第90話
真っ白なシーツが青い空にはためいている。
風も後押しをして、大小様々な洗濯物はすぐ乾くだろう。皺の寄ったところを叩いていると、手に目がいった。
水仕事などしたことが無かったので、夏とは言え乾燥気味の手は指先の皮がむけていた。外に居る時間も多く顔や腕も、日に焼けて少し黒くなっている。
水を使った後はクリームを塗ったりしているが、それがなかなか追い付かない。女が一日家事をするとどれほど水を使うのか、良く分かった。
「侯爵の娘と分かってからのほうが、手が荒れるってどういう事かしらね」
洗濯桶を逆さに立てかけて、リリアスは笑いながら屋内に入っていった。
救護所に入ってきた病人はある程度病状が安定してきて、ここでは病人が少なくなってきている。
一時道に溢れた病人は救護所に引き取られ、死人は草原で焼かれていた。
あまりに多くの死人を見てしまい、感情が凍ってしまったように感じていた。戦争の時もこのような感覚だったのだろうかと、思わずにはいられなかった。
人はどんな事があっても、それに慣れて生きていけるのだと、実際に体験してみて良く分かった。
身近になった死が、自分の知っている人達にも襲い掛かり、今は混乱してどうして良いか分からない。
ラウーシュも父も忙しいのか顔を見せず、自分だけ取り残されているようだった。
裏口に人影が見えた。
病人を連れて来たのかと思い、慌てて迎えに出て行った。
その男は背は少し高めで痩せてはいるが、服の下は筋肉が付いている鍛えられた体の持ち主の様に見受けられた。両手を怪我をしていて、包帯を巻いている。
顔を見ると、何処かで見たような気がした。
「病人の方を連れていらしたのですか?」
男もリリアスの事を知っているような感じで、じっと見ている。
「いや……街の暴動の時に、火傷をした奴の薬が無くなってな、あるなら分けて欲しいんだが……」
リリアスは――ああ――と承知して中から塗り薬を持って来た。
「どうぞ、お金はいりません。国のほうから支給されているので一杯ありますから。それで足りますか? 先生もいらっしゃいますから、その方を連れていらしたらどうですか?」
男は少し考える素振りを見せたが、頭を横に振った。
「ああ、ありがとう。何かあったら頼むよ」
立ち去る男をリリアスは見送ったが、振り向くとオテロがじっとその男の背中を見ていた。
「オテロどうしたの?」
真剣な顔のオテロは怖いぐらいだった。
「あの男は何をしに来たのですか?」
「ええ、暴動の時に火事で火傷をした人の、薬を貰いに来たのよ。知り合いの人?」
オテロは頷いて、――ちょっと出てきます――と、走って男の後を付いて行った。
暫くしてからオテロは帰ってきたが、
「お嬢様、もしさっきの男がまた来たら内緒で、直ぐに私に教えて下さい」
真剣に言われたので、リリアスも――はい――と真面目に答えておいた。
それから数日して男がまたやって来た。
前の時よりやつれて見えたので、
「お怪我の方の具合が悪いんじゃないですか? 動かせないなら先生をお連れしましょうか?」
と尋ねたが、男はまた頭を横に振った。
「いや、大丈夫だ。ただ薬が街では手に入らないんだ、金はあるから売ってくれないか?」
リリアスは薬を取りに行き、中にいたオテロを手招きした。
「あの男の人が来たわ」
「ええ、お嬢様はそのまま薬を渡して下さい」
オテロはリリアスの後ろの壁に隠れ、薬を渡すところを見ていた。男は金を渡そうとするが、リリアスは受け取らず、少し押し問答になっていた。
――あの男なら金はたっぷり持っているだろうに――
支給されている薬で金を稼ぐ気ならいくらでも儲けられるのだが、リリアスにはそんな考えなどは頭の端にも浮かばないようで、ただ怪我人の心配をしているようだ。
男は頭を下げ早足で帰って行った。オテロは、ゆっくりした足取りで壁伝いに男の後を追った。
後ろからリリアスが――気を付けてね――と声を掛けてくれた。こちらを気遣うリリアスの気持ちが嬉しくて、オテロはニヤニヤしながら歩いていた。
――娘を持つっていうのは、きっとこういうのなんだろうなあ――
オテロは心が暖かい気持ちになった。
しかし直ぐ自分が油断していたのに、気が付いた。男があっという間に消えてしまったのだ。
この頃緊張した場所にいなかったので、どこか気が緩んでいたのだろう、人を付けていて見失うとはオテロには無い事だったのだ。
夜中に静かに裏口の扉が叩かれた。
ちょうど病人を見回っていた医師のステファヌが気が付き、誰何した。
「夜分申し訳ないが、怪我人の具合が悪くて、診てもらいたいのだが」
ここが救護所だと知られているので、強盗が来ることは無いだろうと思いながら、医師は扉を開けた。
話し方からも貴族に近い人物かと思っていたが、男の姿はどちらかと言えば傭兵に近く、腰に剣を下げていた。
三十代のまだ若い男だが、顔色が冴えなかった。
「だいぶ悪いのかね」
男は頷き、
「熱が高くて、薬が無いのだ」
医師は支度をすると言って、取って返した。
薬を鞄に入れていると、オテロが起きて来た。
「急患ですか?」
「ああ、怪我をして熱が高いそうだ。ちょっと行って来る」
医師が簡単に言うので、オテロが慌てて
「一人では不用心です。私も付いていきますよ」
と言うと、医師は安心した顔をした。
「実は付いて来てくれないかなと、思っていたんだ。普段ならいいが、今は物騒だからね」
人の良い顔をしている医師に、オテロは笑った。
裏口にオテロが顔を出すと、男は慌てて逃げようとした。
「おいおい、コエヨ! どうした? 逃げるんじゃない。怪我人がいるんだろう?」
後ろから声を掛けられて、コエヨは仕方なく立ち止まった。
振り向いたコエヨは疲れた顔をしていて、オテロに会って気まずいという雰囲気を出していた。
オテロとコエヨは、勿論顔見知りである。
コエヨが宰相の護衛に付いたのは数年前からで、宮廷に出入りする者としては新参者だった。
友人同士の主人が会う時には、護衛と従僕と言う関係から控室などで顔を合わせていた。
年はだいぶ離れてはいるが、互いに剣を使う者として似通っており、話はあまりしなかったが気は許し合っていた。
「この間からここに来ていたようだが、誰が火傷をしているんだ? お前も怪我をしているな、手当てはしなくても良いのか?」
何気なく、彼が話しやすい空気にしてじりじりと近寄って行った。彼もオテロからは逃げられないと思ったのか、体から力を抜いていた。
オテロは火傷をしている怪我人が誰か、だいたい想像がついていた。
護衛として雇われていたコエヨが、国を裏切ってまで助ける義務が無いのを分かっているが、それでもやらずにいられないのには、理由があるのだろう。
「宰相は生きているんだな?」
ズバリ聞いてみた。
コエヨは仕方なく、頷いた。
真っ暗な道をカンテラを持ったコエヨの後を、オテロが歩いているが、その後ろには医師のステファヌとリリアスが続いていた。
出掛けると言う時になって、オテロが居ないのに気が付いたリリアスが、人の気配がある裏口に顔を出したのだ。
宰相が生きているらしいとこっそり耳打ちされて、一緒に行くと言い出したのだ。
オテロは、主人といいその息女といい、どうして駄目だと言う事をやりたがるのか不思議でならなかった。特にリリアスは父と暮らした記憶などないのに、行動や考え方が良く似ている気がする。
人から批難されるような事でも、自分が正しい、やりたいと思った事には手を出すのは一緒だった。
これから行く所は、謀反人の所である。その姿を見たならば国を裏切った男として、王の元へ連行しなければならない人物なのだ。
怪我人とは言え、謀反人として対峙するのは辛い事なのに、リリアスは治療の手伝いをしたいと、言い張って引かなかった。
オテロは、コエヨが抵抗すれば斬るしかないのが辛かったし、それをリリアスに見せたくは無かった。
その家は中心街から歩いて一時ほどの所で、家も間を開けて点々と建っている外れの場所であった。
家から漏れている小さな灯りは、暗闇の中で光ってはいたが、侘しい気持ちにさせた。
コエヨはノックもせず扉を開けて入り、続けて三人が入っていった。
中は椅子もテーブルもない部屋で、その先にもう一つ部屋があるようで、コエヨは歩いて行った。
扉が開けられ老人が顔を出したが、リリアスには知らない顔だった。
老人はオテロの姿を見て、声を上げた。
そして諦めた顔をして、肩を落とした。
「見つかってしまったのですか……」
悲しい声が部屋に響き、老人は静かに部屋に戻った。
コエヨが続き、皆がそろりと部屋の中に入った。
小さな部屋の真ん中にベッドが置かれ、頭を包帯で巻かれた人が寝ていた。部屋の中には怪我人が発する独特の匂いが溢れ、気持ちが悪くなる程だった。
「オテロ殿、主人はまだ目覚めません。連れて行く事は叶いませんよ」
老人は宰相の顔を濡れた布で冷やしながら、冷たい声で見知ったオテロに言葉を掛けた。昔からの知り合いも、今は敵同士と言う事なのだろう。
オテロはベッドに近づき、覗き込んだ。
宰相は顔の半分と両手が包帯で包まれており、見えている半分の顔は熱のせいで赤くなっていた。息は荒く、かなり苦しそうであった。
「先ほどより熱が高くなっております、どうか……主人をお助け下さいませ」
老人は頭を低く下げ、悲痛な声を上げて医師のステファヌに願った。
医師のステファヌはこの怪我人が誰なのか、コエヨが誰なのか事情が分からないようで、不審な顔でいたが怪我人が目の前で苦しんでいるのを見ては、じっとはしていられなかった。
老人に手を洗う用意をさせ、コエヨには体の方の怪我の状態を聞いた。
宰相は顔に大きな火傷を負い、体は屋根が落ちたせいで何本か骨が折れているようであった。
リリアスも老人を手伝って、井戸に水を汲みに行った。
「お嬢様は、どちらの方でございますか?」
老人は、水を汲むリリアスを不思議そうに見て聞いてきた。どこかで会ったような気がしていたからだった。
「私は……ブリニャク侯爵の娘のリリアージュと言います」
老人は驚いて手桶を落とした。
「何と! 侯爵様の、お嬢様でございましたか……このような状況の中、旦那様を助けに来て下さり誠にありがとうございます」
老人は、暗闇の中で泣いているようだった。




