第96話
ベッドの傍で皆が、椅子に座っている。
デフレイタス侯爵親子、ブリニャク侯爵親子、オテロ、レキュアと従者も部屋の隅に立っていた。
小部屋なので椅子を置いた段階で、すし詰めである。
あまりの暑さに部屋のドアを開けていて、人払いはしていた。
もっとも貴族と分かる人物が来ているのに、近づいて盗み聞きをする者もいないだろう。
宰相は無表情であったが、傷の手当をしていて知っているリリアスは、どうして痛がらずに淡々としているのか不思議だった。普通の人なら、痛みで泣き叫んでいる状態なのだ。
汗ばんでいる宰相の顔を、濡らした布で拭った。
「初めてそれを考えたのは、昨年の暮れに陛下から王太后の恩赦の意向を聞かされた時です」
一同はそれでまず驚いた。
王からの発言は今年の早春で、宰相はもっと早くに聞いていたのだ。
「勿論反対しました。あの人を宮廷に戻しては……いえ、幽閉を解いてはいけないのです。それは貴方達なら分かっているでしょう?」
二人の侯爵は頷いた。
十代の若い頃から王太后には、散々苦しめられていたのだから。特に宰相は、恨みが強いはずだった。
「もう、衝撃でしたよ。陛下が、そのような事を仰るとは思いもしませんでした。ボケたかと思いましたよ」
ブリニャク侯爵が、――ゴフッ――と噴出すと、デフレイタス侯爵が鋭く睨みつけた。
時々宰相は真面目な顔で、冗談を言うのだが常々それはあまり笑えないものだった。
「我が国は上手く行き過ぎたのです。平和で豊かで、なに不自由無く。陛下がボケたと言いましたが、国が、貴族全体が平和ボケしていたのです。決して……過去の苦しみを忘れてはいけなかったのですよ。世代交代が始まり、昔を知る者は老人となり引退し、平和しか知らない若者が後を継ぎ始めた……」
子供の頃から平和な時代と、潤沢な財産を受け継いでいるラウーシュには耳が痛かった。
政治の事など考えず、己の享楽にこの年まで浸っていたのだから。
却ってリリアスなどは、孤児として生きてきた分貧しい者や弱者の痛みが分かっていた。
ラウーシュはベッドの向こうの、ブリニャク侯爵の横に居るリリアスを見ていた。彼女は真剣な顔で宰相を見つめ、時折布で顔を拭いているが、頷く表情は話に納得がいっているようであった。
年下の彼女のほうが、宰相の話を実際に体験しているのが、ラウーシュには引け目に感じた。
若いのにしっかりしているのは、市井で育った事と孤児として苦労したのが理由で、自分がお気楽に生きて来たのとの違いを感じている。
もっと自分もしっかり生きねばと、思わざるを得なかった。
「それを、貴方が責任と思うのは違うのでは? 戦争を経験した老人達もいるし、皆がそれぞれ責任を持っているでしょう」
ブリニャク侯爵の言葉は、戦争で国に貢献し責任を果たしてきた人の自信から言える物で、他の者はやはり責任という言葉の重さを感じていた。
宰相は頭を振った。弱弱しい仕草は彼の疲れによる物だ。
リリアスは宰相に水を飲ませ、誰が用意したか分からないが、ボロボロになった扇で風を送った。
「私は一国の宰相としてのプライドがあります。国を導くのも政治の一つ……良い時も驕らず上手く舵取りをせねばならない。私は、肝心の陛下への心配りが出来ていなかったのに、愕然としたのです」
それは王と共に国を治めて来た宰相が、人生の終わりが見えた時点での最大の失敗だと思う程の事だったのだろうか。
「それが、王太后の恩赦と言う形で現れたのですよ。私は王太后を憎んでいました。兄を殺され、人の命など自分の欲望の為なら虫の様に殺す彼女を、憎まずにはいられませんでした。しかし法が彼女を幽閉にすると仕置きするならば、それでも良かったのです。……恩赦の言葉が出た段階で、私が憎む相手は陛下になったのです」
ブリニャク侯爵は思わず椅子を蹴飛ばし立ち上がった。
「まさか!! 貴方が陛下をお恨みするとは!!」
「それは間違っている!!」
デフレイタス侯爵も、声を荒げた。
ラウーシュは、父達が思ったよりずっと精神的に若い事に驚いている。
五十を過ぎてまだ王への忠誠心が、減るどころか増しているのに感動さえ覚え、それ故に自分達の世代が醒めているのに気づいていた。
これが宰相の言う、世代間の違いなのだろう。
「お静かに、声が響いて皆に聞こえてしまいます」
興奮で顔を赤くした二人にリリアスが声を掛け、オテロに茶を持って来て欲しいと頼んだ。暑く汗がでるので喉が渇くのだ、一息つくためにも丁度良かった。
「閣下……ご自分を悪く言われるのは、お二人には気の毒ですよ。からかうのはお止めになっては、どうですか?」
侯爵達は――えっ?――と間の抜けた顔をして、宰相とリリアスを交互に見た。
「お二人とも、閣下の御冗談を真に受けては駄目ですよ。閣下が陛下をお恨みしていたなら、とっくにこの国は閣下に乗っ取られていたでしょう?」
二人は宰相の身近に居過ぎて、酷く真面目に宰相の言葉を信じ受け止めていた。リリアスぐらいの距離間の方が、宰相の考えが分かるようだった。
「閣下!!」
「いつにもまして、酷い冗談だ!!」
二人は憤懣やるかたない。
オテロが茶を持ってきたので、気を落ち着かせる為に皆カップを取った。
小机を部屋の真ん中に置き、菓子をそれぞれの皿に分け、疲れた体に甘い菓子を取った。
「これは我が家の料理長自慢のパイです、先程は木苺が入っていましたが、これはどうだろう?」
ラウーシュが、パイを食べるために皿を持ったリリアスの、カップを持ち嬉しそうにしている。
「私の知らないうちに、、どうなっているのだ?」
「娘とラウーシュは以前からの知り合いだったから、まあ親しくなるのは普通ではないか? 嫁には出さんけどな」
「なんだそれは?」
仲良く菓子の話題で盛り上がっているリリアス達を見て、侯爵達は確実に時が、次世代に移り変わっていくのを感じていた。もう自分達は若くないのだと、改めて思っていた。
茶を取っている間に宰相は休息を取り、落ち着いた頃にまた話し始めた。
「王太后が戻って来る事が決定して、私はその時の為に計画していた事を実行に移した。……王太后とその意向に賛同する、国を滅ぼしかねない貴族の排除だ」
「なんと!!」
宰相の強い意志を感じる言葉だった。誰もが考えはしたが、実行されなかった事を宰相が決断した事の意味は大きい。
王太后はそれ程の悪であったのだ。
結果を見ればそれは実行され成功した訳だが、宰相が王太后と手を組む必要は無かったのではないかと、一同ずっと疑問に思っている事だった。
「だがそのために何故貴方が、王太后と協力せねばならなかったのだ。でっち上げでも虚偽の罪でも作り上げて、王太后を貶めれば良かったのではないですか?」
この世を少し斜めに見るデフレイタス侯爵らしい意見だったが、ブリニャク侯爵は渋い顔をした。いかに悪とは言え人を貶めるのは、気持ちの良い物ではないと感じるのは、剣で決着を付ける彼らしい反応だった。
「大ぴらに虚偽の罪ででも王太后を裁けば、陛下が義理の母を排斥したと歴史に残ります。あの、国民の支持を受けている圧倒的な正義の王を、親族殺しとして名を汚す事はできないのです。それはお分かりでしょう?」
宰相にボケたと言われる王でも、カリスマを持ち善王と知られる人物が、暗いイメージを付ける訳にはいかなかったのだ。
「それを、貴方がすべて引き受けたという訳ですか……」
デフレイタス侯爵は、宰相の方法は荒っぽいが王太后を排除するには、確実な物であると思えた。
現に王太后が死に、協力した貴族は捕まっている。国王や今の政治のやり方に不満がある者達は、炙り出されているわけだから。
「だからと言って、貴方が命を犠牲にしてまでやる方法だっただろうか? あの火事は偶然で貴方は巻き込まれただけで、王太后を殺したら他の貴族と共に、逃げ延びるつもりだったのでしょう?」
宰相は首を横に振った。
「いえ私は、あそこで王太后と一緒に死ぬつもりでした。……それが平和な国に慢心して緊張感をなくした陛下への、戒めだったからです」
侯爵達はその答えを驚きはしたが、受け入れる事が出来た。
ブリニャク侯爵は、戦争で命を落とすのは軍人としては当たり前で、自分も国のためになら命は惜しまないと思っているからだ。
デフレイタス侯爵は王に心より忠誠を誓っているから、滅私奉公の言葉の意味は理解している。
しかしラウーシュはまだ若く、王を身近に感じる程関係は深くないため、国に命を捧げる覚悟はまだ無い。
だから王を諫める為に、謀反人の汚名を着て命まで捨てる事に、違和感がある。
「それでは閣下のお名前や、、オルタンシア公爵の名はどうするのです? これから未来永劫、謀反人を出した家と言われ続けるのですよ」
「構わぬよ。それで王家が、王とは油断してはいけないのだと、ずっと思っていてくれるのなら、私の名前はどうでもいいし、私に近い親戚もいないのだから家が潰れても良いのだ」
リリアスが――わっ――と泣き出した。
ラウーシュが傍に行くより早く、ブリニャク侯爵が傍に寄り肩を抱いた。
「リリアージュよ、何故泣く?」
リリアスは気持ちが昂り嗚咽をこぼすばかりで、声を出せなかった。父は顔を胸に伏せさせ背中をさすった。
皆リリアスの気持ちは分かっている。人の目が無ければ、自分も声を出して泣きたいほどだったからだ。
「陛下に斬りつけた時は、忸怩たる思いであった事でしょう……」
その場面を想像するデフレイタス侯爵は、斬られた王の気持ちも斬りつけた宰相の気持ちも理解できて、体が震える程であった。
しんみりとしたデフレイタス侯爵の言葉に、宰相は――クククッ――と押し殺した笑い声を上げた。
皆ぎょっとして宰相を見た、気がおかしくなったのではないかと思ったのだ。
「陛下を弑し奉る気は少しもありませんでしたが、顔の傷を見て一生後悔すれば良いとは思いましたよ。それが死んでいく私の、意趣返しでしたかね」
それはやはり長年、王との厚い信頼関係が有ってこその宰相だから言える事で、他の者は不敬過ぎて考えも及ばない事だった。
やはり宰相は食えない人だと、一同納得していた。




