上に突き上げて大きく振った。道を行きかう人々が何事かと俺を眺めながら通りすがっていく。電動らしいハイテクな乗り物も走っている中で明らかに通行の邪魔だが、そんなの気にしている場合じゃない。
『よし分かった、アニキから見て左方向だ! とにかくまっすぐ、あとは道なりに進め! 天使は神殿に向かってまっすぐ歩いてるんだ、多分場所が割れてるぞ!』
おいおい、嘘だろ。
歩いている、つまり急ぐ気が無いのが唯一の救いか。俺は左を向くと言われた通りまっすぐ走り出した。
『アニキ、そっちは右だぞ』
逆か、なるほど。左右とかあんまりよく分かってないんだよな。踵を返し、気を取り直してもう一度走り出す。押し殺したようなマキナの笑い声が聞こえた。恥ずかしいから笑わないでくれって、もう。
『よし、そのペースなら大丈夫だ。あと少し、頑張って走り続けてくれよ』
神だからと言ってスタミナが無限かというと、決してそうではない。あれから三十分ほど走り続け、市街地は木々の生い茂る森へと変わってきているが、俺の身体にはそろそろ限界が近づいてきていた。息が上がるのはまあ当然だからいいとしても、視界が霞むのはまずい。公共交通機関を利用すれば済む話ではあるが、残念ながら金銭の類は全て彼が持ったままだった。
そういえば、彼は今どのあたりにいるのだろうか。会いに行った相手が相手だから、道に迷うことはないだろうが……もし戦闘になったとして、彼が辿り着くまで果たして一人でしのぎ切れるのかが問題だ。鎌があるならともかく、今は俺だって人間並みの戦闘力しかないのだから。
ましてや頭脳労働など以ての外だ。マキナの指示も大いに頼りにしたいところだが、やはり互いに意思疎通ができる相手とでなければ臨機応変な対応は難しい。これまで共に過ごしてきた経験から、俺よりも彼の方がそういった指示に向いているのも確かだった。
『天使の動きが止まった。たぶんアニキを感知したんだと思う、気を付けてくれ』
マキナの言葉に、一瞬にして背筋を悪寒が走り抜ける。ラスベガスで見たあの幻覚が、脳裏に蘇って来ていた。向こうが気付いたということは、こちらも目的地に接近しつつあるということ。それはありがたいが、今目の前にいるであろう天使は本物だ。走り続けて疲弊し、酸素の足りないこの状態でいきなりあの奔流を放たれでもしたら、躱せるだろうか。いや、喰らえば即死に近いあの攻撃、躱さなければならない。ならないのは分かっているのだが……!
走るのをやめ、早歩きに切り替えて息を整える。脳に酸素が流し込まれ、霞んだ視界だけは急速に鮮明に戻っていった。
落ち着け。考えろ。どうすればいい……。
とりあえずは武器だ。とにかく、何か武器になりそうなものを。
目の前に垂れ下がる腕位の太さの枝と足元に落ちている拳二つ分くらいの石。一瞬迷って、俺は手を伸ばしできる限り根元から枝を折り取った。攻撃力なんてあったもんじゃないが、リーチだけはある。木には申し訳ない限りだが、非常時ということで許してもらおう。
『アニキ、そこから斜め左に突っ切れ、近道だ。あ、左ってさっき枝を折った木が生えてた方な』
先程の教訓を生かしたかのように丁寧なマキナの指示に従って木々の中へ踏み入った。少し先、それが途切れた先の三階建てくらいの高さに三角形の屋根が見える。あれが神殿だろう、と、すれば……。
ゆっくりと慎重に、木々の陰から踏み出す。
あの奔流が襲ってこなかったのは、幸いと言うべきなのだろう。
神殿へと続く階段の下に、天使は佇んでいた。
紺色の三本の角に覆われた顔で、神殿を見上げている。
翼は左片方が根元からもがれたかのようになくなっていた。移動速度が遅かったのはこのためか。
黄昏色をした、喉元の一つ目がぎろり、と俺を睨む。
『死神――ダナ。貴様』
俺は答えない。答えられない。
『死神ハ鎌ヲ持ツト聞ク。答エヨ――慢心カ、嘲弄カ』
緊張か、恐怖か。声が出ない。出たとしても、うっかりミスだ、などと言えるものか。
『――沈黙ハ肯定ナリ。ナラバ受ケヨ。主ノ救済デアル』
天使の右手がゆっくりと上がる。俺は動けない。まだ、気圧されている。
『何してんだ、避けろ! アニキッ!』
マキナの怒号でようやく、弾かれた様に俺は脇へ跳んだ。直後、閃光に目がくらみ、一瞬前後不覚に陥る。頭を振って、目を開ければその先で。
――あの奔流が、俺の居た空間を灼いていた。