3.乱立方程式 #5
「まあ、とはいえいい機会だし。この子の事はいいとして、兄貴にまた逃げられる前に全部話しちゃわないと」
不意に改まってガオナが言った。俺は退屈な話題のループに飽きてどこかに出かけようとしていた意識を慌てて引き戻す。
「というよりそもそもなんでヴァルデは逃げたんだ」
彼が不思議そうにヴァルデを見る。ヴァルデは鼻を鳴らしそっぽを向いた。何か理由があっての行動らしい。
「あーそれね。なんか、僕が異邦者の話を始めたあたりから逃げ腰だったんだよ。兄貴なんか因縁でもあった?」
「……別にねぇけど」
苦虫を噛み潰したような表情でヴァルデがボソッと呟いた。キレる時はあれだけ直情型のくせに、やけに歯切れが悪い。
無いなら逃げる必要ないじゃん、とガオナが食い下がる。
……少し、嫌な予感がした。
ああ、多分これは、訊いちゃいけないタイプの質問だ。
おそらくヴァルデは、トラウマを抱えている。その要素を鑑みるに、原因はただの一つしか思い当たらない。
彼の方を見ると目が合った。彼も気付いたようだった。
「なぁ、異端児。もしかして、ヴァルデは」
「ああ。逃げたという話を聞いた段階で気付くべきだった。この付近にも一つ、消えた町がある……!」
しかし、全てが見えるが故に察するのが苦手なのがガオナという悪魔である。どうしても知りたいらしく遂には回り込んでヴァルデの肩を掴み、揺さぶり始めた。
止めようと手を伸ばす。しかし俺がガオナを引き離すより、ヴァルデが自らその腕を振りほどいて口を開く方が僅かに早かった。
「……分かったよ。そんなに言うなら見せてやるよ。後悔するんじゃねぇぞ」
見せるって何を、と訊こうとした時にはもう遅かった。
瞬きする間に周囲の景色が溶けるように消え、代わりにどこかの町らしき風景が俺達を取り囲む。
のどかな空気。牧歌的な雰囲気。平和に微笑み合う住民。
……ただ、俺は知っている。
体験したことはないけれど、見たことすらないけれど。
今からここに、何がやって来るのかを。
青空から、影が落ちた。
数秒かけて影は大きくなり、怯えた表情の住民の前にその主が姿を現す。
……怯えた?
まさか。瞳に映るこれは紛れもない絶望だ。
やって来た三体のそれは、辛うじて人の形をしていた。あくまで輪郭だけの話だが。
白の全身タイツを着たようなその顔面から、太い三本の角が生えている。
追い出された一つの目は喉でぎょろぎょろと動き、大きく裂けた胸部と腹部の中では全てを呑み込む虚無が渦巻いている。
翼が生えている、ということは天使ポジションなのだろうか。にしても、こんな禍々しい天使を認めたくはないものだ。
身長は二メートル前後。少しばらつきがあるのが、逆に命を感じさせて恐怖を煽る。
『主ノ命ガ下ッタ。只今ヨリ救済ヲ開始スル――幸福ナ民ヨ、喜ビノ賛歌ノ内ニ己ガ身を供物トセヨ――』
無機質な肉声、と表現するほかない、不気味で不思議な声。
同時に、それらの指先から炎と雷とが混ざり合ったような奔流が吹き出し、全てを灼き始めた。
俺の前を駆け抜けた女性が、その一端に触れて消える。
彼の横をすり抜けてそれらの内の一体に向かっていった男性が、何も出ていない指先で胸を軽く突かれて四散する。
ものの一分もしない内に、その小さい町は灰塵と帰した。
天使達が空へ帰っていく。
同時に視界がぼやけ、灰色の町は元の落ち着いた店に戻っていった。
思い返せば、たった一瞬。最小効率で最大ダメージを叩き出す、殺戮兵器の権化だった。
こちらに伸ばした腕を下ろす、ヴァルデの肩が小刻みに震えている。抑えきれない恐怖に顔が引きつっている。
いや、ヴァルデだけではない。ガオナの顔からも笑顔が消えて青ざめているし、あの異端児ですらじっと床の一点を見詰めっぱなしだ。俺だって、傍から見れば何とも呆けた顔をしているのだろう。
この世界に発生してからの数十億年間、それこそ数えきれない位の戦場を見てきた。それに比べれば、規模だけなら大したことはない。
ただ、圧倒的なのだ。百万人の兵士が人口百人の村を制圧するより数千倍も、今の惨禍は名状しがたい圧力と絶望に満ち満ちていたのだ。
「なぁ、カガリよぉ。テメェの他に一人、神様ってぇのがいたよな?」
椅子に力尽きたかのように座り込み、大きなため息をついたヴァルデが言う。俺は数秒考え、記憶を一度引っ繰り返してから首肯した。
「んー。一人どころか、七人ぐらいいる」
「あー、そうじゃなくて。テメェとおんなじ、生き物の生死に関わる神様」
「それは……ああうん、一人だな」
ヴァルデが言っているのは、おそらく二千四百年前に生まれた古代神の一人、闇の古代神と呼ばれる存在のことだろう。ただ正確に言えば、少し違う。
俺が生者を殺す存在ならば、あちらは生者を看取る存在。それを同じと呼称するのは、本当は、駄目なことなのだが。
「……で、その神様がどうかしたか?」
「生死に関わるんなら、この異常な死に方に気付いてねぇなんて有り得ない、と思ったんだよ。何か動いてくれたっていいんじゃねぇの」
それは、言われてみれば確かにそうだ。とはいえ俺も、自分から異常に気付いて動いてる訳じゃないしな……。
直接交流の無い古代神の事は例によって基本情報くらいしか知らないが、少なくとも俺が嗅ぎ付けられるのは既に死んだ魂だけだ。大量発生した現地に出向いたところで、それらが現れた原因が病なのか事故なのか殺人なのか偶然なのか、はっきりとは分からないことがほとんどなのである。
「……気付いてるんじゃないか」
彼が口を開いた。いつの間に頼んだのか、先程までとは違う中身のグラスを手に持っている。
「古代神の事なら本で読んだことがある。死神と違って、この世界にいるのが当然……って存在じゃない。だったら、異邦の「カミサマ」がその存在を予想している確率も低いと考えるのが道理だ。もし俺がその古代神なら、潜伏して存在を悟られないように対策を整えようとするだろうし……圧倒的な力を持つ相手からすれば、強さに関係なく生死の概念そのものを武器にする存在だけが唯一警戒すべき対象になるからな」
自分の存在を悟られないためなら、小さい村は見殺しにする。彼の言葉がそう言っているように聞こえて、俺は思わず絶句した。いや、確かにそれが賢明な判断なのかもしれないけれど。古代神自身は胸を痛めながらの事かもしれないけれど。だけど、それはあまりにも、何て言うか……。
「……ん?あれ、異端児、それだともしかして」
ふと、あることに気付いて俺は俯きかけていた顔を上げた。
生死に関わる神はその古代神と、死神。つまりは、この俺自身。
と、いうことは。
「俺は、「カミサマ」に対抗できるってことか?」
彼の首は意外にもあっさりと縦に振られた。それはそれで、絶句案件だった。
「「カミサマ」自身はともかく、天使ぐらいならあんたの鎌で刈り取れると思うぜ。ただ、あんたも見ただろうけど、天使達が出すあの攻撃には耐えられない。鎌って近距離武器なんだろう? あんたじゃ多分、そもそも近づけないさ」
「ああ、鎧が硬すぎるって訳ね……」
もはや、誰一人として口を開く者はいなかった。静かながらも穏やかな空気が流れる店内で、俺達のテーブルの空気だけがいやに重苦しい。時折誰かが飲み物を口に運んだあとの、木製の机とそこに置かれたガラスが触れ合う音だけが唯一時間の経過を思い出させてくれるものだった。
やがて沈黙を破ったのは、無機質な着信音だった。彼がスマートフォンを取り出し、耳に当てる。
僅か数秒。どこかぼんやりとしていた彼の目に一瞬にして光が灯り、表情が険しくなった。鋭い視線が俺を捉える。
「カガリ、マキナの声が聴けるか」
「え? ああ、そりゃ、ここからでも聴こうと思えば」
「聴き続けてくれ。意識を集中させ続けるんだ」
彼の只事ならない様子に、俺は慌てて意識を耳に集め、マキナを探した。程なくして、急いた様子の声が耳に飛び込んでくる。
『アニキ、聞こえてるか? アニキ!』
聴くことは出来ても、こちらから声を届けることは出来ない。俺は彼に向かって頷いて見せた。彼が電話越しに、俺に伝わっていることをマキナに伝える。そして、そのまま電話を切った。
『アニキ、一方的で悪いがここからは俺の指示に従ってくれ。詳しい事情は後でまとめて説明するから、とりあえずどこか屋外に出てくれないか』
何事かと目を丸くしているガオナとヴァルデは彼に任せ、俺は一旦店の外に出た。空から監視でもしているのか、すぐさまマキナの声が聞こえてくる。
『よし、見えた……じゃあ、簡潔に言うぜ。ついさっきの話なんだが、
例の天使が一体、とある街へ向かっているのが確認できた。
意味は、分かるな? 一体なら、おまえさんとあいつがいれば何とかなる。……急げ!』