第72話
宰相は、デフレイタス侯爵家の応接室に通されていた。
天井の高い部屋は、薄青の壁紙に金色の蔦の模様が描かれている、美術館を思わせる作りだった。
――同じ貴族とはいえ、屋敷の飾り方は随分と違うものだな――
と、公爵家の当主である宰相は自宅と比較した事がない、他家の屋敷の内装に感心していた。
オルタンシア公の屋敷はどちらかと言えば旧い造りで、美術品なども歴史的価値の有るもので、現代の美術品の様式には遅れていた。
デフレイタス侯爵家は、最先端の美術品ばかりであった。
衣装狂いと陰口を叩かれているデフレイタス侯爵は、その趣味の域を超えて美術品を輸出入させたり、領地で羊毛や質の良い布地の生産に力を入れ、国の為にもなる事を成していたのだった。
宰相が持った紅茶のカップも薄手の東洋の磁器で、今は輸入量が少なく貴族には高値で売られている。それを真っ先に使っているのは、侯爵の審美眼のお陰であった。
もっとも宰相はこういう文化的な物に興味はなかったから、今飲んでいる紅茶のカップのありがたみも分からないのだった。
「閣下……お待たせいたしました、主人の用意が整いました」
見舞いたいという宰相の要望に戸惑っていた侍従長だが、断るという事はできなかった。
主人のデフレイタス侯爵は、危篤状態は脱したがまだ意識は戻らず、汗やその他の分泌物で人に会わせる事が出来ない状態だったのだ。
安静を優先していた使用人一同は、主人の汚れを落とし、宰相を迎えるために部屋を整えていたのだ。
部屋には香が焚かれ、主人には香水が振り撒かれた。
少し薄暗くした室内の真ん中の天蓋に覆われたベッドに、デフレイタス侯爵は横たわっていた。
空気が入れ替えられたのか丁度良い温度になっている部屋は、数人の使用人が隅みに立っていた。
宰相はゆっくりと絨毯を踏みしめ、ベッドの脇に立ち侯爵を見下ろした。
手が侯爵の額に触れられると、周りにいた者達はハッと動揺した。
主人が長らく宰相を嫌っており、事あるごとに逆らっていたのは周知の事で、宰相がそれを良く思ってはいないであろうから、その手が主人に危害を加えるのではないかと疑ったのである。
そっと置かれた手はまだ熱い侯爵の熱を確かめ、宰相の顔は少し動いた。
横に置かれた椅子に腰かけると、執事長が話をするために来た。
「熱はございますが、嘔吐や下す事は無くなりました。王宮医師様から頂いた処方薬が効いたようでございます」
宰相はその言葉を噛みしめるように聞き、少し頷いた。
「青年の頃から知っているが、侯爵は体は頑健であったな?」
侍従長は頭を下げた。
宰相と侯爵は古い知り合いである。一時期宰相が僧籍に入っていた時は、交流は無かったが、オルタンシア公となってからは数十年の知り合いである。
侍従長は子供の頃からの侯爵を知っているから、この二人の因縁の交流は理解していた。
要は侯爵の、無い物強請りであった。
次男でありながら公爵の家を継ぎ、才知に溢れ王の信頼篤く国政を思うがままにしてきた宰相への、拗らせた憧れと嫉妬である。
子供の頃から侯爵を見て来た執事長は、デフレイタス侯爵家が政治的な物が欠如している家系である事が、彼の最大の劣等感である事を知っている。
その代わりに文化的な物への才が有るのだが、それを侯爵は特別な物とは思っていないからなお、宰相への思いが拗れているのだった。
侯爵とブリニャク侯爵のように理解さえできれば親友になれるのだから、宰相と主人もよく話し合いさえすれば、友人になれたと思うのである。
しかし人に関心のない宰相と、少し素直でない主人とではきっかけがつかめず、この年になってしまったのだ。
傍から見ていた者としては、もったいない事だと思っている。 政治と文化の才能のある二人が手を握れば、もっと国は発展を遂げたのではないかと思うのであった。
遅すぎる事は無いが、もうこの二人が仕事で関係を繋いでいく事はないであろうと思えた。時代はもう次の世代が大きくなり、国を背負おうとしているようだからである。
毒で寝込んでいる主人が治ったとしても、もう当代を続ける事は困難ではないかと、執事長は思うのであった。
「侯爵が目覚めたら、私がこの一件に巻き込んで申し訳なかったと謝っていたと、伝えておいて欲しい」
宰相の過分な謝罪に執事長は深く頭を下げた。
「必ずお伝え申し上げます」
宰相は侯爵の顔を見ながら、
「シルヴァン……」
と呼びかけた。
執事長は下がり、宰相の辞しの挨拶を聞かぬようにしたが、主人の名前を呼んだ事に驚いた。
「これで失礼する、……」
最後の言葉は聞こえなかったが、宰相にとってはいつも通りの挨拶であったろう。
部屋を去る宰相に、使用人一同最敬礼で送った。
「主人が元気になりましたなら、必ずご挨拶に伺う事でありましょう」
馬車の中の宰相に、執事長は感謝の気持ちを込めて挨拶した。宰相は首を縦に振っただけで、そのまま馬車は動き出した。
執事長は、馬車が見えなくなるまで見送った。
主が、王の次に敬愛する人物であろうと思っているからだ。
***
その黒い衣装は、喪服の代わりなのだろう。
まだ王太子と第二王子の死亡は公表されてはおらず、国も国王も一切の情報を開示してはいなかった。
それなのに、この女性は早々に王に弔問らしき事を言いに来たのだった。
「公式ではないとはいえ、私の耳に入ったからには、ご挨拶に参らぬという訳にはいきませんのでございますよ。……陛下」
最後の言葉はまるで取って付けたかのような、言いようだった。
衣装は控えめではあるが、化粧はいつもと変わらぬ物で、とても悲しんで駆けつけたという様子ではなかった。
「王太后殿、王妃は突然の事で床に伏せっておりますれば、失礼いたしております」
応対する王は表情は硬く顔色もあまり冴えなかったが、王太后との会話はしっかりとしていた。
「さすが陛下でございますね。お子様をお亡くしになってもしっかりとなさって、頼もしゅうございます」
扇で口元を隠しながら頭を下げた王太后は、そっと唇の端を上げた。
自分の指示の結果を知りたくて、王の居室まで押し掛けたが、王太子達の亡骸には対面させてもらえず、本当に亡くなったのかの確証が掴めなかったのだ。
しかし王の表情や部屋にいる使用人達の様子で、二人の死亡は間違いないだろうと思うのだった。
「決してお気を落とさず、国政に力を注いで下さいませね。特に今は疫病が、王都に蔓延していると聞いておりますから、それを治める為にも陛下のお力が必要でございますもの。どうかお体に気をお付け下さいませ……」
頭を少し下げ、王太后は部屋を出て行った。
王は憮然とした顔で、その閉じた扉を見ていた。
執事長が、王の傍にグラスを持って来て差し出した。執事長は王太后に対しての感想などを言う事はできないから、ただ主人を慰めるために酒などを出す事しかできなかった。
「私が、王太后の罪を許すと言った時、あれほど反対した宰相の言葉通りになっていくのだな……」
王はあの会議の日を思い出していた。
平穏な日々が国に訪れ、自分にも民にも幸福が満ち溢れていると思っていた。
その陰で、罪故に遠くの僻地に幽閉されている、王太后の事を思い出したのだった。
もう王太后も許されてもいいのではないかと、今なら――甘い考えだった――と思うのだが、その時はそう思ってしまったのだ。
宰相は――決して彼女を許してはならない――と言っていた。
――必ずや国の災禍になるはずだから――と。
――私はその言葉を、無視して今こうして後悔する事になっている――




