3.乱立方程式 #2
「……なあ異端児……ここは?」
彼がようやく俺の腕を離したのは、数キロ程歩いてからの事だった。腕を引かれたまま、森を抜け、市街地を抜け、山に登り……。位置的には山の中腹といったところか。少し強い風はどことなく涼やかで、チャカの住む洞穴とはまた違う快適さがあった。
……何だか、数日前を思わせる感覚だ。俺が今ここにいる、その全てが始まった日に。
無論彼の言葉を信じるのならば、発端はその更に数か月前、彼が俺に声を掛けてきた瞬間となるが。それは、まあ、些細な問題というやつだろう。
「あんたと情報を共有したいと思ってる」彼が口火を切る。
場所を訊いたはずだが、それに対しての返答はなかった。ただ人気の無い、比較的快適な場所を選んだだけなのかもしれないが、いきなり足の下から巨大な戦闘機がせりあがってきたって、きっと俺はそんなに驚かないだろう。
「情報って、さっき言ってたガオナの行き先のことか?」
「ああ。それと、あんたが持ってる他の悪魔たちの情報もな。チャカは直接の身内だから、曲解もあるだろうしあいつを交えるのは避けたかったんだ」
「他の悪魔、ねぇ」
……と、言われましても。
魔王サタンの子供は全部で十三人。その内一人は二千年以上前に勘当されて消息不明。それと同時期に一人はチャカみたいな偽物ではない、正真正銘の神と呼ばれる存在になった。確か、一緒に神と呼ばれるようになった他の五人と纏めて古代神という括りになっていたはずだ。
後は、生活圏がまるで違うために顔と名前すらよく把握していないのが二人。地獄にほとんど戻ってこないのがチャカを含めて六人……いや、多すぎるだろ。
地獄に常駐しているのは三人だけだ。名前や顔、使える魔法などの基本情報ならまだしも、それ以上の事を知っているのは実質この三人だけなのである。
しかもその三人以外は誰が何番目の子供だったかあやふやときた。これだけの情報で果たして彼が納得するのか……と、その前に。
「今んとこ、おまえが知ってるのは誰なんだ?」
うっかりしていた。これを聞いておかなければ渡す情報が定まらない。
全部で四人、と彼の答えが返ってくる。
「ヴァルデとガオナを除いてだけどな。一番目、七番目、九番目、十三番目を知ってる」
「お、被らなくてラッキーだったな。俺が十分に教えられるのは二、三、八番目だけなんだよ」
何で俺の方が知ってるんだ、と彼が呆れ声を出した。当然だ、俺もそう思う。訊く相手を間違えたか、という彼の呟きは聞こえなかったことにしておこう。
「……まあ、仕方ないか。ともかく、最初に吹っ掛けた俺から話そう」
彼がそう言って地面に腰を下ろす。俺もその隣に座った。
眼下に広がる砂埃にまみれた町で、せわしなく動く幾人かの人々が見える。一体彼らは何を思っているのだろう。今日の夕食のことか、はたまた邪神への忠誠か。少し離れた場所で一人の人間と一人の死神が「カミサマ」を倒そうと策を練っているだなどと、誰か一人くらいは想像したりしているのだろうか。
「あくまで俺の見立てではあるけど」彼が話し始める。「ガオナはおそらく、敵側に立った訳じゃない。チャカやヴァルデに会おうとするのは、勝ち目のない兄弟達を隔離された空間、地獄へ逃がすため、それを伝えるためだ」
人間よりも遥かに強い力を持つ悪魔。その中でもひときわ抜きんでた存在である魔王サタンとその十三人の子供達。そんな彼らが皆で地獄に避難する、なんてことはこの世界の歴史上一度も起こっていない。弱点を突かれた一人が逃げ込んでくることは時たまあるにしても、いつも誰かしら他の兄弟が報復しに行っていたものだ。人間と神が相対した時も、世界が二つに分かたれた時も、彼らだけはいつも平気な顔で世を闊歩していたのをよく覚えている。
だから、どうしても、やすやすと彼の言葉を信じることが出来ない。本当の事なのだと頭では理解していても、信じると彼に言ってしまっていても。
長く生きる存在だからこそ、自分や仲間の強さを知っているからこそ、それがまるで歯が立たないという『規格外』を容易く受け入れることが出来ない。つまりはこういうことなのか。
「……仮におまえの話したことを相手が全面的に信じるとして、だけどさ。本当にその、「カミサマ」は悪魔が全員寄り集まっても勝てないものなのか?」
「町一つ守るのが精一杯だろうな。それも、後からノミ潰しに来られたら終わりだ。勝つ望みが欲しいなら……そうだな、悪魔が全員と神が全員、それに加えて妖怪と鬼の主力もいる。あとは精霊を味方につけて、魔王鬼王より強い生命体を一人生み出せば結構な確率で勝てるんじゃないか」
「んな無茶な……」
幾分か期待はしていたのだが、残念ながら彼が笑って自らの言葉を冗談と否定することはなかった。代わりに、重々しい沈黙と静かで長い溜息が場を支配する。言葉にせずとも、それが絶望あるいは不可能に近い意味を醸し出していた。
「三百年も準備期間があれば、不可能じゃなかっただろうさ。……気付くのが遅かったんだ、もう「カミサマ」の手下によって小さな町は幾つか消されてる。星ごと潰しに本人が来るまでは、もって半年ってところだろう。そして多分、そのことを――」
何故、彼がそのことを知っているのだろうか。ふと、俺の脳裏に一つの小さな疑問が浮かんだ。
潰された小さな町の生き残り?
――可能性はある。でも、確証はない。この手の疑惑は過去数回嗤われて心に大きなダメージを負った実績があるから、とりあえず訊いてみる作戦もご法度だ。
事前に予見して見張ってでもいた?
――おおよそ人間の能力じゃ無理だろう。けど、こいつならやりかねない。マキナみたいな仲間も何人かいるにはいるんだろうし。
何か、他の可能性は……ああ、あった、もう一つ、根底から覆すのが――
「――いた可能性も十分にあり得る。だから、ガオナは自分のできることとして……おい、聞いてるのか」
「んっ? あっ、えっ、悪い何の話だっけ」
つい彼の話から意識を逸らしてしまった。数回の自問自答を繰り返していた思考のプロセスが衝撃で全部破棄される。何か思いついていた気がしたが、もうそれが何だったのかすっかり忘れてしまっていた。
「つまり、ガオナも「カミサマ」に気付いていたのかもしれない、ってことだ」
呆れ果てたような彼の溜息。俺は神妙に頷き、大人しく彼の話を拝聴する構えをとった。
「物の価値を見破る力があるなら、人や町の寿命も見えたのかもしれない。滅ぶ町を見つけ、見届けたのかもしれない。……もしかしたら、もうすぐ宇宙からやってくるっていう俺の考えが勘違いで、もう既にそこらの人間やら草木やらに化けてるのを見破ったのかもな」
「何それ怖い」
「俺だって怖いさ。まあ、そこら辺は本人に訊いてみないと何とも。だろう?」
皮肉な笑みを浮かべた彼の顔が俺の方を向く。肩を竦めることで俺はそれに答えた。もとい、俺に訊かれても知らん、という意味である。
数分、いや数秒の沈黙が流れた。俺は彼の話の続きを待っているのだが、しかし、彼は口を開かない。これで話は終わりだ、とでも言わんばかりに地面を這う一匹のアリを眺めている。なおも俺が根気よく待っていると、ようやく顔をあげて期待した表情の俺を横目でちらりと見て、そして少し視線を泳がせた。
「……続きは?」
「終わりだ。今はな」
「ええ」
「ガオナ本人に会って、推測が確証になったらまた教えてやる。ほら、次はあんたの番だろう」
とっておきの情報、聞かせてくれよ。そう言った彼を前に、諦めた俺は深呼吸をして気持ちを切り替える。
期待されたら、それを無下にはできないだろ?どんなに無茶でも理不尽でも、それが俺の性分なんだ。