第61話
夜中にまた熱が上がったようだ。
寝具の横で椅子に腰かけてアガットに付き添っているが、冷やしている布が直ぐ熱くなる。
お腹は前よりは痛くないようだが、下痢はまだ続いている。
その度に手作りの水を飲ませているが、少しづつ飲めるようになっているので、このまま体力が回復してくれればと、祈るようにアガットの傍に肘をついて、顔を覗き込んでいた。
孤児院で何度こうやって夜を明かしただろう。
次の朝、朝日を見る事なく亡くなった子供の体を抱いて、何度泣いただろう。
もうそんな思いをしたくなくて、子供達が病気になる度に、――ああか、こうか――と試行錯誤してなんとか助けようとしたのだった。
シスターやリリアスの力は小さく、幾度となく失敗し落胆したのだった。
アガットの顔をお湯で拭くと、白い顔が現れてやつれていなければ、エイダと同じく可愛い盛りのはずだ。
親の愛情を得られなくても、兄に大切にされて生きて来たアガットは幸せな子だと思う。
この子の存在が無ければ、ナタンはもうとっくに悪の道に踏み込んでいたはずだ。
妹を助けたい生かしたいという純粋な気持ちがまだあったから、酷い盗みも悪事にも手を染めなかったのだと思う。
それにまだナタンも十歳なのだ。親に甘えたいし、甘えても良い年なのだ。
ナタンにも、人形のような子供の遊ぶ物で遊んでいて欲しい。
まだ間に合うはずだ。
リリアスは、早く夜が明けて欲しいと思った。
「お嬢様、交代いたします」
オテロがクラバットを外し、寛いだ姿で寝室に入って来た。
「ナタンには症状は出ていない?」
「はい、うるさいほど手を洗うようにと言っていますから。ですがお嬢様が来るまでは、手も洗わないで物を食べていたみたいですし、この子の世話をしていましたから、病がうつっていてもおかしくはありませんね」
その通りなので、とても怖い。
「オテロも、ちゃんと手洗いしてね。……それに食事美味しかったわ」
オテロに食料をと頼んだが、リリアスは食事が上手く作れなかったので、結局野営で侯爵の食事を作っていたオテロが台所に立った。
いい年をした大人が、食事も作れないのかと恥ずかしかったが、オテロは反対にリリアスに作って貰う方が、とんでもない事だと言った。
「お嬢様に、食事を作って頂くなんて、旦那様にしかられます」
そう言って、片目をつぶった。
リリアスが食事を作っても、誰も文句は言わないだろうが、きっと不味い物しか作れないと思っている。
「さあ、私が付いておりますから、お嬢様はお休みになって下さい。あちらに寝床を作っておきましたから、ゆっくりなさって下さい」
オテロは何から何まで準備が行き届いており、リリアスはする事が何もなかった。
ロウソクの灯をアガットの傍に置いて、オテロが椅子に座りがっちり腕組みをして、幼い寝顔を見ていた。暗い部屋の仄かな灯がオテロの横顔を映し、大きな影は部屋に揺れていた。
一瞬に感じたが、オテロに肩を揺すられて起こされたのは、日が明けて少し経った頃だった。
「アガットは持ち直したようです。今水をだいぶ飲みました」
リリアスは飛び起きて、アガットを見に行った。
建物のほんの小さな隙間から入って来る光が、寝具に細く差し込んでいた。その光で見えたアガットの顔は、昨日見た干からびた物からくぼんではいる目だが生気が戻っていた。
「アガットちゃん……お腹は痛い?」
アガットは首を横に振り、僅かに笑った。
――このままどうか、治りますようにと、願うばかりだった。
「お姉ちゃん、アガットは助かったの?」
オテロに部屋に入ってはいけないと言われていたナタンは、入り口で体を隠すように覗きこみ、リリアスに聞いてきた。
昨日の心労が顔から消えて、年相応な子供の顔に戻っていた。一晩まんじりともせず、妹の命の心配をしていたのだろうが、オテロの態度から妹は大丈夫ではないかと、希望を持ったのだろう。
リリアスはナタンの体を抱き込んで、頭を撫でた。
「まだ安心はできないけど、大丈夫だと思うわ。ナタン君はアガットちゃんを守る事ができたのよ。とても立派なお兄ちゃんだわ」
ナタンはリリアスの腕の中で、静かに泣いていた。
「いい子……いい子ね……」
リリアスは、この兄妹を助ける事が出来てほっとした。
オテロと三人で朝の軽い食事を取っていると、玄関にノックがあった。この地域で律義にノックをする者などいないから、ナタンもリリアスも頭をひねって、恐る恐るドアに向かいそっと開けた。
ぬっと部屋の中に黒い嘴が入ってきて、リリアスはその異様さに声を上げた。オテロもその声に慌てて立ち上がって、剣を持ち駆け寄って来た。
その嘴は目の所に穴を開けた真っ黒な仮面だった。仮面をつけた人物は灰色のマントで体を包み、羽が付いたつばの広い帽子を被っている。
「誰だ!」
オテロは剣を抜き、その仮面の人物に向けた。
「オテロ殿私だ、ラウーシュだ。驚かせてすまない」
リリアスとオテロはポカンと口を開けて、立ち尽くした。ラウーシュの変な仮面に、気がおかしくなったと思った。
ラウーシュの後ろから、レキュアが顔を出したが、彼は仮面は被っていなかった。
「どうしてここに?」
リリアスの疑問にレキュアが頭を掻いた。
「ラウーシュ様が貴方を心配なさって店に行くと、下町で子供の看病をなさっていると聞きましてね……」
「母がとにかく屋敷を出るなら、病除けの仮面を付けていけとうるさかったのだ」
「その鳥の顔の仮面が、病除けなのですか?」
ラウーシュはこくんと頷いたが、仮面を取る事はしなかった。
よほど侯爵夫人から言い含められているのだろうが、それほど貴族達にも王都でのはやり病は恐ろしくなっているのだ。
「お屋敷の皆さんは、お変わりありませんか?」
もし貴族街に少しでも病人が出たら、王都は大変なことになるからだ。
「ああ、誰も病には罹っていない……。少し二人で話をしたいのだが……」
くぐもった声が遠慮がちに言ってきたので、リリアスはラウーシュを家の外に連れ出した。暑くとも病人がいる屋内よりは、良いかと思ったからだ。
家の軒下の陰に二人で立つと、大きな帽子や黒い鳥の仮面が邪魔になり、互いに声が聞き取りにくかった。
ラウーシュの穴の開いた仮面の下の瞳が、じっとリリアスを見つめてきて、それが真剣に見えるからこそ尚、仮面の姿が可笑しくて口元が笑いそうになって震えてしまった。
「笑うな。私も嫌だが母の言う事は、聞かなくてはならないからな」
「別に、外しても分からないのでは?」
リリアスは――真面目に母親の言う事を聞く息子――と言うのを見て、親子とはそういう物かと認識を新たにした。
「私がずっと被っていたかどうか、母はレキュアに聞くだろう? レキュアは母に嘘付けないから、本当の事を言ってしまう。そうすると、やっかいな事になるから私は仮面を外せないのだ……」
貴族の使用人とは大変だと思わされる話で、レキュアの気苦労に同情した。
「そんな事より、どうしてこんな危ない事をしている。なぜ女達と一緒に、ジラーの店に留まっていないのだ」
苛立ったラウーシュの声は、鈍く仮面の中で響きリリアスの心を揺らす。
この貴族の嫡男に今の気持ちを説明しても、理解して貰えるか分からなかった。
リリアスはゆっくり首を横に振って、説明を拒んだ。
「ブリニャク侯爵の息女であろう? それなのにどうして、自分を守らない」
リリアスの頑なな態度にラウーシュが折れて、言いたくなかった言葉を使った。
「どうしてそれを?」
重大な事を話しているのに、どのような顔で言っているのか分からずもどかしく感じ、思わずラウーシュのマントの端を掴んだ。
「馬車で一緒になった時から、誰だろうと考えていた。オテロ殿が丁寧に扱う女性にはとても興味があったから、レキュアがハンカチをすり替えたのだ。卑怯な真似をして悪かったと思っている。」
「ハンカチを見ただけで?」
「ああ、ハンカチの刺繍の文字の差し方が、私にくれたハンカチと同じだっただろう?」
リリアスは可笑しくて、大声で笑いたくなった。
ラウーシュの衣服や装飾への関心が、人並みではないと分かっていたが、これ程、些細な事にでも気が付く人だったとは思いもしなかった。
「若様!! 貴方は本当に……」
これ以上は失礼になるから言えなかったが、自分と同じく洋裁馬鹿なんだろうなと思った。




