第8話
* ご注意 *
本編には、DV表現、流血シーンがあります。
苦手な方は、回避して下さい。
キラキラ光るビーズを、糸からひとつずつたぐり寄せ、針で布に付けていく。
初めはおぼつかない動きだったが、日が経つにつれて作業が早くなった。
この調子なら、侯爵夫人の求める期日までに、ドレスは納める事ができるだろう。
考えずとも動く自分の手を見つめながら、リリアスはほっとしていた。向かいにはリリアスよりも手なれた仕草のペラジーがいる。
珍しく話もしないで作業をしているのは、やはりビーズ刺繍の完成に気がはいっているからだろう。
しんとした作業場は、心地よい緊張感がある。
ある程度模様ができたところでリリアスは頭を上げた。そろそろ休憩に入ってもいい時間だろう。
「ペラジー、休まない?」
ペラジーの手が止まり、ゆっくりと頭が上がると、その顔は真っ青だった。
血の気のない顔は仮面のようで、リリアスは息をのんだ。
静かにペラジーの身体は横にずれ、床にくずおれた。
「ねえさん!!」
まわりにいた針子たちは声を上げ、ペラジーにかけより、身体に触れる。
「動かさないで! 貧血かもしれないわ。誰か毛布を持ってきて!」
リリアスの指示に、下働きの子が隣の休憩室に飛んでいった。
「具合が悪ければ言えばいいのに、無茶をして……」
うす暗い寝室でエイダに柔らかな笑顔を見せる、ペラジーの幸せそうな顔を思い出し、浅く息をして肩を揺らす別人のような表情に胸が痛んだ。
誰が呼んだのか下男がやってきて、そっとペラジーを抱き上げた。
「ここじゃ仕事の邪魔になるし、ペラジーも休めないだろう」
そう言って、毛布にくるまれたペラジーは隣室に運ばれた。
「微熱がありそうだな。苦しそうだから服をゆるめてやったらどうだ」
下男は手慣れた仕草でペラジーを看て、リリアスに指示した。
「慣れているんですね」
下男は意外な顔をして、リリアスを見た。
「ああ……戦場で仲間の怪我なんかを、よく手当したからな。皆慣れっこになるもんだ」
下男が部屋を出てから、リリアスはペラジーの服の前を開け、コルセットの紐をゆるめた。
紐をたぐりよせるうちに、リリアスの心臓の鼓動は早くなり、指が震えていく。
コルセットの下に隠れた、真っ白なペラジーの肌には、青黒いあざが数か所あり、それが何で付けられたか、ひと目で分かるものだった。
見るとはなしにのぞく針子から隠すために、手早く毛布をかけた。
「しばらく、気が付くまで様子を見ましょう」
「お医者さん呼ばなくてもいい?」
リリアスは頭を横に振った。
平民はよっぽど具合が悪くならないと、医者にはかからない。高い治療費と薬代は、貧しく暮らす者には大きな負担だ。病気にかかった時は民間の薬を飲んで、ただ寝ているだけしかないのだ。
「大丈夫よ、貧血みたいだから。……きっと月の物なんじゃないかしら」
そういうと、ああと納得したように声を上げ、作業場に戻っていった。
熱のために頬が赤く、口を開いて息をはいている。額には汗が浮いて、苦しさで眉を寄せている。
陽気で明るくて、側にいるだけでこちらの気持ちも浮き上がる、太陽のようなペラジーが……、皆が頼りにして慕っているペラジーが……誰にも救われず、理不尽な暴力を受けていた。
ベンチに横たわるペラジーの顔を見ながら、リリアスは怒りで頭が破裂しそうだった。
そこらへんにある物を、つかんで投げ、蹴飛ばし、窓ガラスに打ち付けそうになる衝動を、押さえるために自分の腕に噛みついた。
血が出るほど強く力を込めると、嗚咽と涙があふれ身体が震えた。
「――――っ!」
孤児にとって暴力は日常茶飯事だ。年上の者からの理不尽な、いじめ。
男の子の気まぐれな、うっぷん晴らしの暴力。
皆同じ境遇なのに、力のある者が弱い者を痛めつける。
誰も好き好んで孤児院にいるわけではない。親がいないばかりに、仲間からも、世間からも冷たくあしらわられる。
暴力から、誰も助けてくれなかった。
好きな仕事をして、結婚をしても自分の親と同居し、可愛い子供までいて幸せの塊のようだったペラジーが、誰にも知られず、暴力に苦しんでいた。
人に優しく、自分の仕事に真っ直ぐなペラジーが、自分の受けた暴力を隠さざるを得なかった。
なんという残酷な事だろう。
リリアスは怒りと悲しみで体がしびれ、燃えたぎる血で熱くなった。
突然立ち上がり、作業場を走り抜け外に飛び出した。
誰かが何かを叫んでいたが、リリアスの耳には届かなかった。
リリアスは怒りのエネルギーで、滑る石畳を木靴で走り抜けた。
真っ赤な髪を振り乱し若い娘が、鬼のような形相で通りを駆け抜けていくのだ、道沿いの人々は何事かと注目しその後ろ姿を目で追った。
駆けて、駆けて、口の中が血の味がしても、リリアスは店からペラジーの家まで走りとおした。
目当ての店のドアを引きちぎるように開けると、中はランチの準備の真っ最中だった。
おさげ髪の少女がテーブルを拭いていて、勢いよく開いたドアに顔を向けたが、リリアスの血相に怯えた声を出した。
「ペ、ぺラジー……の、だ……旦那さんは……いる?」
肩を上下して息も絶え絶えのリリアスの問いに、少女は黙ってカウンターの向こうの厨房を指差した。
ずんずんとリリアスは中に入り、奥でフライパンを振っている男の背中を見た。
ヒョロッとした痩せぎすの栗色の髪が目を引くぐらいの、どこにでもいそうな男だった。
その背中は何の感情もなく、ただ無心にフライパンを振っているように見えた。
日常の何気ない平穏な一コマがそこにあり、青白いペラジーの苦しげな顔とは、無縁な光景のように見えた。
「あ、あんたは、ど……どうして、フライパンなんか振っている――!!」
あとの言葉が続かず、リリアスは男の背中にしがみついた。
「何するんだ! あぶねえだろう!」
突然つかみ掛かってきたリリアスに驚いて、持っているフライパンを落とすわけにもいかず、男は肘で振り払った。
片腕でも男の力だけあって、リリアスは後ろの調理台まで、飛ばされた。
「お前誰だ! 勝手に厨房に入ってくんな! 今は昼の仕込みで忙しいんだ! 出て行け!」
男は迷惑そうに顔をしかめ、横顔であごを振った。
リリアスは調理台にあった、めん棒を手にし男の顔めがけて振りかぶった。
とっさに男は手で払うと、
「この――!!」
その手でリリアスに殴りかかった。
リリアスはふらついた身体を立て直し、両手で持っためん棒でその手をすくい上げ、かえす動きで顔面を思い切り打った。
男の額が切れて、噴水のように血が噴き出した。