第83話
*ご注意*
少し残酷な描写が有ります。
火が回り天井が焼け落ちた書斎は、まだ柱や壁が燻って焦げた臭いが鼻に付いた。
ブリニャク侯爵には、見知った部屋だったが焼け焦げて、記憶がある書斎とは違っていた。
ここで酒を飲んだのが、ついこの間の様な気がするほど通った部屋だった。
水で濡れた絨毯に、シーツを掛けられた人であった物が、横たわっていた。
軍人である三人は、平気な顔をしているが、デフレイタス侯爵親子はまず臭いに胸が悪くなり、そして床に横たわる遺体に衝撃を受けた。
二人は入り口に立ち尽くし、中まで入ってこなかった。
軍人達は、部下が掴んだシーツが捲られると、一斉に覗き込んだ。
王太后の遺体は、煤けてはいたが、顔ははっきりと確認できた。
宰相は顔が潰れ、胸まで焼け焦げていた。
「見つけた者によりますと、顔の部分に柱が落ちていて、それで潰されたのではないかと言っておりました」
三人はじっと、宰相だった人を見た着ている服も昨日と同じものであるし、髪の色も同じく黒かった。
履いている物がスリッパだったが、部屋の中にいるのならそれもあるだろう。
焦げた胸元から古いクルスが見えていた。
ブリニャク侯爵が持ち上げて、煤をはらった。
「あいつの物だ……。兄上の形見と言っていたな」
「宰相と言う事で、宜しいでしょうか?」
ハンラハン将軍が、皆を見て確認を求めた。
この遺体がオルタンシア公爵であると、誰も認めたくなくて返事をしなかった。
「ヴァランタン……オルタンシア公か?」
ドアに掴まり、デフレイタス侯爵が弱弱しい声で聞いて来る。
「顔は確認できないが、あいつだろう……」
ブリニャク侯爵は、そういい捨てて廊下に出て行った。
「父上、そろそろ帰りましょう。お体に障ります」
軍人たちの前で、吐く事だけはすまいと気持ち悪さを抑えているが、それ以上に父の顔色が悪かったので、レキュアと二人がかりで馬車まで運んだ。
公爵邸を後にする時、ブリニャク侯爵が、玄関の上のバルコニーに立っているのが、走り出した馬車から見えた。すっかり意気消沈した姿が、気の毒な程であった。
「長年の御友人であったからなあ」
ラウーシュがぽつりと呟くと、隣にいた侯爵が頷いた。
「陛下のご学友として、宰相の兄上が王宮に上がった時、年が近かった私達は時々遊び相手に駆り出された。体も大きく、腕っぷしも強かったブリニャク侯爵は陛下とも上手く遊べて、私など武の心得がないから相手にされなくてな。いつも宰相と本を読んでいた」
「父上がですか?」
こくんと頭を下げた侯爵は、そのまま力が尽きたように眠ってしまった。
「そのような幼い頃から、皆様はお知り合いだったのですね……」
親友だった宰相が謀反を起こし亡くなってしまい、ブリニャク侯爵は元気が無くなってしまった。
今は誰もが茫然自失の状態だろう。
貴族達の連携は拙いもので、まるで夢に浮かれているような物だった。
あの軟弱な貴族達をまとめて、ここまで計画を実行していたのは、はたして王太后なのか宰相なのか、捕まえた貴族達の尋問で、分かってくるのだろうか。
広いベッドの上で半身を起こし、デフレイタス侯爵はじっと部屋の隅を見ていた。
薄明りの中目にしたオルタンシア公爵邸は、無残な姿を晒していた。歴史のある建築物でもあった屋敷は、煤け壊れ人々の足跡で汚されていた。
入り口で見た公爵は顔こそ見えなかったが、横たわる姿は確かに死んでいた。
葬式には多く出席してきたが、あのように床に倒れている死体などは見た事が無かった。
いつも冷静な顔で、たまに皮肉気な笑みを浮かべていた公爵が、あの死体だというのが、俄には信じられなかった。
――最後に会ったのはいつだったか――
そう考えると、もう文句を言う相手が居ないのに気が付き、途端につまらなく思えて来た。
「旦那様そろそろ、お休みになられてはいかが?」
侍女を連れて、夫人が寝室に入ってきた。
今日は一日家に居るので、普段着を着ているようだが、それでも他の貴族の夫人の外出着程の贅はこらしてある。
水色の紗で作られたドレスは、外出着としてはマナーに反するので、部屋着なのだが薄い紗を織るのは大変な苦労で、値は張るのだった。この時期に紗を選ぶ夫人の趣味に、侯爵は鼻が高かった。
夫人が優しく声を掛けてくれるが、侯爵は疲れも心労もあり、口が利けなかった。
夫人を見上げれば、彼女はベッドの端に腰かけ、手を夫の頬に当てた。
「熱はありませんのね。では気鬱の原因は、宰相閣下の事ですのね?」
何故そう言われるのか分からなくて、眉を顰めた。
夫人は傍にいる執事や侍女に手を振り、部屋から出させた。
そしてベッドに自分の体も乗せて、夫の肩に腕を回し頭どうしを突き合わせた。
侯爵は夫人の行動に驚き、体を引き離そうとしたが、いつになく夫人は力を込めて抱き返した。
「この間旦那様が死にそうになった時、初めて分かったのですが。私は、嫌いではないと思ったのです」
「私の事がか?」
「そうですわ。考えた事がなかったから、自分の心でも分からなかったのですね。貴方が好きか嫌いかなんて……」
侯爵は今妻に、愛を告白されているのかと、今まで感じた事のない動揺を感じていた。
少し頬に熱を感じた。
「貴方も考えてごらんなさいまし。……オルタンシア公爵を好きだったか嫌いだったか」
意外な名前に妻を振り仰いだ侯爵は、夫人がまるで母のような顔をしていると思った。
「私は彼は嫌いだった。それは貴女も知っているはずだ」
肩の上で妻が笑った。体が揺れて、肩に当たっている胸が柔らかく、動いている。
紗の生地がサラサラと侯爵の体で滑り、音を立てる。
「あの方は貴方に何もしていらっしゃらないわ。それなのに、嫌いになる理由がお有り?」
侯爵は憮然とした顔で、――昔から反りが合わないから嫌いなのだ――と言い捨てた。
「どこが反りが合わないのですか?」
追及する妻に、考えた。公爵は二、三才年上で剣の才能は互いに無かったから、剣で争う場面は無かったはずだ。
頭の良さには、完全に負けていた。本を一緒に読んでいても、公爵はそれらを吸収して己の糧としていった。反対に侯爵は本にも飽きて、母やその友人の着ているドレスの美しさに興味が湧いていた。
剣も振れなく、学にも興味が無く、女性の服装に心惹かれるなどと、誰に言う事が出来ただろう。
剣の才能を見せ始めたヴァランタンや、勉学がしたくて僧院に入ると言い出した公爵に、侯爵は自分だけが、取り残された気がしたのだった。
公爵はその後、本当に僧院に入り出家してしまい、何かを競うと言う事も出来なくなってしまった。
大人になり侯爵家の嫡男としての地位を完全に手に入れた時から、思うがままの人生を歩もうと思った物だった。
だから、オルタンシア公爵家の嫡男が亡くなって、還俗してきた公爵を見た時、立ち居振る舞いや表情は僧なのに、公爵家を継ぎ宰相への道を歩き出した公爵が、苛立たしかったのだ。
「あの男は自分の望む道を、選んではいなかった。好きなように生きれば良かったのだ。宰相などは、他のなりたい者がなればいいのだ」
夫人はいつにない夫の真面目な話に、彼の心の奥底にある子供の頃の憧憬を感じた。自分には無い物を持つ人への憧れは、一つは長い付き合いの友情となり、もう一つは反骨と言う嫌悪に変わった。
「貴方は宰相閣下がお気の毒だと、思われたのでしょう?」
侯爵は鼻で笑った。
「いい気味だと笑ったのだ。好きでもない事をして、自分の持つ才を無駄にしている奴だったからな」
夫人は夫の頭を静かに撫でて、
「貴方が毒で苦しんでいる時に、公爵は昼間にお見舞いにいらしたそうよ」
侯爵は驚いて顔を上げようとした。
「ちょうど、陛下に斬りつけた日だったと、執事が言っていたわ。お別れに来たのね。事件に巻き込んで悪かったと、謝っていらしたと……。執事には聞こえなかったけれど、シルヴァンと呼んで、何か貴方に仰っていたみたいよ」
侯爵の動きが止まった。荒い鼻息が聞こえ、夫人は頭に頬を付けた。
「貴方方は皆、子供の頃から中身は変わっていないみたいね? だったら好きな物は好きと口にすればいいのに、大人の姿を纏っているから素直になれないのね……」
夫の震える体を抱いて、夫人はユラユラと揺らした。
「ほら、胸の奥に燻った物を全部、涙にして流してしまいなさいな。そうすれば貴方は、明日からちゃんと、前を向いて歩いていけるはずよ……」
侯爵は両手を顔に当て、夫人の腕の中で体を預けていた。




