第63話
*注意*
少し残虐な場面があります。苦手な方は、読まない様になさって下さい。
強くもないラウーシュの抱擁でも、互いの体温を感じリリアスは以前より、男性として彼を意識しているのを感じた。
細いと思っていた体は、やはり自分とは違い筋肉が付き硬く骨太なのを感じた。
いつも優美で上品な服装をしていたラウーシュは、それでもやはり男性なのだと改めて分かった。
見上げるラウーシュの顔は、行動とは反対に冷静で口元は皮肉な笑みを浮かべていた。
「この状況で私の本心を告げるのは違うのでしょうが、……貴女が好きですよ」
ラウーシュは顔を近づけると、リリアスの頭に口づけし暫くじっとそのままでいた。
不意に体も拭かず夜を明かしたことを思い出し、体臭が気になって腕の中から逃れようとしたが、それを許されなかった。
「お針子だった時は、身分が低くて妻には出来ないと思い諦めました。今は私の身分が低くて、嫁に来てもらえません」
やっとラウーシュの言った言葉の意味を理解して、ドキリとした。
今まで貴族の若君とは世界が違うと思って接していたが、自分が王族の血を引く身分である事実が、二人の関係をまた変えてしまったのが驚きだった。
冗談で――お前と呼ばないのか――と言ったが、貴族社会に生きる彼にとってその身分こそが、自分の存在意義なのだから、それは無理な事なのだろう。
自分のどこに気に入る所が有ったのかと、聞こうとしたが彼は急に体を離した。
「下町に来てみて初めて知りましたが、人が誰も外に出ていない。私達はただ王都の下町に、はやり病が出たらしいという事しか知らなかった。私達はいつもと変わらぬ生活をしていましたが、この状況を知れば黙ってはいられない」
真剣な顔がやっと彼の本来の顔のように思えて、意外な事に新鮮に感じた。今のラウーシュになら、平民を助ける事でも頼めるかもしれないと思った。
「家の中に看護をして回復した子供がいますが、オテロがその方法を近所の先生に教えました。本当に皆に効くかどうか分かりませんが、もし……お願いできるなら、砂糖と塩と綺麗な水を用意できるでしょうか?」
医者に方法は伝えたが、材料を揃えるにはお金も手も足りないはずだから、誰かの力を借りたかった。
「造作もない事で、知人にも協力を頼んでみよう」
リリアスは感謝で顔を綻ばせたが、
「ただしあなたには、ジラーの工房に戻るか、ブリニャク侯爵の屋敷に戻って頂きたい。こうやって平民と一緒にいて、病になったらと思う事さえ私には耐えられない」
というラウーシュの言葉に固まった。
ラウーシュはリリアスの手を握り、優しく振ったあと、レキュアと共に馬車で走り去った。
小さくなっていく馬車を見ながら、ラウーシュの言葉を思い浮かべていた。
今まで、自分を好きだと言ってくれた人は居なかった。
生活の為に仕事をして、工房にずっと閉じこもっていたから、男の人とも話す機会もなく、周りが結婚していくのを見ても羨ましいとは思わなかった。
自分は人との繋がりを持つのが苦手なのかと思っていたが、ただ単にそういう事を知らなかっただけなのだと分かりかけていた。
ジラーの工房でぺラジーやモットと知り合いになって、やっと自分でも人と繋がっていけるのだと実感するようになってきた。
しかし人を愛するのは、また違う事なのだ。
男性を愛おしいと思う気持ちは、自分にはまだ分からない。貴族の男性が自分を好きだと言い、嫁いで欲しかったというのに、愛されているという実感が湧かないのだ。
平民でも貴族の男性が自分を望めば、心を浮き立たせ喜ぶだろうに、自分はどうかしているのかと思ってしまう。
リリアスは、深い溜息を吐いた。
城門の混乱は衛兵では、抑えきれない事になっていた。
はやり病がとうとう、下町から商人街や一般の平民が暮らす街に蔓延しだし、楽観的に考えていた王都の比較的裕福な住民に危機感を募らせていたのだった。
病に罹った者は酷い下痢や嘔吐に苦しみ、やせ細り死んでいく。周りに居る者も数日後には病に倒れ、同じく苦しみぬくのだから、病人が出た家は隔離され閉じ込められる。それでも病は、飛び火するように周りを巻き込んで進んでいく。
荷車に荷物を積めるだけ積んで城門に押し寄せる住民は、剣を抜き阻止する衛兵を恐れなくなった。それよりも王都に留まる事が命取りになると、知っているからだ。
衛兵の周りは抜き差しならぬ住民で一杯だった。
「何故通れない!!」
「通してくれ!!」
「子供を助けてくれ!!」
集まった住民の思いは、衛兵も同じく感じているのだが、上からの命令は絶対でここを通すわけにはいかなかった。
しかし多勢に無勢で、普段よりは置かれた衛兵の数でも押し掛けた住民の数が勝り、今まさに押し切られようとしている。
降ろされた門の閂が外され外に開くと、住民は我先にと外に出た。
大きな歓声とともに、蟻のように密集した人が――ドドドッ――と地響きを上げ移動すると、その塊は門の外に流れる水のように広がった。
足早に王都を離れようとする群れは、その先の草原に柵のように立つ馬上の騎士達を見つけた。
その数は王都中の騎士を集めたようで、草原を見渡せば途切れる事なく並んでいた。
その中から一騎が剣を地面に向けて持ち、列から抜けて来た。
群衆の前がその姿に歩を止めると、後ろの人々も速度を緩めた。
「お前達よーく聞くが良い。このまま城壁の中に戻るなら何もせぬ! しかし我が前に進むのなら、男女を問わず斬る!」
遠目でも分かる赤い髪の大柄な男性は、草原でも響く大音量で叫んだ。
声が聞こえた人々はその言葉の意味に驚き身を縮めたが、これだけの人に対してできるはずがないと思い直し歩き始めた。
このまま進めば正面で対峙することになると分かる程、両者が近づいた時人々から声が上がった。
「赤鬼だ!」
「ブリニャク侯爵様だ!」
自分たちの英雄が目の前に剣を下げ、騎乗して立っている。
その顔はまさに鬼の形相だった。
その姿に、侯爵を尊敬している者達は恐れ歩みを止めた。
自国の英雄に、自分達は剣を抜かせているという事実に驚愕したのだ。
大半の人々は迷い動揺していたが、赤鬼と呼ばれる男よりも病気の方が怖く、逃げる事しか考えていない者達は、――まさか――と言う気持ちを持ちながらもブリニャク侯爵の横を通り抜けようとした。
民衆がどう動くか目を瞑って待っていた侯爵は、自分の方に駆けてくる人々の多くの足音を感じ取り、――かっ――と目を見開いて、持っていた剣を一閃した。
――ギャアアアッ――
と、男の魂消る声が草原に響き、バタリと倒れ伏す。その光景を見た傍にいる者達は一斉に、叫び声を上げて走り出した。
馬上に居る騎士達は、その逃げる者達を追い剣でなぎ倒していった。
血しぶきが飛び、叫び倒れる者達の声と姿は城門を出た人々の目に映り、恐怖で身動きが取れなかった。
――本当は自分達を斬りはしない――と思っていた騎士達が、巧みに馬を操りいつも見ていた華麗な姿からは想像もつかない程残虐に、王都の住民を切っていく。
人々は今改めて、騎士や衛兵や軍人が戦いで人を殺す職業なのだと、彼らの日の当たる一面しか見ていなかったのだと、思い知らされた。
綺麗な笑顔はただの装飾で、その内実は命令によっては自国の民さえ殺せるのだと知った。
「戻れ! 戻るのだ! お前たちに、王都を捨てる事は許されぬ! 王はここに在るのだぞ!」
ブリニャク侯爵は声を限りに叫んだ。
自国の民を進んで斬りたい兵などいるはずもなく、皆冷静な顔をしているが、それは心を殺さなければ剣を振るう事が出来ないからなのだ。
侯爵は――どうか中に戻ってくれ――と祈っている。
馬の駆ける地響きの音を感じ、斬られる人々の阿鼻叫喚を目の当たりにして、病の恐怖に王都を飛び出した人々は肩を落として引き返して行った。




