3.乱立方程式 #3
鮮やかすぎるネオンの光。上気と落胆の二種類の感情しかもたない人々の群れ。ラスベガス……知識でカジノがある街、とだけ認識していたが、実際に訪れるのは初めてだった。夜に来たのは間違いだったかもしれない。目がチカチカする……。
さすがの彼も辟易しているようだった。目を細めて顔をしかめ、しきりに首を巡らせて何かを探している。やがて一点に留まったその視線を辿れば、バーというか、とにかく酒が飲める飲食店といった風貌の店があった。全面磨りガラスのドアの向こうから、薄ぼんやりとした暖色系の光が漏れている。
「この店にいるのか?」
「いや……一旦落ち着きたいんだ」
彼が首を振って答える。量産された自動人形のような人波を掻き分け、俺達は半ば強引に店内へと滑り込んだ。
店内は、外と打って変わって静かな印象だった。完璧とは言い難いが、ガラスのドアは外の騒音を耐えきれる程に緩和してくれている。ドア越しにぼやけたネオンのカラフルな点滅は、何だか遊園地のイルミネーションを眺めているようでむしろ心地よい程だった。
その代わりに俺達を取り囲んだのは、強烈な酒とタバコの匂いだ。見ると、店主をはじめ店内のそこかしこで客がパイプやら葉巻やらをふかしている。酒の匂いは、まあ、この店ではしない方が不思議というものだろう。ウイスキーにはじまりカクテル、ビール……それら一つ一つの匂いはさほど嫌でもないが、混ざると何とも言えない不思議な香りに変貌するようだ。無論、悪臭とまでは言わないが決して良い香り、などとは口が裂けても言えない。
店奥のカウンター席の端に俺達は座った。名前だけでは成分が微塵も予測できないカクテルをインスピレーションだけで適当に注文する。やがてバーテンダーが慣れた手つきで操るシェイカーから注がれたのは、これまた何とも言えない透き通った青色をした液体だった。青色の米や食パンは見るだけで食欲が失せるのに、何故飲み物は平気なのだろう、などと考えながら口へ運ぶ。爽やかな、しかしやはり成分の分からない味がした。たぶん果物が含まれているのだろう、とかその程度。俺はもしかしたら一種の味覚音痴なのかもしれない。
隣では、不透明な赤紫色の液体が注がれたグラスを彼が傾けている。一気に半分ほど呑み込んで、彼は静かに「……微妙だな」と呟いた。
「カシスオレンジとかモスコミュールとか、大人しく有名なものを頼むべきだったな。格好つけて一番長い名前の奴を頼んだら、味まで複雑なのが出てきた」
「不味いのか、それ?」
「いや、悪くはないぜ。地球上に存在するあらゆる果物を全部混ぜたような感じの味だ」
絶妙に味の良し悪しが分からない感想だった。
まあ、そんなの知っても知識が一つ増えるだけで俺の人生(神生?)に何ら影響があるとも思えないし。俺はこれ以上訊かないことにする。
無駄に生い茂った観葉植物の死角から扉の開く音がした。直前まで足音がしなかったから、新しく入ってきた客だろう。何となく足音の行く先を耳で追っていると、それは観葉植物群をぐるっと回って俺達の方へと近づいてきた。
「あれ、カガリ先生。こんな所にいるなんてね、奇遇」
そして一言。顔をあげれば、これから会いに行く予定の顔がそこで笑っている。
「ガオナか」
最後に会ったのは五年以上前のはずだが、写真で見た通りの胡散臭く小ぎれいに纏まった服装も、俺の事を先生と呼ぶ軽薄な口調も何一つ変わってはいなかった。左頬に口紅がついているあたり、女性関係も充実しているらしいが、いくら人間に近い見た目だからってそんな近しい関係でも誤魔化せるものなのだろうか。
「うん、ご覧の通り。んで?カガリ先生ったら僕に用事なの?」
「おま、何でそれを」
確かこいつの魔法では、人の思考や目的までは手が届かないはずなんだが。俺、そんなに顔に出やすいかな。
そんな俺の質問を軽やかに無視し、ガオナは俺が飲み残したカクテルに目を留めた。俺の隣で無言を貫いている彼の持つグラスにも一瞬だけ目を向け、満足したように頷くと彼とは反対側の、俺の隣の席に座る。
「マスター、この人と同じの一つね」
ほどなくしてガオナの前に差し出される透明な青のカクテル。何故それを頼んだのかと聞くと、「コスパが良いから」と簡潔な回答が得られた。曰く、値段の割に原価が高いのだそうだ。……視覚で原材料を突き止めるなんて、味覚もクソもないな。
「……だって、カガリ先生がわざわざここに来るなんて、僕に会いに来たとしか考えられないでしょ?」
唐突にガオナが話し出した。一瞬何かと思ったが、どうやらさっきの俺の質問に対する答えらしい。俺が首を傾げていると、ガオナは小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「そこのお連れさんに写真撮られちゃったしね。大方、兄貴に頼んで僕の居場所割り出したんでしょ」
兄貴というのは多分チャカのことだろう。その通りだ、と俺は首肯する。
「ふふん、やっぱり……で、肝心のお連れさんは無視な訳、僕のこと。僕に会いたかったのはそっちじゃないの、ねぇ!」
前に身を乗り出して、俺越しに彼に話しかけるガオナ。彼は不自然なまでに視線を逸らし、沈黙している。まさか彼に限って恥ずかしがっている訳でもあるまいし、ガオナと話して推測が確証になったら……と言っていたはずなのだが。
「まあ、いっか。無理にとは言わないし。それよりもさ、僕に用ってのはアレでしょ? 僕たちが消し飛ぶとか世界がぶっ潰されるとか、そういう話でしょ?」
「んな楽しそうに言うなよ……」
「いいじゃない。本当の事なんだから」
普段はあまり使わない物騒な言葉を織り交ぜつつ、ガオナはそれでも軽薄に笑っている。俺達が止めようと考えていることを話すと、彼は大きな動作で首を横に振った。
「さすがに無理だってそんなの。勝算がある軍団なら僕だって協力するけど、まあ、カガリ先生とはいえメイン戦力が人間と二人じゃねえ」
ぴくり、と。
視界の隅で彼が動いた。怒ったというより何かに気付いた、そんな反応だった。
「ん? どうかしたか異端児?」
「……死神。質問があるんだけど」
彼が口を開いた。視線をガオナから逸らしたまま、いや、あるいは右目の視界の端でだけガオナを捉えたまま、押し殺したような小さな声でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ガオナの声はどんな声か、教えてくれるか」
俺にしか聞こえない音量の声。何でそんなことを、と首を傾げる俺の右腕をガオナが揺する。
反応することはできなかった。その違和感に、気付いてしまったからだ。
俺の名を呼ぶガオナの声がぶれ始める。そうか、何一つ変わっていなかったのは見た目で、口調で。
すなわち、俺の耳に届く、唯一俺だけは誤魔化せない、肝心の、その声は。
視線を動かす。不満げに俺を見詰めるその顔は、紛れもないガオナのものだ。声が、声だけがおかしい。
「ねぇ、カガリ先生?何の話してるの?」
一度気付いてしまえば、何とはなしにただ不気味だった。どこからどう見てもガオナにしか見えないのに、何かが違う。
看破してもなお付きまとう、不自然さと不気味さと不安と恐怖と。
これは……ああ、確かに、夢に出そうだなあ。
……ヴァルデ。