第98話
リリアスの看護の賜物か、宰相の火傷も膿むことなく段々と良くなり、少し楽になってきたようだ。
疫病も下火になってきており、亡くなった大勢の人々も城外の草原で淡々と焼かれているが、この頃は新たな死人は出ていない。
「ようやく落ち着いてきましたよ。もう皆さん体力が回復して、次々と家に帰っています」
宰相の横で洗ってほつれたり穴が開いた服を直しているリリアスは、弾んだ声で教えている。直した服を帰る人々に持って行ってもらっているのだ。皆仕事も出来ず収入が途絶えていたので、少しでも助けになればと無償で贈っている。
針仕事をしながら、宰相に下町の奥さん達から聞いた噂話や、近所でのゴシップを脈絡なしに話している。
宰相は、相槌も打たず黙って聞いているだけだった。リリアスも、宰相との会話や返答を期待しているのではなかった。ただ死んだように気力なく横になっている彼に、少しでも庶民の明るさを受け取って欲しかったのだ。
夫の浮気に箒を持って追い回した奥さんや、一日の稼ぎを飲んでしまった旦那に水を掛けて、一晩外に追い出した奥さんの笑い話などの、一生懸命生活している庶民の逞しさから力を貰って欲しかったのだ。
国も住民が外にでるのは禁止しているが、商人や農家の出入りは許可するようになった。農家は別だが商人は王都から出る時は、城外で一定の日数を掛けて滞在してもらい、発病しなけれな他の土地に行っても良いと言う事になっている。
やっと食料が入ってきて、王都の住民も飢えから解放されつつあった。
宰相も、新鮮な野菜で作ったスープを飲んでいる。
「オテロは私が生まれた田舎の事を話してくれます。牛が多く飼われていて、人より牛の方が多いんですよ。馬を使って畑を耕しているのですって。山が遠くに見えて、冬はその頂上に雪が積もって綺麗なんですって。いつか私を連れて行きたいって言ってます。閣下も御一緒にどうですか?」
「ふーん、ヴァランタンは、結構遠くの土地を選んだみたいですね」
庶民の話には乗ってこなかった宰相が、リリアスの事になると関心をもって話して来た。
宰相にはその場所がどこか分かるのだろうかと思い、――知っているのか――と聞いてみた。
宰相は大体想像が付くと言い、
「ずっと王都にいて、話には知っていても実際には行った事が無い場所ばかりで、自分はそういう意味ではこの国の事を、良くは知ってはいないのだろうな」
リリアスは少しは生きる事に関心が出て来たのかと、嬉しくなった。
「王都に住んでいる人は皆そうなのではないですか? ここは生活するには便利ですし、田舎に行きたいと思う人はあまりいないのかも」
本当の田舎を知らないリリアスは、大変な農家の生活など想像もつかない。
「そんな事はありませんよ。都会の貴族などはわざわざ田舎に農家風の別荘を建てて、百姓の姿をして畑を作る真似事などするそうですよ」
部屋の戸口で話が聞こえたラウーシュが、面白げな顔をして話に加わった。
「まあ、貴族の方がお百姓さんの姿をするのですか? 可笑しいわ」
「本当なのですよ。でも着ている農夫の洋服が絹でできているのですから、お遊びですよね」
リリアスは、絹の農夫の服など想像するにも可笑しくて、クツクツと笑っていたが、ラウーシュはその顔を見て微笑んでいた。
「今日のおやつは、ゼリーですよ。中には我が家の庭でなった、ベリーが入っています。これも料理長得意のデザートです、暑さで溶けないうちに召し上がって下さい」
レキュアがバスケットに入れて持って来たゼリーを型から外し、皿にミントの葉などを添えてリリアスと宰相に配膳した。
宰相はこの頃起き上がる事ができるようになり、膝の上に小机を置いてそこで冷えたゼリーを口にした。
声には出さないが、満足なようでそれを見てからリリアスも、ラウーシュと一緒に口に運んだ。
酸っぱいベリーと甘いゼリーが交じり合い、丁度良い美味しさだった。
ラウーシュはテーブルに群青色の小瓶を出して、リリアスに勧めた。
リリアスはそれを手に取り、瓶に刺さっている涙型のガラスの栓を抜き臭いを嗅いで見た。
「そろそろ仕事に戻るのでしょう? 妃殿下のドレスの仕上げは宜しいのですか?」
リリアスは気にはなっていた話が出て、暗い表情になった。
「きっともう、ぺラジーが完成させているはずです。疫病のせいで注文は来ないから、時間はたっぷりあるから完成してますわ」
残念そうな顔をしているリリアスに、ラウーシュはレキュアから受け取り、テーブルの上に手紙を置いた。
「ペラジーから預かってきましたよ。なかなか帰ってこないから、気を揉んでいるみたいだった」
リリアスは急いで手紙を開くと、――早く帰ってこないから刺繍が終わらない――とペラジーらしい言いまわしで、リリアスの帰りを待っているという気持ちが伝わって来た。
手紙を読むリリアスの表情が明るい物になるのを見て、
「本当にジラーの所に帰らないと、ぺラジーが迎えに出向いてくるかもしれないですよ」
と、ラウーシュは笑った。
ラウーシュは群青色の小瓶を指して、
「手が随分荒れていて仕事に差し障りが有るかと思い、母が使っているクリームを持ってきました。帰るまでには、以前の指に戻りませんとね」
リリアスはラウーシュの心遣いが嬉しかった。
夏の暑い頃だったから水仕事も苦にならなかったが、指が荒れるのだけが嫌だったのだ。そっと小瓶からクリームを手に垂らし、指に擦り込むように馴染ませた。
薔薇の香料が匂い心が躍った。
「ありがとうございます……ラウーシュ様……」
リリアスが口ごもった呼び名に、ラウーシュは口を尖らせた。
「ラウーシュとお呼び下さいと、ずっと申し上げておりますよ。いずれは閣下も、陛下に貴方の事を話さねばならないのでしょうが、そうなれば私もこうして近しくお傍には、居られないと思っております……」
残念そうなラウーシュの顔に、リリアスは慌てた。
「何を仰います。私は……」
それ以上言える言葉が見つからなかった。
どうしたいのか、どうなりたいのか、はっきりと答えがまだ出せないでいる。
「やはり、貴方の母上はイズトゥーリスの……」
宰相が確認するように言った。
「閣下はご存知なかったのですか?」
ラウーシュが意外な顔で聞いて来た。
「ヴァランタンの行動が大ぴら過ぎて、リリアス嬢が娘御なのは明らかだったのですが、母上の事は認めたくなかったですね」
宰相もイズトゥーリスとの戦争以前には交流があって、第一王女のセルウィリア姫とも面識が有ったのだ。王が寵愛していた王女は幼かったが美しく、将来が楽しみな人であった。それが何度かブリニャク侯爵が、イズトゥーリスを訪問しているうちに、恋仲になるなど誰が思っていただろう。
猪突猛進のブリニャク侯爵もさすがに、誰にも話す事ができず、友人の宰相にも最後まで打ち明けなかったのだった。
「早くに言ってくれればどうにでも出来たのに、そういう所で遠慮するから物事が複雑になるのですよ。普段は遠慮などしないのに、全く馬鹿につける薬はありませんね……失礼。貴女の父上でしたね」
包帯で巻かれた顔の、一つしか見えない目を見開いて宰相は、自分の毒舌を謝った。
「ラウーシュ卿は、これからどうするつもりですか?」
宰相の頭は知らず知らずのうちに、国の事を考えているようであった。
「父が当主の間は、補佐をするつもりでおります。今回の事で体が弱り、今は私が代理で宮廷に出仕しておりますが、現在は他国との輸出入の事案に携わっております。少し他国に行っていた経験があり、諸事情はある程度分かっておりますので」
ラウーシュが恥ずかし気に宰相に報告しているが、貴族にしては他国の物価事情を理解しており、商業取引には強い所を見せていたのだった。
他国で金に糸目をつけない贅沢な買い物をしていたのだが、品物の良し悪しを見比べるうちに、商品の価値観や価格がそれに比例しないのが分かってきたのだった。
ラウーシュが良い品と思う物を、相手がその価値に気付いていないのなら、安く買い叩く事に遠慮があるはずもなかった。
貴族のボンボンの若様が、父親が好きで行って来た他国との輸出入の仕事を引き継いでいるのだが、思わぬ能力が発揮され皆を驚かせていた。
「それはシルヴァンが喜ぶであろうな」
宰相も嬉しそうに頷いていると、リリアスも笑ってラウーシュを見ていた。




