仮寝床03
路とイ診療所──と言うらしい。意外にも外に堂々と看板が掲げてあった──から車で四十分程のところで下ろされた。ホテルは白い石造りで、品のある豪邸といった趣だ。階段の昇り降りは普通に苦しかったので、やっぱりヤブ医者だったかもしれない。
案内された部屋は確かに上等だった。寝間着に着替えたかったが、ベッドに倒れ込んだらもう指も動かせない有様だったので、潔く眠ることにした。気絶かもしれない。
お馴染みの悪夢の御蔭で、一時間足らずで覚醒に成功。身体が少しは動くことを確認して、のんびり着替える。
感情の制止を振り切って想起する。何とか味方じゃなくなった水晶の同行者から逃げ切って、意識を手放す直前。両手両足は原型を留めていなくて、腹に穴が幾つか開いて。そうまでして守った頭は返り血塗れで分かり辛かったけれど、頬に切り傷、だけでは済まず、左の眼球が駄目になった。
まずは角膜が破られて、半狂乱で解呪した代償に左腕が折れ、それでも間に合わず虹彩が破られた。何とか逃げて、逃げ切る直前にもう一度同じ術を喰らって──死にかけていたから、余裕がなかった。硝子体を、網膜を潰して、視神経を侵す寸前で呪いは解けた。意識がなくなるまで、ずっと絶望していた。目は、守らなければならなかったのに。
悪寒と発汗が酷い。嗚咽が漏れる。頭を抱え、またトラウマが増えたなぁ、と嘆息する。感情は思考を放棄したがっているけれど、もう少し考えなければならない。思い出さなければならない。この左目は、どうやって治った? 視力は前と変わらない。視界は全く変化していない。医者は何もしていないと言っていたし、嘘を吐いたとしても、僕の眼球を再現するのは企と野でも水晶でも不可能だ。自然治癒も有り得ない。そんな身体じゃない。
……ひとつ、何とか思い出せた。いつかも何処かも分からないけれど、左目蓋を撫でられた、指の感触。指の腹で、血を拭いながら、圧力を感じない程に軽く。丁寧に。まさか医者が素手で触る訳がないし、あれよりは小さい指だった気がする。そしてあの指が誰のものであっても、「どうやって治したか」は解決しない。呪術でも異能でも、僕の眼球を、性能を落とさず治すなんて真似が出来る訳がない。いや、勿論、想像の埒外の存在がこの世に居ないなんて思っていないが。
ノックの音で、元々切れかけていた思考が停まる。ドアスコープを覗くと、白いピナフォアを着た女が立って……メイド? ホテルに?
扉を開けるか悩んでいると、メイド(暫定)は鍵を取り出したかと思うと、あっさり扉を開けた。いやまあ持ってるだろうけれど。
「夜分遅くに失礼します」
扉を開けて目の前に僕が立っていたことにも動じず、メイドは深々と御辞儀をした。
「今後の説明と確認のため、御伺い致しました。御身体の具合が悪いようでしたら、診療所まで御送りしますが」
「え? ……嗚呼」多分、顔色が相当悪いのだろう。頬を撫でる。髭剃りたい。
「大丈夫。夢見が悪かっただけだから」
「承知しました。もし具合が悪くなったら、すぐに仰って下さい」一貫して無感情な声音と表情だ。メイドが無表情ってどうなんだろ。
「どうも。……その説明って、結構長い?」
「はい」
「じゃあ部屋の中で。座りたい」
メイドを引き連れて部屋の中へ。……他人事なら面白い。ベッドの縁に腰掛ける。このまま寝転がりたいのを我慢しながら、一応メイドに椅子を勧める。案の定「御気遣い有難う御座います」とか言って、メイドは立ったまま一礼した。
「これから、玖時真さまの」「蝙蝠」またかこの連中。「その名前、嫌いなんだ」
「畏まりました。では、蝙蝠さま」メイドが淡々と応える。「これから蝙蝠さまの補助を致します。至らない点も多々あるかと存じますが、どうぞ宜しく御願いします」
「……宜しく」丁寧なメイドをぼんやり眺める。何だろう、これ。「何から訊こう……えーと、補助っていうのは」
「一般的なルームサービスは勿論、神社の伝令も兼ねております。総合世話係だと思って頂ければ」
「嗚呼、『神社』の」まあそら居るよな。「ということは、普段はメイドじゃないのかな」
「いえ、普段から当ホテルにて働いております。業務について素人という訳ではありませんので、御安心下さい」
そこは特に気にしていなかった。
「うん、どうも。おねえさん、名前は?」
慌てることなく申し訳ありません、とメイドが謝罪する。名乗りが遅れたこと、ではなかった。
「呪術師に名前を教える勇気がありませんので、御容赦を」
「……へェ」
随分古典的な認識だ。別に間違ってはいないが。
「神社にはそういう術者が多い?」
「どうなんでしょう」メイドが小首を傾げた。ちょっと可愛げが増す(が相変わらず無感情だ)。「申し訳ありません、詳しくは御答え出来かねます」
「秘密主義なんだな、神社。余所者に情報与え過ぎるのも危険だけれど」
「いえ、神社の方針として御答え出来ないのではなく、私の力不足です」再度メイドは「申し訳ありません」と頭を下げて謝罪した。
「私に呪術の知識が殆どありませんので、どういう術者が居るのかも把握しておりません。必要なら神社の術者に訊いておきますが」
「……、…………そうなんだ」
驚愕を抑えるのに一応は成功。危なかった。即応出来なかったのは痛い。
いや、でもこの女、何でそんな見れば分かるようなことで嘘を吐いた……嗚呼、いや。これは本来見ても分からないこと、だ。
つまり神社は僕のことを良く知らない……いや、まだ判断してはいけない。知っていることを知らないというくらいは簡単だし。
「じゃあいいや」メイドの名前をあっさりめに諦める。「えーと、説明か。まさか明日襲撃に予定変更したとか?」
冗談(三割くらいは有り得ると思った)に対しメイドは「いいえ」と首を振った。
「そう重要な話では御座いません。朝食についてと、身分証について、表向きの依頼について。それから、企と野や各組織について気になることがあれば私が御答えします。ですので、御身体の具合が悪いようでしたらすぐ仰って下さい」
「……そんなに顔色悪い?」
「先程より少々良くはなりましたが」
少々か。
「まあいいや。朝食についてから聞こうか」
「はい。毎朝、御部屋に御届け致します。神社の監視も兼ねておりますので、御了承下さい」
「分かった」断れないのが分かり易いのはいい。「依存性の高い物混ぜたり?」
冗談(五割は有ると踏んでいた)に特に動じることなく「いえ、そのようなものは入れません」と否定した。入れてても言わないだろうけれど。「当ホテルの料理人が、健康面に配慮した御食事を提供致します。当日に体調を崩されない為でもありますので」
それはどうも、と適当に返事。
「朝食の時間は決めておきますか。朝起きられてから御連絡頂いても構いませんが」
「七時で」
「畏まりました。早起きなんですね」
「……そう?」
「ええ。朝から働かなければいけない訳でもありませんのに」
「まあ昼寝しようと思えば出来るから、睡眠不足にはならないようにするよ」
「宜しく御願いします。苦手な食べ物は御座いますか」
「いや、特には。……あ、食は細い方だと思う」
「畏まりました。少な目にしておくよう料理人に言っておきます」
「有難う、助かる」