第93話
糸を数本束ねて針に通すが、引っ張る指に糸が絡まる。振って外そうとするが、ささくれに引っ掛かり取れない。
「もう……」
糸の撚りを取ろうとすると滑らせた指が引っかかる。荒れた手を見て、溜め息をついた。
なるべく宰相の傍にいて、様子を見るようにしているが、その時に父から渡されたハンカチに刺繍をしようとしたのだった。
この手では絹のドレスを縫うどころか、刺繍が儘ならない。手の甲をこすってみたが、それで解決するものではなかった。
それでも刺繍をしなければ手が鈍るから、針仕事が出来るのは嬉しかった。
上等のハンカチを枠でピンと張り、下書きした文字の上を白い糸で刺していく。
糸をもったりと横に張りその上から糸を刺していくと、膨らみのある手触りの良いイニシャルが出来上がるのだった。
「上手くいかないわ」
納得のいかない刺繍に、独り言で呟いた。
「何が……問題、なのです……」
ベッドからかすれた声が聞こえ、リリアスは驚いて顔を上げた。
頭と顔半分に包帯を巻いた宰相が、こちらを見ていた。
「気分はいかがですか?」
慌てて顔を覗き込み問いかけると、宰相は顔を歪めて息を荒く吐いた。
「生きていますね……」
宰相の声は沈んでいて、喜びよりもどちらかと言えば悔しさが滲んでいた。
死んだ方がずっと楽だったろうと思うが、それでも生き残ったのだから、懸命に生きて欲しかった。
「護衛のコエヨさんが閣下をお助けして、執事長の方と看護なさっていたのですが、お熱が下がらず救護所に連れてきました」
宰相はじっと天井を見て、――救護所――とつぶやいた。
覚えがあったのか、軽く頷いて
「あなたは?」
と聞いて来たが、自分を閣下と呼び部下の名前を知っている女性が、不思議だったのだろう。
目がはっきり見えないのか、リリアスの事が分からないようだった。
「リリアージュです。ブリニャク侯爵の娘です」
本当の事を言った方が、安心するだろうと思った。
宰相は片方の目を見開いて、じっとリリアスを見た。目の焦点が合わないのか、虚ろに瞳をさ迷わせ、やっとはっきりしたのか少し笑った。
「ここで何をしているのです、病がうつりますよ」
真っ先に出た言葉がリリアスを心配する言葉で、まるで父親のような態度が可笑しかった。リリアスは、頭を冷やしていた布を取り搾り直した。
「ここが国に用意された時から、お手伝いしています。私も、一応貴族の端くれの様なので……」
リリアスの言葉に宰相はくすりと笑い、――どうせ父親と同じで、言っても聞かないのだろう――と独り言のように言った。
コエヨと執事長の事情を話し、医師を連れてくると言ってリリアスは部屋を出た。
「火傷の化膿が心配ですが、あの家よりはここは清潔ですから、安心して下さい。……ところで、お名前をお聞きしていなかった」
医師は淡々と傷の話をして、宰相の顔も見ずに開いていた胸元の服を直した。
リリアスは動揺し慌てて早口で、
「オ、オルさんです! オルさん……オルさんて皆呼んでます」
宰相が口ごもると不味いと思い、とっさに名前を言ってしまっていた。
「ふ~ん、オルさんねえ。骨も折れているし、暫く治療には掛かりますが、気持ちをしっかり持って下さいね」
医師は宰相の見えている目を診察して、すぐに部屋を出て行った。今は薬を塗って包帯を変える事しかできなかったからだ。
「すみません。偽名をと思ったのですが、何も浮かばなくてとっさに言ってしまいました」
「構わん」
宰相はそれっきり黙り、リリアスも刺繍に集中できた。
宰相は食事は少ししかとらず、骨折のせいで身じろぎも出来ず、暑い夏の苦しさを味わっていた。
宰相の世話にはオテロもやって来て、体を拭いたりしていた。
「オテロ……、ご主人様には知らせていないのか? どうした? 不忠義者め、私ならば鞭うってくれように」
主人と居る時の宰相は物静かで、軽口は叩くがオテロなどの身分の低い者たちには、却って丁寧な物言いをする人だった。
それが今は憎まれ口を叩いていて、本来の宰相らしからぬ物だった。
オテロは反論も出来ず、ただ黙々と宰相の体を拭いていた。部屋に二人っきりで、宰相が何か言い出すのではないかと、冷や冷やしながら仕事をしていた。
夕刻、食事の支度や、病人の世話で忙しい時だった。
食事を最後に宰相の所に持って来たオテロは、ベッドに宰相が居ないのを見て食事を落としかけた。
あの体で歩けるはずが無いと、オテロは窓から建物の下の道路を覗いた。まさかとは思ったが、道路には誰も転がってはいなかった。
小用かと思ったが、それもオテロが世話をしているので、そのようなはずはないと思いながら、三階の便所に行ったが勿論いなかった。
一階に降りて病人を世話している人に聞いて回ったが、食事の時間で忙しくて、誰も見た者はいなかった。
食事の世話をしているリリアスも、遠くからオテロの様子を見ているが、今は傍に行けずここで騒いでも人目を引くと思い黙っていた。
オテロは外に行ってみた。
夕方の食事時である、誰も外には出ていない。
偽名を呼びながら小路を探して歩くが、このような道を歩ける体ではないので、街を探すのが無駄な気がしていた。
歩きながら一瞬目に入った白い物に気が付き、小路に入るとリリアスが縫った寝巻を着た、宰相が裸足で壁伝いに歩いていた。
痛くて曲がった背中や、頭に巻いた包帯が、宰相を老人の様に見せていた。
「閣下!!」
思わず敬称で呼んでしまったが、政権の頂点に居た宰相の姿と比べると、あまりに惨めな様子に呼びかけだけでもと、思ったのかもしれなかった。
壁に寄りかかった宰相は、肩で息をしながら振り返ったが、包帯に巻かれた顔は汗が吹き出し唯一見える目は、疲労で塞がりかけていた。
オテロに見つかれば移動する事もできないと諦めたのか、ずるずると体を壁沿いに滑らせ、道端にくずおれた。
「どこに行かれるつもりだったのです」
道に跪いてオテロは優しく尋ねた。
宰相は黙ったままだった。
宰相の腕の下に手を入れ抱き起こし、立ち上がらせてゆっくりと歩かせた。
トボトボと連れて行かれる宰相は、まさに囚人のようだった。
「……投降するつもりだったのだ。私はあそこで死なねばならなかった。……オテロ、私を衛兵の所に連れて行け」
とんでもない事を言い出した宰相に、オテロはどうして良いか分からなくなった。
なるべく人目に付かない様に、救護所の裏口に辿り着き、三階に連れて行くために宰相を抱き上げ運んだ。
リリアスが三階の部屋の中でうろうろと歩き回りながら待っていて、
「これ以上遅かったら私も探しに行くところでした……」
と、青い顔をしていた。
ベッドに横になった宰相は、
「お前たちの考えは分かっている、私に同情しているのだろう? その様な物は私には必要ないのだ。私が欲しているのは――死――のみなのだ」
と、頑なに訴えるので、二人は扱いに困り始めた。宰相は普段は温厚で我が儘も言わないと知られていたので、この態度はオテロには意外であった。
「閣下せっかく拾われた命です、どうかお大事になさって下さい。そうでなければ、火傷を負ってまで助けたコエヨが、可哀想でございますよ」
「コエヨがか?」
宰相も意外そうに驚いた様子で、黙ってしまった。
無理に動いたせいで、熱が高くなり骨折した場所も痛いようで、宰相は夜になって苦しみだした。
傍に付きっ切りのリリアスは、額を濡らしながら、痛みで震える宰相を見て一つの決断をした。
「動けないのなら、一人にしていても大丈夫だったけど、あの調子ならまた脱走しそうでしょ? 一日付いているのは無理だし仕方がないから、秘密を解禁しましょう」
宰相が救護所に来てからたった数日でこのありさまだった。
「それに閣下は、あの事件で話しておかなければならない事があるはずよ。それを、皆が知らなければいけない気がするの」
「お嬢様……まさか、旦那様に?」
リリアスはコクリと頷いた。
オテロは自分の主人に対して、酷く失礼な事ではあったが、それは悪手の様な気がするのだった。




