第70話
リリアスは、病院の中で茫然と立ち尽くしていた。
病気に罹った者の中で治っていく者もいるが、病になる人々の数が日毎に多くなっていくのだ。
とても手に負える数ではなかった。数人の有志が、命を投げうって助ける限界を超えていた。
そのうえ城門にいる衛兵達が、逃げようと押し掛ける人々を抑えきれなくなっている。
これ以上衛兵が留めれば、暴動という最悪の形で事が進みそうだった。
最初はブリニャク侯爵が逃げ出した人を斬った事が、抑止に働いていたが、もうそれも抑えにはならなくなっている。
遠くから人々の叫ぶ声が聞こえ、それがいつ怒号や叫び声に変わるのか恐ろしかった。
「リリアス嬢……そろそろ家に帰った方が良いかもしれないな」
医者のステファヌが患者を診ながら、諭すように言ってきた。
その言葉が正しいし、もうそろそろ色々な事が限界なのも理解できている。しかしだからと言って自分だけ、この場を離れるのが良いかは別の話だ。
「自分だけが逃げると思っているだろうけどね、君は医者でもなければ看護人でもないんだ。ここで今まで手伝ってくれただけでも、私は感謝しているよ」
――いいえ――とリリアスは頭を横に振った。
――きっと上の人が、この状況を何とかしてくれる――と思ってここまでやって来たのだ。ブリニャク侯爵が住人の恨みを買ってでも守ろうとした国の存在を、他の貴族も大切に思っているはずだ。
その人たちに希望を繋ごうと思っている。
「しかし王都の住民の限界は来ているよ。国から支給される食料も足りないし、命の危機が迫っているんだから、住民は我慢の限界をいつ切ろうかと思っているはずだ。何か一つきっかけがあればすぐだろう」
ステファヌはため息を吐いた。患者を診ている建物の外にも病人が溢れ、暑さの中死んでいく。そしてますます、病気が移っていくのだ。
建物のドアが開き外からブリニャク侯爵が入って来た。皮鎧を着て、戦闘の時の姿に近い。
侯爵はリリアスの姿を見て、にこやかに歩いて来た。
「侯爵様!!」
桶で手を洗いリリアスは立ち上がって侯爵を待った。
「見回りのついでに、お前の顔を見に来たのだ。どうだ、病人達の様子は?」
リリアスは悲し気に首を振った。
「ご覧になったでしょう? 外はもうほとんど助からない人ばかりです。せめて最後は室内でと思っても、建物の中も横たえる場所もないのです」
侯爵も下町を回っていたが人の姿は見えず、元気な者は家に籠り病人はとっくに国の用意した建物に移動しているが、そこから生きて出てくる者はごく少数だった。
住民の不満が溜まっているのが分かるが、侯爵にもどうしようもなかった。
リリアスは言い難そうな顔をしていたが、
「侯爵様……お知らせするのが、遅くなりましたが、朝早くデフレイタス侯爵家から使いが来て、侯爵様がお倒れになったそうです。ラウーシュ様がお屋敷に戻られました」
ラウーシュから、二人は仲が良いと聞いていたので、どうやって知らせようかと思っていたのだった。
侯爵は――えっ?――と声を出し、リリアスの言葉を噛みしめた。
いずれ知人にも疫病が襲い掛かるだろうと覚悟はしていたが、まさかあの呑気な男が病に倒れるとはと不思議な気持ちだった。
もっと病との闘いの前線に居る者が、罹るものではないかと、――粗忽者め――と心で詰った。
そして飄々と貴族社会を渡って来たデフレイタス侯爵が、こんな悲劇的な死に方はしないだろうと、何故か思ってしまうのだった。
長年の付き合いから、彼は自分より先には死なないと確信のように思っていたからかもしれない。
「どのような容態なのだ?」
リリアスは頭を振った。
「ただ倒れたとだけで、何も分かりません。もし行かれるなら後で、ご容態を聞かせて下さい」
侯爵は分かったと言って、外に出ようとしたが、リリアスに振り返って、
「もし衛兵が住民を抑えきれなくなったら、お前はオテロと一緒に屋敷に帰るのだぞ? 暴徒と化した民程恐ろしい者はいないからな?」
侯爵の言葉は実感がこもっていた。実戦を生き抜いた侯爵は、その残酷さを身をもって知っているだろうから。
頬の傷と皺と日に焼けた顔は、安穏と貴族生活を送っていた者とは違う苦労を滲ませていた。
侯爵は民の恐ろしさを語ったが、その民を守るために戦場に出て戦ったのだ。けっして民を蔑ろにしている訳ではないのだ。むしろ、国と王の為と言いながらも、街を見回り住民が困っていないか腐心している。
決して貴族の地位に胡坐をかかない侯爵を、リリアスは誇らしく思った。
その時、副官が息せき切って入って来たが、その顔は真っ青だった。
「閣下!!」
副官は侯爵の傍に寄り、礼儀正しく頭を下げたが、近くに来て気付いたがその身体が震えている。
「緊急の用か?」
いつにない副官の様子に、悪い予感がして侯爵は声を潜めた。
副官は口をパクパクと動かすが声を出せず、自分の拳で頬を殴った。
突拍子もない副官の行動に侯爵は目を見開いた。
「……今、王宮から使いが参りまして……っうぐっ……」
声が震え嗚咽が混じった。
「お、お、王太子殿下と……、だ、第二王子殿下が……お、お亡くなりになったと……」
頭を下げた副官はそのまま、声も出さず泣いていた。
「そんな……ば、馬鹿な……。どうしてお二方ともに……」
侯爵は体が痺れるような衝撃を受け、暫し思考力が無くなった。考えられるのは疫病だが、王太子達が罹ったと言う話は聞いていなかった。何故この時に、二人が亡くならなければならないのかと、侯爵は突然に湧いた怒りに身を震わせた。
「何を泣いている、すぐに王宮に行くぞ!!」
侯爵は副官を怒鳴りつけ、傍にいるリリアスの肩に手を置き、すぐ後ろで控えているオテロに頷いて、
「今の話は決して人に、話してはいけないぞ」
と念を押して走って行ってしまった。
――王太子が亡くなった――
平民にとっては跡継ぎが亡くなった事実だけの話だが、貴族達にとっては天地がひっくり返る事だった。
平和で豊かに暮らしていた国が、突然王位を継ぐ者二人を失くしてしまったのだ。貴族たちの力関係は天秤の上でバランスよく保たれていたのだが、そのバランスが今傾こうとしている。
リリアスはデフレイタス侯爵が病に倒れた事といい、王太子達が亡くなった事といい、とても偶然とは思えなかった。
ブリニャク侯爵は城門の守りに兵を残し、副官だけを連れて王宮に行こうとしていた。
しかし王宮への道は民によって塞がれており、馬上のブリニャク侯爵を見つけると、騒ぎ出した。
「赤鬼だ! 人殺しだぞ!」
「人殺し! 平民より、貴族の方が大事なんだろう!!」
以前は――英雄、祖国の救世主――と姿を見ると慕って集まって来た住民は、草原で王都を逃げ出そうとした者達を斬り捨てたブリニャク侯爵を、憎しみを込めた目で見るようになっていた。
仕方のない事とは言え民を斬った侯爵は、疫病で死を意識して生きていかねばならない住民の、うっ憤晴らしの対象になっていた。
侯爵は、何もしない民には決して手を出さないのを知っているから、住民は口汚く罵ってくる。
「閣下どういたしますか?」
副官が慌てて馬を寄せて来る。
往来を埋めた住民を前に立ち往生した二人は、しょうがなく城門に引き返そうとした時、
「兵隊だ!!」
という住民の声が遠くから上がった。
見ると王宮からの道を、多数の兵隊がやって来るのが見えた。
――一体何事だ?――
ブリニャク侯爵は、何が起こっているのか分からなかった。




