第95話
デフレイタス侯爵はベッドの上で目も開けられないほど、疲れ切っていた。
横にはブリニャク侯爵が椅子に腰かけて、神妙な顔でいる。
侯爵の後を追いかけて寝室に入ってきたラウーシュも、遠慮して窓の近くのソファーに座っていた。
執事が、茶を淹れてテーブルに置いていく。
「心臓に悪い……」
デフレイタス侯爵は、目をつぶったまま非難するように言った。
ブリニャク侯爵の、どこから突っ込めば良いか分からない程の爆弾発言で、侯爵は気絶しそうだった。
体が治らないうちに宰相の屋敷に出掛け、無理をしたせいで体調は悪かった上に、この発言だったのだ。
「閣下、まあ落ち着いてお茶にしませんか?」
ラウーシュが、居たたまれない感じの侯爵に助け舟を出した。
料理長自慢のパイやクレープも置かれ、久しい客に使用人が張り切っているようだった。
主人が倒れてからの騒動で、使用人一同暗い気持ちでいたので活気を感じたかったのかもしれない。
ラウーシュもブリニャク侯爵の持って来た情報に内心驚いていたが、父を刺激しないようにと感情を押さえていた。
食器の音しかしない寝室で二人は向かい合って、菓子を食べていた。
さっくりとしたパイは良く焼けていて、ラウーシュはリリアスにも食べさせたいと思い、侯爵はリリアスの元に帰るというので、料理長に追加のパイを焼いて貰い手土産にする事にした。
「どういう事かな?」
しばらくして、静かな声でデフレイタス侯爵が聞いて来た。
ブリニャク侯爵は立ち上がり、ベッドの横に急いで歩いて行った。
ベッドの横に立つブリニャク侯爵は、教師に立たされている生徒のようだった。頭が下がり肩が落ちている。しかし病気の友人宅に来て、驚愕の内容の話を二つも暴露したのだから、相手に怒られても仕方がなかった。
「宰相は、護衛の者が火の中から助け出したのだが、大火傷を負っていてまだ意識は朦朧としている。一度救護所から抜け出して、投降しようとしたらしい……。私の頭ではどうして良いか分からなくてな、お前の知恵を借りようと思ったのだ」
じっと聞いていた侯爵は起き上がろうとした。
「父上無理はいけません」
侯爵は、宰相が生きていると聞いて良かったと思うのと同時に、真実の話を聞きたいと思った。
宮廷に出られない為にラウーシュが代わりに出仕していたが、聞こえて来たのは心ない噂ばかりだった。
掌を返したような宰相への攻撃は、王に斬りつけたのだから当たり前なのかもしれないが、聞くに堪えない物だった。
死者には言い訳も出来ないと落ち込んでいたのだが、本人が生きているなら彼の本心を聞かせてもらおうと思う。
「怪我が重症ならば、生き伸びる事が出来ないかもしれない。その前に私は真実を知りたい。それにお前の娘がそこにいるのだろう?」
つっけんどんな友人の言葉にブリニャク侯爵は、頭を縦にコクコクと振った。思わず言ってしまった娘の事を、隠していたのを怒っているのだろうと思うが、諸事情が有ったのを理解して欲しかった。
「父上もお会いになりましたよ、マダムジラーの所でお針子をしているリリアス嬢ですよ。本当のお名前はリリアージュと仰いますけれどね」
ラウーシュが口を挟むと、侯爵達が――黙っていろ――とでも言うように顔を向けてきた。大人の男性の本気で切れかかっている顔は、父と見知った人でも怖かった。
ラウーシュはしょんぼりと、茶を飲んだ。
結局デフレイタス侯爵は、病気の体を押して出掛ける事になった。
埃で汚れているブリニャク侯爵と違い、いつも以上に着る物に気を遣い、銀の地に薄墨色の流水の様な模様が入っている上着を着てゆっくりと、馬車まで歩いて行った。前より痩せて上着がぶかぶかで、使用人もラウーシュも侯爵の衰弱ぶりに悲しくなってしまった。
ブリニャク侯爵は馬で馬車の横を並走し、周りの様子を気にしていてくれる。昼間でも王都の治安は悪くなっており、疫病の為に衛兵の巡回も少なくなっている。
街中を通ると人の姿は見えないが、住民が息を殺して生活しているのを、視線や気配で感じる事が出来た。早く王都の疫病を、駆逐しなければと思うばかりだった。
足を上げるのもやっとな父の背中に手を添えて、ラウーシュも階段を上った。ダンダンと勢い良く上がって行くブリニャク侯爵が、羨ましい限りだった。
部屋にはリリアスがおり、宰相の傍で相変わらず針仕事をしていた。
ラウーシュは、この間思いがけずリリアスを腕に抱き、軽かった体を部屋に運んだ時は胸が激しく鼓動を打ち、足がもつれて落としそうになった。
眠っているリリアスは日頃の大人っぽい顔ではなく、年相応な無邪気な娘のあどけない顔であった。
好きな女性の寝顔など見たことも無かったラウーシュは、その顔が忘れられなかった。
質素な洋服を着ているのに、背筋を伸ばし椅子に浅く腰かけ洋服を膝に乗せて針を持つ姿は、凛としていてとても美しかった。
「まあ、デフレイタス侯爵様……。お出でになってお体に触りませんか?」
慌てて立ち上がり、侯爵に椅子を勧めた。
侯爵も馬車に揺られてきたのは堪えたのか、素直に腰かけた。
そしてじっとリリアスの顔を見て、
「ああ……ジラーの所の針子とは、そなたの事であったか」
と、リリアスの顔を見て、知っている娘と認識したのだろう納得した顔になった。
「人の娘を、そなたなどと言うのではない!」
「おお、失礼した……リリアージュ……嬢?」
デフレイタス侯爵は軽く頭を下げて、リリアスの手を取り口元に持って行った。
リリアスは、侯爵の態度に困った顔をして父の方を見ると、貴族の息女への挨拶の一つにも拘わらず、ブリニャク侯爵は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
それはラウーシュも同じで、父の行動は理解ができるが、感情面で嫌悪を感じた。
デフレイタス侯爵は、部屋に入ってからの息子の表情と態度に、驚かされていた。
――リリアージュ嬢を見る顔は、恋する者の顔ではないか――と一度も見た事のない息子の思慕の念に、青臭さを感じ閉口した。
宰相との再会に緊張して訪れてみれば、息子の恋愛事情を知ってしまった気まずさが、侯爵を襲っていた。
椅子にでも座らなければ、膝を付いてしまいそうなほどの脱力感を、味わったのだった。
そして、部屋に入ってから目の端に捕らえていた宰相の姿を、気を引き締めて見た。
その姿に驚き、そして哀れささえ感じた。
どこを間違えれば天下のオルタンシア公爵が、このような姿にならねばならないのかと、デフレイタス侯爵は拳を握って憤りの感情を押し込めた。
それでも口癖になっている憎まれ口は、思わず零れ落ちる物で、
「貴方の惨めな姿を、初めて見てしまいましたよ」
と、独り言のように呟いていた。
宰相の目が開かれ、しっかりと声のした方を見てきた。
開いた片目には感情は無く、ただ静かな湖のように底が見えない物だった。
「やっと私を捕らえに来たのですね」
口ぶりはほっとした物だったが、それがデフレイタス侯爵の癇に触った。
「何を無責任な事を、言っているのですか。貴方には、この謀反の説明を私達にせねばならない義務があるはずだ!」
すっかり弱くなっていたはずの侯爵は怒りからか、部屋に響く声を上げた。
宰相を尊敬していると自覚しても、長年の習性は変わらないようで、結局は反発して怒鳴る行為になってしまった。
宰相は侯爵の言葉に、
「義務ですか……シルヴァンとヴァランタンにですか」
と、少し微笑んでブリニャク侯爵に目を向けた。
ブリニャク侯爵は、その眼が冷めているのに気づき、宰相のいつもの冷静さに背筋を伸ばした。
宰相は部屋に居る者に、椅子に座るようにと言い付けた。
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