第82話
夜が明ける前に、デフレイタス侯爵は目覚めた。
「旦那様!! おお! 神よ、感謝いたします
執事は主人の顔を覗き込み、その瞳に意識が在るか確かめた。少し瞳に膜がかかっているようだが、意志が見えた。
「旦那様、私が分かりますか?」
執事は心配しながら問うと、
「朝からうるさくするものではない、今日の外出着は用意出来ているのか?」
いつもの答えが返って来た。
「はい……とっくにご用意できております。何かお飲みになりますか?」
執事は噛みしめるように、主人に答えたが、その瞳には涙が滲んでいた。
――うん――
と頷く主人は、子供の様だった。
「父上……」
侯爵が倒れてから、屋敷に詰めていたラウーシュは、知らせを聞いて部屋にやってきた。
父はすっかり頬がこけて目が窪んで、骸骨の様な風貌になっている。
「何故お前が居る?」
ラウーシュも父が助かった喜びから、声が出なかった。口を利けば泣いてしまうだろう。
笑いながら父の手を取ると、その手も乾燥して水分が抜けていた。
この毒は今のはやり病に似た症状が出ていて、それに見立てての暗殺だったのかもしれないと、ラウーシュは思っていた。
ここまで手の込んだ陰謀が、王宮で成されていたのが恐ろしかった。
話では王太子達や王女までもが倒れたのだと言うのだから、残虐な計画である。
扉が――バン――と音を立てて開き、ガウン姿の侯爵夫人が現れた。
「母上!」
父同様母も普段から身なりには気を付けているのに、朝方とは言え父の部屋を訪れるのにガウン姿とはと、常に無い母の慌てぶりに驚いた。
「旦那様!!」
いつも冷静な母親の、感情的な声を聞きラウーシュも、使用人達も驚いた。それも侯爵に対してである。
仕方なく結婚したと思っていた侯爵夫妻だったが、長年の月日が情愛という物を紡ぎ合っていたのかもしれない。
夫人は夫の枕元に跪き、手を取った。
「遅うございますよ、お眼覚めが……」
その後の言葉は、涙に消えた。夫人はベッドに顔を伏せて、肩を震わせている。
「貴方が亡くなれば、誰が衣装代を用意して下さるのです」
伏したまま夫人は小さな声で、呟いた。
「ラウーシュが、用意してくれるであろう?」
「ラウーシュの用意した衣装代では、ドレスを作った気がしませんわ。貴方がドレスを買って下さいませんと、結婚した時の約束が破られてしまいますのよ……」
侯爵は笑いながら夫人の頭を撫で、
「それでは私は貴女より、長生きせねばならぬな」
「その通りですわ。貴方は私に一生衣装を好きに買って良いと、仰ったのですから……」
夫人は泣きながら、侯爵の皺の寄った手を頬に当てた。
ラウーシュはとんだ両親の愛情確認を目の当たりにして、部屋を出ようとした。
廊下から走る音が聞こえた。
扉は開かれ、煤けた服装の男が走り込んで来た。
「騒々しいぞ、夜明け前にどんな用事だ!」
執事が職業意識を取り戻し、迫力ある物言いで詰問した。
男は侯爵家の私兵で、この朝早くに何処に行っていたのかと皆が不思議に思った。
男は入り口で手と膝を着き、
「オルタンシア公爵様、ご謀反!!」
と、通る声で重大事件を発した。
皆の頭には疑問符が浮かんだ。
たいていの事は聞いても驚かず、――ああ、時々ある事だな――と何事も流す貴族とその使用人だが、一番あり得ない報告に、素の顔になって立っていた。
重大事件を報告しに来て、その反応を予見していた私兵は、皆の反応に戸惑って頭を上げて見まわした。
「お前、それは冗談にもならない、冗談だな」
ラウーシュが冷たい目で、私兵を見た。
私兵は頭を横に振り、
「只今国軍が、オルタンシア公爵の屋敷を攻撃しております。先ほど屋敷に火が点けられ、炎上致しております!!」
真剣な言葉に、部屋に居た一同は現実に戻った。
「そんな馬鹿な!」
「嘘であろう?」
口々に皆が騒ぎ立てる中、ラウーシュが訪ねた。
「どんな容疑で、軍に攻撃されているのだ。謀反と言ったな? 何をやったのだ!」
「公爵は、王太后殿下と組み、王太子殿下並びに第二王子殿下を、毒殺しようとなさった嫌疑のようであります。昨夜公爵は、刃物で陛下に斬りつけて、お怪我を負わせたとの事であります」
部屋が静まり返った。
「……何を馬鹿な事を言っておる、オルタンシア公爵が陛下に斬りつけるなどと……」
侯爵はそろりと、起き上がろうとした。
「旦那様!! いけません。まだ寝ておられませんと」
止める執事の腕を掴み、侯爵は起き上がった。とっくに体力は残っていないはずだ。
「出かける用意を直ぐにせよ」
執事は侯爵の目を見て、息を呑んだ。
いつも衣装の話さえしていれば機嫌の良い主人が、真剣でとても暗い目をしていた。
執事は使用人を見て、目配せした。
きっと時を争うのだろう。
皆が、主人が出掛ける時の用意を始めた。
「旦那様、お出掛けですの?」
夫人は、侯爵が起き上がるのを見て、言っても聞かないのだからと諦めたようだ。
――ああ――
と、頷いて使用人が持ってくる衣装を肩に掴まりながら着始めた。
ラウーシュもレキュアに外出の支度を用意させた。
公爵邸に向かう道は、夜明け前なのに人が所々に立っていて、侯爵の馬車を止めて検問する。
少し進むと遠くの空に、黒い煙が立ち上がっているのが見えた。
「父上!」
ラウーシュが指差し、三人は馬車の中から、空高く舞い上がる黒い煙を見上げた。
馬車が進むと林の間から公爵邸が見えて来たが、煤で真っ黒になった壁や、打ち破れた窓が軍からの攻撃の凄さを表していた。
兵の許可を取り馬車を門の中に入れると、前庭の芝生に大勢の男達が兵に銃を突き付けられ、座らされていた。
「……おお……」
馬車の壁に体を預けて外を見ている侯爵は、そこに座る男達の中に見知った人物が居るのを見て、驚きに声を上げた。
「あの者共が、反乱を起こしたのだな?」
「そのようですね。父上……知っている方がおります」
ラウーシュも知人の顔を見つけ、息を呑んでいた。
前庭から少し外れた広場にテントが建てられ、その中に将軍達が居た。
ラウーシュの腕に掴まり、――抱き上げていくというのを拒否され、それで妥協された――そろそろ歩く侯爵を、ブリニャク侯爵が認めた。
「来たのか。体の具合は良いのか?」
表情の無い顔でブリニャク侯爵を見つめる、デフレイタス侯爵は、二晩徹夜で争乱を押さえていた友人の姿が疲れ、薄汚れているのを見て溜め息を吐いた。
「お勤めとは言え、大変な事よな……」
デフレイタス侯爵はレキュアが探してきた椅子に腰かけて、物言わぬブリニャク侯爵を見た。
「この年になって、まさかこんな事が起こるとは思いもよらなんだ。私は毒殺されかかり、陛下は宰相に暗殺されそうになり、その上国を乗っ取られそうになるとはな」
病床から無理に起きてきて、馬車に揺られたデフレイタス侯爵は、少し話すと息切れを起こし頭が下がった。執事が傍に寄って自分の肩を貸している。
「本当にな……」
ブリニャク侯爵は、喉が詰まってそれ以上話せなかった。
思わず二人は、まだ黒煙を上げている、美しかった公爵邸を見上げた。
軍人が入り口を出入りし、屋敷の中を隈なく捜査しているのが見えた。
段々と朝日が上がり、公爵邸を暗い森の背景から浮き上がらせていく。日の光が尚も屋敷の無残さを映し出していった。
「公爵邸から逃げ出した貴族やその配下は、屋敷の森の中で縛られて発見されたのだ。その中には王太后の侍女もいたのだが、王太后と……オルタンシア公爵の姿は無かった。逃げおおせたのかも知れん」
「そうだったら、問題だな」
二人とも顔に感情を乗せない様に話していたが、俄に屋敷内が騒がしくなったのを感じた。
屋敷から兵が飛び出してきて、テントにいるハンラハン将軍に敬礼して報告しようとして、サバシア侯爵の方に顔を向けられ、慌ててサバシア侯爵に敬礼した。
「三階の公爵の書斎で、王太后と、オルタンシア公爵と思われる遺体を発見致しました」
――うん――
と、サバシア侯爵は喉で返事をして、敬礼を返した。
サバシア侯爵は、茫然としているハンラハン将軍、ブリニャク侯爵、デフレイタス侯爵を見て、頷いた。




