第76話
それはひたひたと王宮の城壁の周りを満たして行った。
その遥か後方の王都では喧噪と熱い火が混ざり合い、昼のような明るさをみせていたが、王城は静かにそびえ立っているだけであった。
物見はその影が動くのを見て、自分の目を疑った。今や王都は修羅場になっていて、この王城にやって来る者はいるはずが無かったからだ。まるで地面が動くかのように黒い塊は波の様に、王城の城壁に近づいて来ていた。
暫く見ていたが城壁の上のたいまつの灯が、下の波に反射して鈍い光を瞬かせた。
物見はそこに無いはずの物を見て、驚愕した。
「敵襲!!」
まさか自分がそのような言葉を吐くとは思ってもいなかったが、現実に抜刀した集団が王城の城壁を囲んでいた。
非常時に叩く銅鑼を渾身の力で叩いた。
眠られず居室で起きていた王は、勢いよく扉を開ける執事長を見た。
どんなに遅くとも服装を乱さない執事長は、かっちりとした服装と髪型だったが常にない慌てぶりで部屋に入って来た。
その顔は青く、昼間王が言っていた事が現実になったのが原因だった。
「陛下!!」
この城に起きた事が信じられなく、その後の言葉が続かない。汗を掻き息を切らす執事長は、ただ立っているだけで絵になる王を見て、――どうしてこんな事が王の身に起こったのか――と現実を見る事が出来なかった。
「何を呆けている! 報告せよ!」
王は何時の時でも、物事をはっきりさせなければ気が済まない。長く仕えている執事長も理解しているのに、今は体が震え口が開かなかった。
――若い時は王と共に戦場を駆け抜けたのに――
執事長は、いつの間にか平和な生活に浸りきっていたのを感じていた。 ヒリヒリする暴力の恐怖を感じて、一時は自分もその中に居て、暴力を振るっていたのを思い出した。
「敵襲でございます! 城壁に抜刀した者達が多数集まっております。現在残っております近衛兵を、集めておりますが数が足りませぬ」
近衛兵は将軍が出撃した際に最低の人数だけを残し、一緒に街中に出て行っている。王を守るには無理な人数だった。
王は平然とした顔で執事長に手を差し出した。執事長は何を要求されているか分からず、素の顔になった。
「剣だ! 防具もな!」
「お逃げ下さい!」
執事長は王の足元に縋り、頭を下げ必死に懇願した。
「陛下さえご無事なら後はどうにでもなります、将軍もブリニャク侯爵もおられます! どうかお逃げになって下さい!」
後から入って来た使用人達も王を囲み、王しか知らぬはずの脱出路を使って逃げ延びてくれと願った。
しかし王は――うん――とは言わない。
「顔を見てやらぬとな……。予を殺してこの国を乗っ取ろうとしている者の顔を見ないと、先祖に申し訳が立たぬ」
王は凄みの有る笑顔を見せて、手を伸ばしている。執事達はしかたなく、防具を王に着させ自分達も、傍にある武器を手に取り王の周りを囲んだ。
遠くから叫び声が段々と聞こえてくる。
***
襲撃者達は開けられている城門から中に入り、そこで門を守っている衛兵達と戦闘になった。しかし襲撃者の人数は百人は超えていて、初めから応戦は無理だった。襲撃者も門番との交戦は剣を交えるくらいで、あっという間に王宮へ向かって行ってしまった。
衛兵はその後を追うしかなかった。
襲撃者の先頭は甲冑を着たいかにも貴族という男達十数名で、後の男たちはその従者のようだった。
百人の男達も王宮正面の広大な敷地内では数の多さを感じず、城の中に攻め入っている事実に現実感が無いようだ。
本当に自分達は王への反逆を企てているのかと、不思議な感じになっていた。
「旦那様……本当に、大丈夫なのですか?」
甲冑の男に後ろにいた従者が聞いた。
「当たり前だ! 陛下を襲うのだ、大丈夫でなければどうする!」
興奮で声を張り上げる男は、年の頃は三十台後半の、髭が山羊の様であるぐらいの特徴しかなかった。
声も体も、武者震いで抑えが効いていなかった。
数か月の準備をし計画は今の所成功していて、最後の関門は今自分達が押し切ろうとしている所だった。
軍隊も、近衛兵も今や王都の住民の暴動に掛かりきりで、王宮は使用人と数十人の衛兵しかいない状態のはずだった。
これで王を仕留める事が出来なければ、決起した自分達の命は無い。その位の覚悟が無ければ、遣り遂げる事が出来ない事なのだ。
銅鑼の音で目覚めた使用人達は、王宮の廊下を寝巻姿でうろうろとしていたが、正面の入り口から王宮の内側に入ってきた甲冑姿の男達を見て声を上げた。
日頃見慣れた衛兵や近衛兵とは明らかに違う姿に、逃げまどった。
王宮に抜き身を持って人が入って来るとは、思ってもいなかった。
反乱の男達も使用人には目もくれず、広い廊下を王の居室を目指して走り去った。
王宮の中は夜中であり薄暗く、人もいないので静かだったが、ガチャガチャと甲冑の鳴る音が王宮に響き、その不穏な音がますます男達の興奮を煽っていく。
「油断するな! 王の部屋はすぐそこだ!」
「おお!!」
王を弑する罪深さをごまかす為に、男達は大声を上げた。
――どどどっ――
男達の足音が空気を震わせ、薄暗い廊下を進んで行くと、その向こうに蝋燭の光を受けた甲冑の男達が立っているのが見えた。
「近衛兵だ!」
後ろに居る者にその存在を知らせた。
近づくにつれて近衛兵達は二十人程しか見えなく、男達はこれは――勝てる――と思った。
「それ以上近づくな!」
近衛兵が声を発した。緊張した声が近くに王が居る事を示していた。
男達は広い廊下で散開しつつ、近衛兵を囲もうとした。
近衛兵の中で一番前に居る体格の良い男性が剣を抜き、
「ジアンビ伯爵である、ここから一歩も行かせぬ!」
と、声を上げた。
男達はその名を聞いてどよめいたが、自分達の数の多さが心強さになり、気持ちでは負けなかった。
近衛兵が出払っても、王の警護に残されるジアンビ伯爵は、若いが剣の強さでいずれ近衛兵の長になるであろうと言われている人物であった。
彼は近衛兵の長が居ない今、全責任が自分に掛かっている事を重く受け取っている。
今までの状況が作られた事であるのも、王を弑しようと襲撃してくる事も聞いていて、この場に立っているのだった。
「我が命にかえても、陛下をお守り致す」
ジアンビ伯爵の小さな声は、襲撃者達の雄たけびで、誰にも聞こえなかった。
「始まったようだな」
椅子に腰かけた王は、誰にともなく呟いた。
少し先の廊下から男達の声と、剣が交わる音が聞こえ部屋の中は緊張感に包まれた。
執事達は剣は持っているが、日ごろの仕事には必要の無い物で、硬く握りしめた指などは震えている。
王の周りを囲んだ執事達は、ぴったりと身を寄せ合い怯えてはいたが、王を守るという強い意志で立っていた。
端に居た執事が自分の後ろにある扉が動くのを感じ、そっと振り返った。
隅の暗い扉から黒い影が現れ、執事は飛び上がる程驚いた。
他の部屋に人は居ないと思っていたのだ。
その扉は王の居室の隣に続く部屋で、執事達が王の茶などを用意する部屋であった、その部屋は廊下には扉が無く今は誰も居ないはずだった。
「だ、誰だ!」
執事が声を上げると、皆が驚き一斉にそちらを見た。
その影は執事達が見る中、蝋燭の光が届く所まで来ると、立ち止まった。
その姿は、皆が見慣れた黒い服装の、――僧侶のようだと言われている――オルタンシア公爵だった。
「閣下!!」
突然現れた宰相に、皆が驚いた。
宰相は昼前から外出していて、今まで何処にいるか行方が分からなかったのだ。
宰相は疲れた顔をしていて、歩く姿も酷くゆっくりだった。
「閣下何処からお出でになりましたか? ずっとお探ししておりました。今の状況をご存知でいらっしゃいますか?」
執事長が宰相に駆け寄り、今までの心労が宰相不在の為だっただけに、文句の一つも言いたくて詰め寄った。
「執事長、留守にしていて申し訳なかった。デフレイタス侯爵の見舞いに出ていたのだ」
「今まででございますか?」
執事長は、宰相がこの頃宮殿に泊まっているのを知っていたから、この騒ぎの中宰相が居ないのが不思議であったし、困っていたのだ。
宰相は頭を横に振り、執事長の腕を押さえてその先に待つ王の元へ歩いて行った。
王は立ち上がり、宰相が来るのを待っていた。




