愛、抱きしめてニューゲーム
シアワセってなんだろう。
母親はそれが何かを教えてはくれなかった。
ただ繰り返し、祈るように、呪うように、貴女はシアワセになって欲しい、と口ずさむだけだった。
うん、と答えて聞き返すことはしなかった。
彼女の顔はいつもフコウに引きつっていたから、聞いたら心を傷つけるかもしれないと思ったから。
だから自分なりに考えて、調べて、見て、観察して、また考えた。人混みの中に入って、見ることだけをしていた。触れることもせず、関わることもせず、グラスに揺れる水面を覗き込むだけ。
触れてしまえば溢してしまいそうで、壊してしまいそうで怖かった。
他人を傷つけるのは怖い。
だけど、自分が傷つくのはもっと怖い。
そして、母の想いを裏切るのは最も怖かった。
いつしか心の中に母親の姿はなく、母の言葉だけが残るようになった。
【貴女はシアワセになってね】
その言葉だけが木霊して、耳鳴りのように反響して、夏の蝉の鳴き声のように、うるさくうるさく、心を蝕んだ。
シアワセって何だろう。
世間ではカップルとか結婚とかっていうけれど、母のやつれた姿はシアワセそうではない。日々、仕事にあくせくして、身を粉々にして働いている。
そんな辛い姿になるなんて嫌だ。そんなのはシアワセじゃない。
『それは家族のために働いて、お金を稼いでいるからだよ』
《辛いのは仕方がないよ。楽しいことばかりじゃない》
〔そんなふうに言うなんて酷いや。お前1人では食うに困るくせに〕
分かってる。だからいつも感謝してたよ。
…………それが当たり前だから、言葉にはしなかったけど。
『言葉にしなきゃ伝わらないよ』
そんなの母だって同じだよ。いつだってゴメンナサイって謝ってばっかりで、知りたいことは何も教えてくれなかった。
本当に欲しいモノは何1つとして与えてくれなかった。
自分の欲しいモノは自分で手に入れた。
ゲームの解説をして、炎上させて、アフィで稼いで炎上させて。方法はどうあれ、自分のモノは自分で手に入れた。
家計が苦しそうだから、自分でお金を稼いで少しでも楽になって欲しいって思ってた。言葉には…………しなかったけど。
だけど学費も食費も家賃も、光熱費だって、身の回りの物も全部自分で手に入れた。少しは楽になるだろうと思って。
《お母さんは自分の稼いだお金を使って欲しかったんじゃないの? 巣立たれて、残されたお母さんの気持ちは考えたことはあるのかい?》
他人の気持ちなんて分からない。少なくとも、私の気持ちが分からない人のことなんて分からない。分かりたくない。何も与えてくれないのに、何かを与えるなんて不平等。
ギブアンドテイク。
それが成立していない時点で理不尽なんだよ。
産んでくれたことには感謝してる。だから最低限の受け応えだってしたし、うざいって怒鳴ることだってしなかった。我慢してた。浴びせたい言葉は沢山あったけど。欲しいモノはあったけど。それは決して1人で手に入れることができないモノ。
それは言葉にできなかったけど…………。
〔お前はいったい、何が欲しかったんだ?〕
私は…………私が本当に欲しかったモノ。
ふと脳裏には暁そんの笑顔が浮かんだ。
走馬灯のように思い出が走り出して、自分でも言葉にできない、表現できない感情がカタチになって足元に転がった。
それは淡く白く明滅していて、触ろうとすると熱く焦げて、触るととても暖かい。
涙を讃え、安らぎすら感じるモノ。
私が求めて得られなかったモノ。
必死に掴もうとして、いつも壊してばかりのモノ。
彼らはいつも差し出してくれていたのに、抱きしめ方が分からなくて、手の平から溢してばかりのモノ。
それは…………。
目が覚めて、そこは見知らぬジャングル。泥まみれの体。獣の異臭。筋肉が張り付いて動かない。湿った土が背中を濡らしていた。
なんで私はこんなところで空を見上げているのだろう。
それにしても、綺麗な空だ。こんなふうに天を見上げたのはいつぶりだろう。
そうだ、1度もない。
青い空と白い雲をぼんやりと見つめながら、記憶を辿るとすぐに思い出した。気持ち悪い笑顔を浮かべるシスターに質問攻めにされて、失神して、現実を認めたくなくて、自暴自棄になって走り出したんだった。
あの日のように、死んでやり直せると信じて……。
あの日っていつだっけ…………遠い昔のようだ。
あれはそう……珍しく母親が私に話しかけてきたんだ。たまには一緒にご飯をしましょうって。嫌だったから無視したら、扉の向こうで突然泣き出してこう言ったんだ。
【ごめんね。そんなふうに育てて、ごめんね】
何度も何度も謝っていた。
誰に?
私に?
違うな。私に向かって話しかけているだけで、語りかけているのは自分自身。自分が育てた娘を出来損ない扱いして、あまつさえその責任を認めようとしない。
私のことを面と向かって全否定かよ。
こいつは私のことを見ていない。
だって私は今の生活に不満なんてない。
自分の性格は、他人と比べて劣るかもしれないけれど、まんざらでもなく好きだった。あともう少し友達と、それから胸があればいいなぁ、なんて贅沢を願ったりもしたけれど。
自己肯定感は確かにあるんだ。
他人から見ればくだらない趣味かもしれないけれど、ろくでもないお金の稼ぎ方かもしれないけれど、それでも確かに、楽しいと思える日常を過ごしていた。
その日常の中に、片隅に、貴女もちゃんといたのに。
だったらなんで嫌だったんだろう。
分かっている。分かっているんだ。目をそらして見ないようにしていた。認めるのがどうしようもなく怖くて仕方がなかった。それを認めてしまうと、自分は何のために生まれ、生きてきたのか分からなくなるから。
母親という唯一の存在にかすかに期待できたから。だから目の当たりにしないようにしてきた。いつか私が欲しいモノを、彼女がもたらしてくれると信じていたから。
なのに彼女は……私にソレを突きつけた。
見たくなかった現実を、認めたくなかった事実を、むせび泣く嗚咽に包んでよこしたのだ。
想像以上の絶望感。
もう希望も何も見出せない。
失意の中、声には出なかったけど、涙が溢れて頬を伝った。今まで生きてきた中で1番辛い。逃げ出したい。
人生を……やり直したい。
ふと見上げて目に映ったのは本棚にある漫画本。
最近流行の転生ものに見事にハマって、人気ランキングの上から順番に買い漁ったものたちだ。
そうだ……私にも、まだ希望がある。
やり直せるかもしれない。
なら、やるしかない。
取り憑かれたように道具を準備して、すぐに行動に移した。痛みは感じない。あるのは次なる希望と、何も与えてくれなかった絶望感だけ。
そしてまた、私は次に行こうとしている。
泥だらけの傷だらけ。なりふり構わず塔に登って、道に迷って、モンスターに追われて、力尽きて。自力で歩けないくらいへとへとになって、今はその時が来るのを待っていた。
次に転生する時は、そう……ちやほやされたいし、俺TUEEEEEって言えるような力も欲しい。セクシーでキュートな容姿も欲しい。
でも、1番欲しいものは…………。
遠のく意識の中で空を遮る黒い影が現れる。
獣だ。狼っぽいモンスターが私を取り囲んでいた。ぐるぐると呻き声を上げながら、汚らしくよだれをたらして獲物を見ている目。
噛まれると痛いのかな。でもまぁ、自分でやるよりいいかもね。血が出て痛いなんてどうでもいいや。
最後に見るのが獣の顔だなんて、我ながら相応の報いだね。いろんな人に迷惑をかけて、頭を下げられなくて、自暴自棄になってまた迷惑をかけて。
最低だよ。
最高って何だよ。
誰か教えてよ。
せめて終わる時は目を瞑って行こう。
潔く、せめて綺麗に…………。
温かい。血が吹き出して出血しているのだろうか。
しかし痛みは感じない。もう痛みなんて感じない。
私は次の世界に行くんだ。幸せなことじゃないか。
あぁ……もしかしたら、これが私の欲しかったモノじゃないだろうか。母親から与えられたいと思っていたものを、よもやこんなところで手に入れるだなんて。
たとえそれが自分の血の温かさだとしても、これは……いいものだなぁ。
まどろみの中で誰かが私を呼ぶ声がする。
はっきりと聞こえたその声は暁さんのものだ。
出会ってすぐによくしてくれた。
本当に親切で、頼り甲斐があって、こんな人が母親だったら。そんなことを本気で考えていた。なのに私は、あの人の期待を裏切ってばかり。裏切られるのが恐くて、先に裏切って、嘘を吐いて、傷つけてばかり。
なんで?
なんで私はこんななの?
本当は仲良くしたいのに。凄いねって褒めて欲しいだけなのに。誰かに認めて欲しいだけなのに。
いつも空振りをしては誰かにぶつかって逃げ出して。どうしようもないほどにどうしようもない。変わりたいのに、変われない。
もう嫌だよこんなの。
変わりたいよ。
私は……私はただ、ぎゅって抱きしめてもらって、愛してるって言ってもらえるなら、もうそれ以上は何もいらないのにッ!
ただ1度でいい。誰か私を抱きしめて。
愛してって言ってよッ!
「お前がそれを望むなら、いくらでも抱きしめよう。何度でも囁こう。詩織、あたしはお前を愛しているよ。ギルドのメンバーとして。可愛い女の子として。大事な仲間として。だからどうか、みんなのことも愛しやってくれないか。傷つくことを恐れずに、みんなと一緒に傷ついて、傷の数だけ思い出を作っていこう。だからどうか、あたしたちを置いて先に行くだなんて言わないでおくれ。あたしはお前がいなくなったら寂しいよ。だから何度でも言おう、詩織。愛しているよ。だから帰って来ておくれ」
「暁……さん……なんでここに。なんで私なんかにそんなことを言ってくれるんですか……。私はあなたに酷いことをして、酷いことを言って……それなのに」
「あぁ……そんなことはもう気にするな。ここからまた新しく始めればいいじゃないか。向こう側じゃなくて、今ここで。そのためにはお前も変わらなきゃいけないけれど。それはとても辛いことかもしれないけれど。つまずいた時はあたしが支えてあげるよ。転んでしまったら、一緒に転んであげるよ。だから、もう帰ろう。な?」
「う……うわああぁぁぁぁぁぁぁんっ!」
この人は……本当にもうこの人って人は……どうしてそんなに優しいの?
どうしてこんなに暖かいの?
これが……【愛】なの?
分からない。分からないけど、暁さんは本当に私のことを愛してくれてる。でなきゃ、こんなところまで私を抱きしめに来たりなんかするはずがない。
今は信じよう。この愛が本物だということを。
泣き疲れて眠ってしまい、気づくと自分の布団の中。
夢だったのだろうか。
でも胸の内に残る温もりは本物のように感じる。
暖かい。まるで太陽に抱かれているように……太陽に…………抱かれている。
あたりは暗くてよく見えないが、さっきからしきりに頭を撫でられているような感覚がある。妙に息苦しい。しかしめちゃくちゃいい匂いもする。アロマなんて目じゃないような、女の子独特の香り。
……明らかに、私は誰かと寝ている。
誰だろう。もしかして母親?
だとしたら全て夢?
夢オチ?
だとしたらどれだけ幸せだろう。
夢にまで見た母親の抱擁。この世に生を受けてから1度も、そう1度たりとも私は母の腕に抱かれたことはない。
生まれて、病院の中で抱かれたこともない。
授乳ですら、母は最初から哺乳瓶を私の口に突っ込んだ。
よちよちできるようになって、抱っこをねだっても四角い格子の中に閉じ込めるだけ。
あんよができるようになったのに、母は高い高いをするだけで、抱きしめてはくれない。
幼稚園のお絵かきで上手にできて、彼女に見せても頑張ったのねって褒めるだけ。
小学校のテストで満点をとっても、次も頑張りなさいと言うだけ。
中学生になって両親が離婚して、ついに彼女は私の顔も見なくなった。
ただただ寂しかった。
ぎゅって抱きしめて貰いたかった。
誰でもいいから……私を愛して欲しかった。
愛を知らない私に愛を教えて。
「詩織……愛してるよ」
お母さん……?
違う。暁さんの声だ。力なくそう呟いたのは寝言だから。私を抱きしめたまま離さない。
少し苦しくて1人用のベッドでは手狭だけど、今はそれが心地いい。とっても暖かくて、優しくて、涙が出るほど嬉しくて。
きっとこれが愛されてるってことなんだろうな。
その朝、暁さんに胸の内の全てを打ち明けた。
愛されたいこと。
抱きしめて欲しいこと。
今まで辛くて苦しかったこと。
誰かと関わるのがどうしようもなく怖いこと。
そして、みんなにちゃんと謝りたいということ。
すると彼女は私の全てを受け入れてくれて、また優しく抱きしめてくれた。共感して、辛かった過去を労ってくれる。
本当に、この人はどうしてこんなにも優しいのだろう。
紅暁。
暮れない太陽のギルドマスターで私の、そしてみんなの太陽。心を照らしてくれる眩しい光。
「さて、そろそろ落ち着いたか? 腹も減ったし飯にしよう。今日は私の奢りだ!」
「うぅ、はい。ありがとうございますっ!」
ここからだ。
ここからが、私が私をやり直す最初の1日だ!




