第67話
ぺラジーは針を抜いて手を止めた。
顔を上げて布から遠ざかった。
――あともう少し――
ほんの数か所刺せばドレスの刺繍は終わる。
完成させないのは、リリアスを待っているからだ。
一緒に仕事を始めてから、彼女の事は分かっているつもりだった。
だがこの緊急時に彼女の本性を知った気がする。
強く気高く清廉だった。
平民で下町育ちの自分からは、考えもつかない彼女の行動はやはり、――血は争えない――というしかないものだった。
自分は家族しか守る事ができない。それもこの非常時には女の手一つでは、無理かもしれないと思っている。ジラーの助けでなんとか、家族を守っている状態だ。
それなのにリリアスは自分の身を投げうってでも、他人を助けようと頑張っている。
その根底にあるのは、自分が貴族の娘であると言う事以上に、人を助けるという強い意志なのだろう。
それはもう、彼女の持つ特徴としか言いようがないのだ。
リリアスは貴族として生きるのを躊躇っているようだが、もうすでに貴族らしい生き方をしているのを知らないらしい。
「おかしな子だねえ」
ぺラジーは、――ククッ――と笑った。
持って生まれた性質はどんな生活環境でも変えられない。高貴な生まれでも手癖が悪かったり、吝嗇だったり乱暴者だったりするだろう。
リリアスはきっとどんな環境に生まれていても、あの清廉な性格を持って大きくなっていただろう。
それはブリニャク侯爵の性格であり、母親の性格も受け継いでいるのかもしれない。
ぺラジーは真っ当なリリアスが無事に、ここに戻って来ることを祈らずにはいられなかった。
こんな王都が最悪な時期に王妃のドレスが仕上がろうとしているが、果たしてこのドレスは日の目を見ることができるのだろうか。
エイダは裏庭でモットと水遊びをしていた。
モットが庭木に水をやっている所に、退屈したエイダが邪魔をしに来たというのが本当なのだが、二人は案外楽し気に植木に水をやっていた。
「エイダそれは葉にかけないで、根本に水をやるんだぞ」
子供らしく考えもなしにパチャパチャと柄杓で花に水を掛けるエイダに、やり方を教えている。暑くなる前の早朝に水遣りを終えてしまわないと、後が大変なのでこの頃の日課になっている。
エイダは楽し気に柄杓を振り回し、自分に水が掛かっても面白そうに笑っている。
モットは女ばかりの生活にも慣れてはいるが、子供の声や行動が自分の心を癒すのを知らなかった。
やはり何がしかの緊張が有ったのかもしれない。年嵩であっても男であり、何かあれば女相手に不埒な気持ちがあったのではないかと、疑われる状況にあるのだ。
用心棒替わりであったとしても、足の悪い自分が働きやすい仕事はなかなか見つからないから、ここは辞めたくなかったのだ。
「みず、おいちい?」
花にかけながら、顔を寄せて聞いている姿は本当に癒される物だった。他人の子供でもこんなに可愛いなら、自分の子は尚更だろうなとふと思ったが、こんな自分に寄って来る女はいないかと思い直した。
「…………!!」
表通りから人の声が聞こえるが、どうやら男らしい。この朝早くから大声とは何か起こったかと、慌ててエイダを抱き上げ店の中に入れた。
「母ちゃんの所に行きな。出るんじゃないぞ?」
と言いおいて、表の方に走った。
店の前には薄汚れた頭も髭も茫々(ぼうぼう)の男が立っていた。
モットは警戒して腰の小刀を抜こうとしたが、男が手を上げて制した。
「モットさん、俺だベゾスだ!」
モットはその声に覚えがあり、やっと緊張を解いた。
「ベゾスか? どうしてここに居る?」
王都が閉鎖されているのだ、ベゾスがここに居るのが信じられなかった。
どう見ても長く旅してきたように見えるが、彼が向かった町はそれ程遠い土地ではなかったはずだ。
ベゾスは人目を気にするようにモットに近づいて来たが、臭いが酷くて鼻が曲がりそうだった。
「料理修業も大体終わって帰って来たんだが、まさか王都がこんな状況になってるとは思わなくって。城壁の周りで少し様子を見ていたんだ」
洗濯も出来なかったのだろう、男の匂いと汗や埃の匂いでこの暑さで、着ている服も頭も酷い事になっている。モットは体を離した。
「ここに来たって事はぺラジー達が居るって分かってたんだな?」
「ああ、店に行ったら隣が、ぺラジー達は店の方に移ったって教えてくれたんだ。皆無事なのかい?」
「無事さ、なんとか皆病気にならずにすんでる」
突然店のドアが開き人が飛び出して来た。
「あんた!!」
ぺラジーが走り寄ってベゾスに抱き付いた。
「ぺラジー!!」
二人が抱き合うとベゾスの体から埃が舞い上がり、朝日に照らされキラキラとに光っていた
――良く抱き付けるなあ――
モットは酷い臭いの旦那に躊躇せず抱き着くぺラジーに感心した。さすが夫婦という物だ。
「あんたどうしてここに? どうやって王都に入って来たんだい?」
ベゾスは元気そうなペラジーを見て涙していた。汚れた顔に白い筋ができて、その顔をぺラジーの白い手が拭った。
店からエイダが恐る恐る出てきて、母が男と抱き合っているのをじっと心配げに見ていたが、おもむろに走って母を抱く男の傍に行き足を叩いた。
「めっ!! かあちゃん、めっ!!」
母を取られるとでも思ったのか、顔が必死だった。
「エイダ!!」
ベゾスはエイダを抱き上げたが、エイダは髭が伸び放題で汚れている男が父とは分からず、臭くて汚い男に捕まってしまって、恐怖から大声で泣き出した。
「くちゃいよー!!」
この頃は年頃の娘と一緒の為、綺麗でいい匂いのする者としかいなかったエイダはこの強烈な臭いに拒否反応をした。
「ア~ン!! バッチイイよ~!!」
ベゾスの腕の中で大暴れするエイダに、慌ててぺラジーが声を掛けた。
「エイダ! 父ちゃんだよ、よーく見てごらん!」
エイダの腕に触り呼びかけるとエイダはぎょっとした顔をして、髭だらけのベゾスを見た。
大粒の涙を流してしゃくり上げながら、じっとベゾスの顔を見て鼻をつまんでいるので、苦しそうで顔が真っ赤だった。
「と、とうちゃん?」
鼻声で父を呼ぶと、ベゾスはしっかりとエイダを抱き直しエイダに顔を近づけた。
「良く見なよ……、父ちゃんだろう?」
冷静になって聞くと声が父だったのと、エイダを見る目が優しくずっと自分を見つめていた父の目と分かったのか、エイダは父の髭を引っ張った。
「いててて……」
エイダの手の力が思ったより強く、ベゾスは顔を顰めた。
「とうちゃん?」
「ああ、父ちゃんだ。帰ってきたぞ」
エイダは埃まみれのベゾスの首筋に顔を埋め、しくしくと泣き出した。
祖父母と母が居る中で暮らしながらも、父の不在はエイダに不安をもたらしていた。その上に王都でのはやり病の騒ぎが起こり、子供ながらに異常な生活が始まった事が一層の不安を募らせていたのだった。
幼い子供には、その不安も父の居ない寂しさも口に出して言葉にする事が出来なかったのだ。
今やっと父の帰還でエイダの不安は、すべて取り払われた。
父が居る事で、もう何も怖い物は無くなったのだ。
幼い子供が声を忍ばせて泣く姿に、モットも両親も店の前に出て来た縫子達も、エイダの心がどんなに不安定だったか分かったのだった。
まず髭や髪を切り、水浴びをして体を綺麗にしたベゾスは、食堂で義両親の手料理を食べながらここまでの顛末をぺラジー達に語った。
「それで……あんたは、グエンダルって人と、夜中に城壁を登って王都に入ろうとしたっていうのかい?」
「ああ、夕べは月が無い夜だったから、これは行けるなって思ってな、用意したロープで登ったって訳さ」
少しぺラジーの顔が強張ってきたのを、ベゾスは分からなかった。傍で食事を取りながら聞いていた、両親は娘の顔と声が感情を失くしているのに、気が付いていた。顔を振ったり食器を鳴らしてみたが、ベゾスはその合図が分からなかった。
「そこで衛兵の隊長に捕まって……?」
「うん、危うく処罰されそうになったが、必死で妻子に会いたいんだって言って、なんとか解放されたんだ。いやあ……良い人でよかったぜ」
膝にエイダを乗せて、食事にぱくつくベゾスは全くぺラジーの変化に気が付かなかった。
「でも陛下の命令に反したら普通は死罪になっても、文句は言えないよね?」
「……そうかもしれないが、今は非常事態だからなあ、少しは許されるんじゃあないか?」
ぺラジーはガタンと大きな動作で立ち上がり、
「何馬鹿な事やってんだよ!! 下手したら衛兵に斬られたかもしれないんだよ! あんたが死んじまったら、あたし達はどうすんだよっ!!」
と、食堂中に響く大声で叫んで、ベゾスの頭を叩いた。
その顔は涙でくしゃくしゃだった。




