第99話
この頃は、リリアスの行きたい場所の話で寝たきりの宰相と会話をし、気力の無い彼を元気づけようとしていた。
海を見た事が無いとリリアスが言うと、宰相は驚いた顔をした。
「王都の者は大抵海を見た事がありませんよ。湖の大きいのが海なんですよね?」
宰相は、リリアスの子供のような間違いに声を忍ばせて笑った。
「しょっぱい水で、湖のように穏やかではなく、いつも強い波が岸に押し寄せている、とてつもなく大きい物ですよ」
「水がしょっぱいのですか!? 信じられないわ!」
リリアスの驚愕の声がまた愉快で、宰相は小さな声を上げて笑った。いつもこうして笑っていて欲しいと、リリアスは思った。
宰相一人が背負うには、この謀反騒動は大きすぎた。すべてを引き受けて死のうとしていた宰相が、あまりに可哀想で話を聞いた時は泣いてしまったが、今は自由気ままに生きても良いのでは無いかと思っている。
――皆で小旅行で海に行ってみたい――と孤児だったせいで、家族での楽しみを何一つ知らないリリアスは、願い事の様に言った。
宰相も頷いて、話に乗り気のようだった。
このまま話を進めて行けば父が宰相を、他国に連れ出してくれるかもしれないと思い始めていた。
「解散ですか?」
医師がリリアス達に事情を話してきた。
「そうなんだ、患者も減って来たし王都への人の移動も許可されたので、この救護所は無くなるんだ。医師達も自分の家に帰る」
大きな建物の中も人が減っており、足の踏み場もないほど患者で溢れていた部屋も、回復を待つ人々だけで症状が出ている患者はもういない。看護の人達で賑やかだった食堂もニ、三人程しかいなくなっていた。
建物もいずれ閉鎖される事だろうし、人並みが戻ってきた通りを包帯を巻いた宰相を移動させるのは酷く目立つ事だろう。
リリアスは慌てて、父に連絡を取るためにオテロが馬を走らせ、侯爵に事態を告げに行った。
「この建物も閉鎖が真近のようなのです、閣下はどうなさりたいですか?」
宰相に望みが無いのは分かっているが、一応聞いてみたかった。
これからの国の行く末や、人の働き方も見えているだろうが、きっともう宰相は、関わりは持たないつもりだろうと思ったからだ。
「……皆に救われた命ですから、大事にしなくてはならないのでしょうがね……」
宰相は、歯切れの悪い返事しかしなかった。
「それなら、私と一緒にマダムジラーの所に行ってみませんか? 父の所は目立つでしょうし、閣下も他の貴族の方と、繋がりを持ちたいとは思わないでしょう? マダムの所は女性ばかりですし、閣下の事を詮索する人もいませんわ」
「貴女は、ヴァランタンの所には行かないのですか? 彼は貴女と暮らす事を望んでいるでしょうし、陛下にも、立場をはっきりさせようと思っているはずですよ?」
リリアスは首を振った。
「まだその気にはなれません。私はやっぱりお針子の仕事をしたいです。布を裁断して縫って綺麗に仕上げていく事が好きなんです。父の気持ちも分かります、ずっと私を探してくれていたのですから。でも今すぐに、貴族の令嬢になんてなる事は出来ません」
宰相は自分と話しながらも、針を持って布を縫っている姿を見て、このまま十分に貴族令嬢になれると思うのだが、平民として育った事が彼女の引け目になっているのだろうかと考えた。
「人は出自で決まるのではありませんよ。王太后の事を考えて御覧なさい。貴族の娘に生まれながら、人格も気品も持ち合わせず、己の欲望に忠実でしかなかった。それに比べて貴女は孤児として育ちながら、自分の仕事に熱心で一流の腕を持った上に、父の名を汚したくないという気持ちで、誰もが嫌がる病人の世話をし続けた。貴女が誇り高い貴族でなかったら、一体誰が貴族令嬢だと言うのですか?」
リリアスは、急に熱弁を振るった宰相に驚き手を止めた。
宰相が、自分を貴族令嬢と認めてくれるのはとても嬉しいが、それでも貴族として宮廷に上がるのは嫌だった。
ラウーシュと行った王宮の舞踏会は、美しいドレスを着た貴婦人で一杯だったが、あそこにドレスを着てまた行きたいとは思わなかった。
やはりドレスを着るより、作る方が性にあっている。
「私は宮廷で貴族の男性とお話をするより、工房でドレスを作ったり刺繍をしている方が良いです」
宰相はリリアスの強い意志は、やはり父親の血を受け継いでいる様に思った。
ブリニャク侯爵は人にどれほど言われても、自分が納得しなければ正しい事でさえ引き受けない頑固な所があり、それでいて割の合わない事でもその気になれば、気軽に引き受けるという変な所もあるのだ。
宰相は、少し傍でこの娘を見ていたいと思っていた。
「分かりました。貴女と一緒に洋裁店に行ってみましょう。それに執事長が今世話になっているのでしょう? きっと気を揉んでいるであろうから、丁度いいかもしれない」
「本当ですか? じゃあさっそく支度をしましょう」
リリアスはさっさと立ち上がって、部屋を出て行ってしまった。
「いや……反対はしないが、私の屋敷の方が人手はあるんだがな」
オテロと一緒にやってきたブリニャク侯爵は、リリアスから宰相とジラーの所に帰ると聞いて納得いかない顔になった。しかし自分が頭の上がらない宰相が、そう決めたのなら反対は出来なかった。
夜を待って馬車で二人をジラーの所に送り届ける事になった。
オテロは先にジラーの所に行き、執事長に宰相の訪問を告げた。
ジラーの所で主人の心配をしていた執事長は、泣かんばかりに喜び早速ジラーに主人の部屋の用意を頼んでいた。
ジラーは、執事長が貴族の使用人と聞いて預かってはいたが、まさかその主人も居候にやって来るとは思わなかったので大慌てであったが、リリアスが帰って来るのは大歓迎であった。
深夜ゆっくりと馬車はジラーの店の裏にやって来た。
真っ先にリリアスが勢いよく馬車から飛び降りて、手助けをするために手を出していたオテロは、苦笑いだった。
その後に宰相がゆっくりと姿を現わすと、オテロと執事長が傍により体を抱くようにして、馬車から降ろした。
「旦那様……」
執事長はそれ以上言葉にならなかった。
瀕死の主人を置いて、自分だけがジラーの所に来てしまったのが悔やまれる日々だったのだ。
コエヨと一緒に燃え盛る屋敷から、命からがら主人を救い出した時はもう助からないと覚悟したが、主人は命を取り留めこうやって自分の目の前に立っている。
髪の毛は茶色になり顔は包帯で半分塞がれ骨が折れているが、その片方の目はいつもと変わらない、静かな湖のような落ち着いた物に戻っていた。
廃屋で看病していた時の何も映していない、虚無感漂う主人にあるまじき暗い瞳ではなかった。
主人は、心も病み抜けたのだと確信できた。
「リオネル……心配をかけたな」
宰相は、横に居る、執事長に声をかけた。
「勿体ないお言葉でございます」
執事長は頭を下げて、主人に用意した部屋に先導した。
廊下でジラーがリリアスと宰相を迎えたが、寝巻姿の上に顔が半分包帯で覆われているのに驚いたが、顔には出さなかった。
「マダム、オル様です」
リリアスは名前だけをジラーに告げた。
「ジラーでございます。十分なお世話ができるかは分かりませんが、どうぞごゆっくり御静養なされて下さいませ」
ジラーは身分も本当の名前も聞いてはいないが、事情がある貴族とは理解できたので、リリアスを信用して彼を受け入れたのである。
ジラーは宰相の顔は知っているが、髪の色も違っているし顔も包帯で隠されているので、気が付く事が出来なかった。
リリアスはジラーが宰相だと気が付くのではないかと、冷や冷やしていたがその素振りがなかったのでほっとしていた。
知らずにいた方がジラーが、精神的に楽でいられると思うのだった。
リリアスはしばらくぶりの店に、思いっきり空気を吸い込んだ。
いつの間にかこの店が、自分の戻る場所になっていたことに驚いたが、誰も居ない静かな場所が自分を迎え入れてくれている様に思えた。
王妃のドレスを製作している部屋に入ると、綺麗に掃除された部屋の奥に白い布を掛けられたトルソーが立っていた。
薄暗い部屋ではドレスの刺繍が見えない為に、明日ゆっくりぺラジーと見ようと思った。




