第9話
「とうちゃん!!」
幼い声が上がるが、頭に血が昇っているリリアスには届かない。血が目に入って手で押さえる男に、なお、めん棒を叩きつけようとするリリアスの腕をごつい手がグイと捕まえた。
――キッ――
と、つり上がった目でその腕の主を見ると、思いもよらぬ男だった。
「嬢ちゃんは足が速い、この足で追いつくのはひと苦労だ」
もと兵士の下男のモットが、顔から汗をしたたらせて、いつも見せるいかつい顔ではなく、柔らかな表情でリリアスを見下ろしていた。
どうしてここにいるのかという顔をしたのだろう、下男は
「さっき部屋の外で、待っていただろう? お前さんが血相変えて出て行くから、慌てて追いかけたのさ」
――はあはあ――
と、息を切らせた下男は、にやっと笑った。
「いやあ、嬢ちゃんは剣の筋がいい。めん棒の打ち込みの鋭さは、そこいらの新兵より速かったぜ?」
自分を落ち着かせるために、軽口をたたいてくれているのだろうと、リリアスは少し冷静になった。
気づけば子供の泣き声が、耳に入ってきた。
「とうちゃんが、ちんじゃうよー!!」
振り向くとエイダが大粒の涙をこぼして、泣いていた。
人形をしっかり胸に抱いて、その手がぶるぶると小刻みにふるえている。リリアスはそれを見て、やっと自分のしたことを認識した。
まわりを見ると、カウンター越しに数人が覗き込み、店の外にも人が立って、中をうかがっていた。
「てめえ! この野郎! いったいどんな恨みがあるっていうんだ!」
布でひたいの血を押さえている男は、下男がリリアスを止めているせいで気を大きくして怒鳴った。
この男にすれば、何故リリアスに殴られたか、さっぱり理解できないことだろう。
父親の怒号で、エイダがますます泣き叫び、奥からペラジーの母親がその夫と飛び出してきた。
「いったい、なんの騒ぎだい」
母は泣き叫ぶエイダを抱き上げ、
「ほらほら、泣くんじゃないよ。父ちゃんは大丈夫だよ」
――とうちゃんが、とうちゃんが――
と、泣きじゃくる、エイダの背をさすっている。
「この女が突然入ってきて、俺に殴りかかったんですよ!」
だらだら額から流れる血を押さえながら、男はリリアスを指差した。
灰色のエプロンは、血で真っ赤だった。
それを見た両親は、
――ひっ――と息をのんだ。
怯える両親とエイダの姿を見て、リリアスはやっと自分がしでかした事の大きさに気がついた。
下男がそっとリリアスからめん棒を取り上げ、
「すまないが、ちょっと奥を貸してくれないか」
と、リリアスの顔を見ながら、両親たちに言った。
リリアスもこくんと、頭を下げた。
店の奥は小さな台所がある、居間だった。
大きな窓から日が差し込み、椅子の座面に置かれた薄いクッションは色とりどりのパッチワークでできていた。
窓辺に飾られた小花や、壁に掛けられた文字刺繍の飾りも、ここの主が生活を大切にしているのがわかる物たちばかりだった。
「旦那よう。この女は頭がおかしいのかい?」
少しは落ち着いた男が、納得がいかない顔で言った。
居間にはモットと男とリリアスしかいない。
両親にはエイダを見てもらいながら、店にいてもらうように話をつけた。ランチの時間が迫っているので、彼らも、準備に取り掛からなければならないのだ。
「俺はあんたの奥さんが働いている店の、下男をやっているモットっていう。この嬢ちゃんは、同じ店のリリアスだ」
男は妻の同僚と聞いて、目を見開いた。その同僚に乱暴を働かれる理由が、思いつかなかったのだろう。
「俺は、ベゾスだ」
口をとがらせて、名乗った。
モットは椅子に腰かけ呆然としている、リリアスを見た。テーブルの一点を見て、じっとしている姿は、綺麗なだけに鬼気迫るものがあった。
「おじさん、ちょっと二人だけで話したいんですけど」
モットは、おじさんと言われた事にショックを受けたようで、口をへの字に曲げた。
その顔を見て、リリアスはフッと笑った。
モットも、もう大丈夫だと思ったのだろう、
「ドアのすぐ近くにいるから、なんかあったら呼びな」
そう言って、店の方に出て行った。
「なあ、俺はあんたに会うのは初めてだと思うんだが、なにがあったんだ?」
ベゾスは落ち着いた声で、年相応の態度で、自分より年下のリリアスにたずねてきた。
妻の同僚と聞けば、乱暴をされても、無下にはできなくなったらしい。
「この間ペラジーは、お腹が痛いと言って休みましたよね? その時見舞いに来たのが、私です」
ベゾスは思い出すように、空中を見て、納得いったようにうなずいた。
「ああ……、夕時に来たのはあんただったのか」
リリアスはうなずいた。
「突然殴ってしまって、ごめんなさい」
立ち上がって、頭を下げ、それから意を決するように手を握りしめ、顔をベゾスに向けた。
「さっきペラジ―が倒れたんです」
ベゾスは、
――え!――
と驚いた顔をして、リリアスを見た。
「貧血かと思って、コルセットを緩めたら、お腹があざだらけでした」
ベゾスの顔が、表情を無くした。
「私は結婚もしてませんし、男女の関係も知りません。でも……人妻の身体に、人に知られず傷をつけられる人は、一人しか知りません」
ベゾスの顔が真っ青になった。ひたいを押さえる布の手が震え始めた。
「あんな可愛い娘さんがいて、働ける店を持っていて、工房で働く職人の奥さんがいて、いったい何の不満があるっていうんですか?」
ベゾスは言い返せなかった。ぱたんと、ひたいを押さえていた手を、膝に落とした。
乾いた血が、ぽろぽろと剥がれ落ちた。
椅子の背もたれに体をあずけ、顔を天井に向けている。
リリアスは黙って、彼が口を開くのを待った。
「……あんたも、あの工房で働いているってことは、優秀な職人ってことだろう?」
意外な質問にリリアスはこくんと、うなずいた。
「ペラジーの稼いでくる給金は、俺の働く金よりずっと多い。それなのに、仕事が終わっても夜の飲み屋の仕事も手伝ってくれるんだ」
工房の仕事をしている女性は、なるべく手を痛めないように気を付けている。
高級な布に、刺繍糸、繊細なレースに、細い毛糸。
手が荒れていると、ささくれ立った手が布を引っかけたり、糸を毛羽立たせたりして仕事にさしつかえるのだ。
だから洗濯も、下女がやってくれている。
一流工房の上級職人のペラジーが、居酒屋を手伝っていると聞いて、驚いたものだ。
「俺は田舎の百姓の、四男坊だ。口減らしのために、王都にやって来て、職を探して、点々と店を渡り歩いた。畑仕事しかしたことのない俺が、働ける場所なんてないんだ。やっとここの親父さんに、雇ってもらった時は、ほっとしたよ」
リリアスは彼の言いたいことが、なんとなく分かってきた。
孤児院で、針仕事ばかりしている自分に、他の子たちは陰で嫌味を言っていたものだった。
リリアスが作る、レースや小物や、大きくなってから作るようになった洋服などは、店に高く卸す事ができて、孤児院の助けになっていた。
だから、力仕事もせずに、一日好きな針仕事をしているリリアスに、面と向かっては文句を言えなかったのだ。
この人も、自分より稼ぎの良いペラジーに、嫉妬していたのだろうか?
「嫌な顔もしないで、夜も働くあいつに、俺は段々なんかこう……、イライラしてきてな。あいつになんの落ち度もないんだ、俺を立ててくれるし、おやっさん達との間もうまく取り持ってくれて、そのうち、あいつの夫は、俺じゃなくてもいいんじゃないかと思う様になってしまって…… 」
「それで……暴力で支配しようとしたって事?」
ベゾスは起き上がって、首を横に振り続けていた。
「殴るなんて……、俺はどうかしているんだ……」
「私も殴って悪かったと思っているわ。ペラジーの身体を見たら、頭に血が昇ってしまって。あんなに幸せそうな人を、見たことなかったから。その人に、あんな事をした人を許せなかったから」
リリアスは立ち上がると、ベゾスが、まるで救いを求めるように、リリアスを見上げた。
「お店でこれだけ派手な事をしてしまって、ご両親に何でもないとは言い訳できないでしょう? 私があなたに横恋慕して、熱を上げていたのに、冷たくされて逆上して、乗り込んできたっていう、話はどうかしら?」
リリアスが、三文芝居などを見た経験から、単純に考えた話だった。
ベゾスが笑い声を上げて、首を振った。
「ちゃんとおやっさん方と、話をするさ。あんたに、迷惑はかけない」
リリアスが帰ろうとすると、
「あとで馬車で迎えに行くから、それまでペラジーを、休ませておいてくれないか?」
なにもかも諦めたような、納得したような声でベゾスは言った。
リリアスが居間から店に戻ってくると、店にいた者が一斉にこちらを見た。皆好奇心丸出しで、リリアスが何を言うのか待っていた。
リリアスは、それを無視して厨房で働いている両親に、声をかけた。
「お騒がせして、すみません。彼とは話が付きましたので、後で詳しく聞いて下さい」
これ以上何か言うと、素知らぬ顔をして、耳を大きくして聞いている者達がいらぬことを知るかもしれない。
「ああ、分かったよ」
野菜を切っていた、ペラジーの母親は顔を上げて、困惑した顔をしていた。父親は背中に色々な疑問を見せながらも、結局一度も振り返らなかった。
リリアスは頭を下げ、カウンターに寄りかかっている、モットに目配せした。もうここにいる理由はない。好奇の目をした皆の前から、早く姿を消したかった。
ふと店の端を見ると、さっきテーブルを拭いていたおさげ髪の少女が、エイダとお人形で遊んでいた。
リリアスの姿を見ると、怯えたように顔をしかめた。
エイダは少女に抱きついて、まるで獣を見るように、顔をこわばらせた。無理もないと、リリアスは肩を落とした。
店の入り口から出ると、店の周りにいた人たちから
「ベゾスの……浮気……」
「まだ、子供も小さい……」
「ペラジーも、……かわいそうに……」
と、聞こえるように会話が交わされていた。
リリアスが引き起こした暴力事件は、すっかり思惑通りにとられているようだ。
しかし、黙々と歩くリリアスは、自分が起こしたこの一件が、出過ぎたまねだったのではないかと、今さらながらに思えてきた。
感情が爆発して、思わずやって来てしまったが、必死で旦那の暴力を隠してきたペラジーは、なんと思うだろうか。
すっかり元に戻って、意気消沈しておとなしくなったリリアスに、モットは何も聞かないが、
「とんだ醜聞だぜ? 若い女が、若旦那に、殴り込みをかけるなんざ」
と、からかうように言ってきた。
「人の噂なんて、あっという間に消えていくわよ」
リリアスは、明るい声で答えた。
――本当の事も、誰にも知られず、消えていくだろう――
あのままペラジーが、暴力を我慢して何もなかったかのように生活しても、それが良い解決法だとは思えない。
ベゾスのいらいらは消えないだろうし、悩みを誰かに打ち明けて、解決することもできなかっただろう。
我慢が問題の解決には、決してならない事だけは分かる。
自分のやったことが正しくないのは分かっているが、ペラジー達の問題を皆が考える機会を作ったと、良い様に思うしかないのだろう。
リリアスが、自分の気持ちに折り合いをつけた気持ちの変化を感じたのか、モットが
「嬢ちゃんは、やっとう、なんて習った事なんて、ねえよな?」
と、手で剣を振る仕草をしながら聞いてきた。
「当たり前でしょう。私はハサミより重い物なんか持った事ありません」
リリアスは頬を膨らませて、顔をふった。
「それにしちゃあ、めん棒の太刀筋が、腰が入って鋭かったんだがなあ。嬢ちゃんには、才能があるぜ」
「そんな才能なんかいりません。刺繍や裁縫の才能が欲しいです。それより、店に帰ったら、私がめん棒振り回して、ペラジーの旦那さんに、怪我させた事言ったら駄目ですからね」
リリアスがにらむと、モットは
「さあ……どうしようかなあ。酒の二、三杯でもおごってもらわにゃ、割に合わないかな。この足で、通りを走らされて、修羅場の真っただ中に飛び込んだんだからなあ」
リリアスは真っ赤になって、モットの腕を叩いた。
――アハハハ――と、モットの声が街中に響いた。